4.ライアーガール/前編


 ひとりだった。

 周りには誰もいなく、広い家に小さな自分がポツンと存在しているだけだった。

 友達もいなかったし、近所付き合いがある家庭でもなかったので隣の家の人の顔すら知らない。

 頼れる人はおらず、酷い孤独感に苛まされる日々が続き、心身ともに弱っていった。

 だがそんな中、ある日突然“光”が目に付いた。

 テレビのような大きさはない、手のひらサイズの液晶画面。

 その画面の向こう側にある輝かしい世界を知ったあの日から、自分はひとりではなくなった。



 #



 クライアントである姫崎に例の写真を見せ、本当に彼を始末していいのかと確認すると姫崎は迷わず肯定した。

 一応あなたのファンらしいけどと付け加えたが、「でもいたらボクが困るから」と取り付く島もなく。

 お気の毒にと少しばかり同情の心が沸いたが仕事は仕事。

 アリスはクライアントからの最終確認を得て、本業の道具を一式通勤鞄へしまった。

 姫崎が提示した二人目の標的、シバリエを始末する。

 どこにいるかは既に分かっている。問題はどこでどのようにして始末するか。

 事故に見せかけるか、自殺のように見せるか、殺し屋の仕事はただ標的を殺せばいいだけではない。

 もちろん問答無用でとにかく片付けてくれと言われれば状況や後始末のことなど一切考えず最速で実行するのだが、今回は殺害方法のリクエストは受けていなかった。

 姫崎が家を出る際に一応聞いてみたものの「オネーさんのお任せで♪」とウインクをするだけ。

 飲食店の注文じゃないんだから……とアリスは頭を痛めたが、お任せと言われたなら仕方ない。

 標的を見つけ次第、その場に応じて最適な方法をその場で考えようと方針を固めた。




 しかし、綿密に練られた計画以外の計画などそう上手くいくこともないのが現実である。


「私、一応臨時講師っていう体でいるんだけど……」


 すっかり日も沈み、警備員が校内巡回を開始するまでもう時間が残されていない。

 アリスはそんな暗い職員室にひとり、残業をしていた。

 まさかテストの採点にこんなに時間がかかるなんて知らなかった、いや知らなくても何らおかしくはない。

 何故なら彼女は教師ではなく、ただの殺し屋なのだから。


「学生時代も机に向かってるの苦手だったのに……この世界に入ればもうこんな机に向かうことも無いと思っていたのに……」


 だがそんなことはアリスの短絡的な想像でしかなく、現に彼女が現場仕事だけに専念出来ているのはトウマという偉大な兄が全ての事務仕事をしてくれるからなのであった。

 項垂れつつも苦手なデスクワークに四苦八苦しながらなんとかテストの採点を終え、アリスは急いで鞄を手に昇降口へ降りて行った。

 無論校舎内は無人であり、どの教室もすっかり消灯している。

 校舎の外から見えるのは非常灯のほのかな明かりだけだった。


(トウマから目立たないように電車通勤にしろって定期券も手配してもらったけど、こういう状況になるとやっぱりバイクの方が楽よね……)


 アリスは職員玄関傍の駐車場を横目にそんなことを考えながらとぼとぼと歩く。

 考え事をしないようにと引き受けた海外での激務に追われている間は、愛車を迎えてその身一つであちこちを駆け巡っていた。

 やはりあれくらい単純な仕事の方が向いているのかもしれない、と現在の時刻を確認して痛感する。

 姫崎には夕方の内に連絡は済ませてあり、寄り道せずにまっすぐ家に帰れと念を押してあった。

 本来その連絡は標的を始末する時間をとるためのものであったが、数時間前の自分もまさかテスト用紙を始末するためにこんなに手こずるなんて思ってもいなかったろう。

 今から標的を探しに行ってもいいが、もしどこかへ出かけていたら徒労に終わってしまう。

 気を取り直してまた明日、もしくは今からトウマに特急で標的の居場所を特定してもらい、深夜の内に始末をしてしまうか……。

 急ぎではない依頼だとどうも気が締まらない。


「……いや、だからこそ今やるべきね」


 まだ三人目という次も控えている、ここでちんたらしている場合ではない。

 そう決めてトウマへ連絡をとるためにスマートフォンを取り出した時、背後の足音が耳に届いた。


「!?」


 革靴が砂利を踏む音、振り返った瞬間に素早く腕が振り上げられる音を聞き、奇襲だと理解する。

 背後に現れた人物は長い獲物を手に大きく振りかぶっていた。

 アリスは鞄を脇に抱えてその打撃を何とか躱すが、砂利道にヒールでは踏みとどまることが出来ずバランスを崩して横転する。

 こんな時間に、一体誰が。

 アリスは素早く奇襲してきた人物の顔を確認すると、半分納得しつつも、しかしもう半分の疑念は晴れなかった。


「まさか、あなたから来てくれるなんて。嬉しい誤算だわ、シバリエ君」

「あれ……? まさか先生の口からそっちの名前が出るなんて……先生もよく見るんですか? ノノの配信」


 鉄パイプを手にアリスと対峙し、彼女を「先生」と呼んでいるのは樋永といながという男子生徒だった。

 アリスが受け持つクラスの生徒であり、その内のひとつのクラス委員。

 姫崎と同じクラスの、小テストがいつも満点の優等生である。


「……どうしたの? こんな時間に登校なんて、何か忘れもの?」

「いや別に忘れ物じゃないんですけど、ちょっとそろそろどうにかしなきゃいけないことがあって」


 樋永という少年はクラス委員に自ら立候補したという優等生だ。

 成績も模試の結果も申し分ない、誰に対しても友好的でどの教師からも評判がいい典型的な“いい子”である。

 困っている人を見かければすぐに駆け寄り、大きな校則違反もしない模範生……というのは、やはり買い被りだったようだ。


 他教師陣から「樋永君は本当に手のかからない子で」なんて何度も聞いてはいたが、アリスは以前から内心半信半疑でいた。

 手のかかる子程可愛い等という言葉を支持するわけではないが、むしろ手がかからないなら何かしらを抱えているはずだからだ。

 それは単に良き家庭で育ったからか、反対に家庭環境の影響でそういう術を身に着けたかのどちらかのはず。

 果たして彼はどちらの“いい子”だろうと思ってはいたが、まさかこんな状況で彼の底が露呈するとは思っていなかった。

 姫崎からの依頼、始末対象であるシバリエとはこの樋永少年のことだ。

 トウマから受け取った写真には、彼の顔がしっかりと映っている。


「先生、今だけっていう臨時講師の割には……姫崎さんと仲が良すぎないですか? 親族か何かですか?」

「いいえ、この学校に来てから知り合っただけよ。あの子が一方的に懐いてくるだけ」

「へぇ~そうなんですか……そっかそっか。……じゃあどうして一緒の家に住んでるんです?」

「……」


 その言葉に、アリスは訝しんだ。

 どうして姫崎宅に自分が居座っていることを無関係の彼が知っているんだ?

 そんな疑問がまずは浮かんだが、数秒後にはアリス自身も自然に気付くことになる。


「そういえば、あなた姫崎さんのストーカー……いえ、ノノのストーカーしてるんですっけ」


 そう尋ねると、樋永は涼しい顔のままにっこりと笑った。

 それは世間一般で思われているストーカー像とはかけ離れている無害そうな少年の姿だが、アリスが驚くことはない。

 どんな風体、容貌をしていようと、彼の所業は既に知っている。


「よく知ってますね、僕のこと。ノノのファンだとか、ハンドルネームだとか。もしかして久慈先生って探偵か何かです?」

「私はただの臨時雇われ講師、そうでしょう?」

「そうじゃなさそうだから聞いてるんじゃないですか」


 樋永が握る鉄パイプは一体どこから持ってきたのだろうと辺りを観察すると、校舎の横にある備品倉庫のドアがわずかに開いているのが目に留まった。

 恐らく文化祭や体育祭で組まれるやぐらの一部だろう。

 先程から彼は敵意なんてありませんよという素振りを見せているが、手に物騒なものを持っているくせに説得力がないぞとアリスは彼を冷ややかな目でじっと見据える。


「ま、先生の正体が何かなんて僕はどうでもいいんです」

「あらそう、それじゃあこのまま帰らせてもらっても?」

「はいどうぞっていうなら、背後から殴りかかりなんてしませんよ」


 樋永少年はハハハと軽い声で笑った。

 そして次の瞬間、彼の顔から感情が消える。


「僕のノノの前からとっとと消えてくれませんか? 先生」


 嫉妬。

 予想していなかったことではない、むしろ一番可能性を高く考えていたことだった。

 有名人のストーカーが、有名人と仲良くしている人物を妬まない方が不思議な話だ。


「あなた、以前から彼女に近付く相手を問答無用で排除してるらしいわね」

「そこまで知ってるんならさっさと手を引けばよかったじゃないですか。そうしたら僕も我慢の限界を迎えずに済んだし、先生もそんな風に足を怪我することはなかった」

「それはそうね」


 先程横転した勢いで左足を擦りむいたらしいのは確認しなくてもわかっていた。

 チョークの汚れ除けとして羽織っている白衣に血が付着しているのが視界の端に映る。

 後できれいに洗わなければいけない、血液は簡単には落ちないのに。


「でもよく私が姫崎家に居候してるなんてわかったわね。やっぱりストーカーだし、家の特定や人の出入り確認は朝飯前ってところ?」

「匂いですよ」

「……は?」


 予想外の言葉にアリスは思わず声を上げるが、樋永はいたって真剣だった。


「同じ匂い、ノノと同じシャンプーを使って、同じ洗剤で服を洗って、生活臭が一緒ということは同じ空間で過ごしているということじゃないですか。どういうことですか? 同性なら問題無いとでも思ってるんです?」

「……よく、わかったわね」

「当り前じゃないですか。僕のノノが誰かと一緒に暮らしているなんて、誰であろうと許すことなんて出来ませんよ」


 ということはつまり、姫崎の住所は特定していないのだろうか。

 わざわざアリスの方からその話を振ったのに、彼は全く別のところに気が付いて住み込みを特定したらしい。

 それは少し予想外の事実だった。


「なので先生、あなたのことを許すことが出来ないので、というか許さないので、消えてください」

「私が消えたら、きっとあの子は悲しむんじゃない? 流石に懐かれているのは私にもわかるし」

「いえそれは大丈夫です。そんなことで悲しむようなノノじゃありませんから」

「いやに自信ありげね」

「もちろん、だって僕はノノのことなら何でも知って」


 乾いた小さな音が彼の言葉を遮った。


「……え?」


 なんだろう、何の音だ?

 そう樋永がじんわりと熱くなる自分の足へと視線を落とすと、右の太腿に穴が開いていた。

 決して小さくはない穴からはじわじわと熱が広がり、赤い血が流れ出ていることを脳が認識するとやっとそこで痛覚が伝達される。


「あ、ああ……あああああ!?」


 途端に足から力が抜けて樋永はその場にうずくまる。

 初めて見る銃創に軽いパニックを起こし、両手で必死に足の傷を塞ごうとするがそんなことでは出血は止められない。


「な、何で!? どうして、え? 僕、撃たれた? どういう……」

「流石にこうなると、どんな涼しい顔をしていた人間でも狼狽える。当たり前のことね」


 アリスの左手には小型のリボルバーが握られていた。

 樋永の足を撃ち抜いたものが何なのかは言うまでもない。

 彼女が抱えていた鞄の口は開かれ、その中には小型ながらも様々な武器が収納されている。

 どんな状況だろうと、どんな手段であろうと、確実に標的を仕留める。

 “殺しのアリス”と呼ばれるからにはそれ相応の理由があるというわけだ。


「ごめんなさいね、話が長くなりそうだったから思わず話を止めてしまったの。私もそこまで暇ではないし」

「えっ……ど、どういうことだ⁉ なんで、ただの先生が、そ、そんな……っ」

「ただの先生じゃないと思ってたんでしょう? 正解、流石優等生ね」


 アリスは樋永へ歩み寄ると、そのまま彼の肩を蹴飛ばして地面へ倒した。

 しかしその衝撃で理性を取り戻したのか、彼は慌てて体を反転させ、うつ伏せの状態でその場から必死に這い去ろうとする。


「逃がすわけないでしょう」


 ヒールでその背中を踏みつけると彼は情けない声で喘いだ。

 最短で確実に仕留める為、銃口は樋永の首へと照準を合わせる。

 発砲音は花火と勘違いされることもあるが、流石に騒がれると周辺住民にバレてしまう。

 そう引き金を引こうとした時、足元で寝ている男は必死の声を上げた。


「な、何も知らないくせに! いいんだな⁉ 僕から何も聞かずに殺して、何もわからないでいいんだ!?」

「……死に際の言葉がそれでいいの?」

「“出来過ぎている”って思わなかったか!?」


 その言葉にアリスは引き金にかけた指を止めた。

 死に際の、たかがちっぽけなストーカーの戯言を聞く必要などない。

 それはわかっている。

 わかっているが、その言葉だけはアリスの行動を制した。


 ――偶然にしては出来過ぎている、都合が良すぎる、これではまるで……。


 あのリスト。

 次の標的「ナンバー」が所持している売買リストの最後の一文がフラッシュバックした。


「……何か知っているの」


 堪えきれず零した言葉に、樋永は口を横に大きく開いて笑った。

 アリスに踏まれたまま、少年は首を一生懸命ひねって命乞いを続ける。


「どうしてノノが大金をはたいてあなたに殺しの依頼をしてると思う? 適当に殺し屋を探していて、その中で偶然、あなたを見つけたと本気で思ってるんですか?」

「……そうなんじゃない? 依頼メールはきちんと自分の目で確認してから受けるか決めてるし、もしかしたら私は彼女の依頼を断ってたかもしれないし」

「そうですか、本当にそう思ってるんなら……思ってたより先生は浅慮な人だったってわけですね」


 アリスから言葉を引き出せたからか、樋永は余裕を取り戻したようにつらつらと言葉を連ねる。


「まさかあの殺しの依頼に僕が含まれてるなんて思ってなかったですけど。そうか……そういうことなのか、ノノ。確かに僕はそうかもしれないけど……」

「何よ」

「ナンバーの正体、掴めたんですか?」


 意外な人物の名前が出てきて、アリスはますます混乱した。

 ナンバーは闇ブローカー、つまり裏社会に生きてる人間だ。

 それも業界歴は二十年以上、どんなに小物であってもそれだけ長い期間生きていられているということは上手く隠れているということ。

 表社会に気付かれずに仕事をしていたはずの人間の名前が、どうして一般人である男子高校生の口から出てくるのか。

 わからない。


「どうしてあなたがナンバーの名前を知ってるのよ。あなた、ただのストーカーでしょう?」

「ただのストーカーじゃなかったってことですよ。僕はノノを誰よりも愛しているし、信仰しているし、信頼しているんです。彼女は僕の光なんだから」


 彼は思い返す。

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