2.ハニートラップ/後編
食事は大体二時間もあればお開きになるか、次の店へ行くかという話が昇るものだ。
ノノの現役女子高生という肩書は伊達ではなく、明日も学校があるので直帰するとのこと。
そしてコウイチの隣の席に座っていた眼鏡の青年もコウイチのことは好ましく思っていないし、ノノを彼女の最寄り駅まで送ると挙手した。
それはつまり、コウイチが銀髪美女を誘うことに成功したということだった。
「次どうします? ここら辺だと俺が好きな店いくつかあるんすけど、アリスさんの行きたいとことかあります?」
「そうですね、えっと……実は都内って全然詳しくなくて」
「え~~??? そんなザ・都会の女って感じなのに!? うっそだ~!」
「それは……だって! の、ノノのマネージャーとして私だって少しはかっこうをつけようと」
(『だって!』って、かっわい~~~~~~~!)
いうまでもなくアリスに夢中なコウイチは今か今かとそのタイミングをうかがっていたが、やはりここまで流れが来たら男がリードを取るべきだろうと口角が上がる。
夜の渋谷の賑わいに乗じて、コウイチはアリスの手を取ると慣れた足取りで細い路地へと彼女を連れ込んだ。
「え、あ、あの? コウイチさん? 急にどうし……」
「だーいじょうぶ大丈夫!」
掴んだ手からアリスの抵抗力を感じたが、男の腕力に勝てるわけないっしょとコウイチは構わず路地裏へと突き進む。
そして人目につかない場所まで入り込むと、そのままアリスを壁へ押し付けた。
雨で剥がれたポスター跡や消された落書きの跡が視界の端にちらつく。
「ノノちゃんほっぽってオレんとこ来たってことはさ、即OKってことっしょ? マネージャーさん」
細い路地裏は人が二人並んでギリギリ歩けるかどうかの幅しかない。
足を閉じられないようコウイチはアリスの足の間に片足をねじ込み、彼女の耳元で甘い声を囁いた。
彼女の綺麗な髪からも、白い首筋からも甘い香水のにおいがする。
うっとりするような、女の色香に眩暈がしそうだった。
「……あ、れ?」
いや、眩暈がしそうなのではない。既に眩暈を起こしている。
視界がぼやけてゆっくり歪んでいくと、意識はそのまま、力なく地面に崩れ落ちた。
一体何が起きたんだろう? と寝起きのような感覚でぼんやりと考えるが、答えを出す気力すらわかない。
ふわふわと夢心地に、路地裏の出口から見える夜の輝きが淡く光っている。
「凄いわね。まさかここまで下半身と脳が直結しているなんて、今時そんな男モテないわよ」
「んあ……?」
「あぁ喋らなくて大丈夫よ、ゴミくず君」
足元に転がるコウイチに目もくれず、アリスは鞄から無線イヤホンを取り出してスマホを片手にどこかへ電話を繋いだ。
先程までのしおらしいお淑やかなアリスの姿はなく、すっかり本来の彼女へと戻っている。
「聞いたわよ、あなた。とんでもないゴミくず男なんでしょう? 気に入った女の子に片っ端から粉かけて、すぐに手を出して、避妊もしないくせに女の子が妊娠したらおろさせて……。極めつけは、それを拒んだ子のお腹を殴るんですって?」
つま先でコウイチの体を転がして、彼の腹部にヒールを押し付ける。
ピンヒールが腹部の肉を圧迫して、ぼんやりしたままの彼は小さく「いたい」と呟いた。
「あなた最悪よ、気付いてないかもしれないけど。可哀想に誰もあなたが最低最悪のゴミだって教えてくれなかったのね。警察官のお父さんは叱ってくれなかったのかしら」
アリスの淡々とした言葉には怒りの感情はこもっていなかった。
姫崎がコウイチのことをゴミくずと呼んでいたのは、つまり彼にそう呼ばれるだけの原因があったということだ。
しかしアリスにとってはこんなことに怒りは沸かない。
こういう人間は今まで何百人と見てきた。
そんな彼女が抱く感想はただ一つ、軽蔑である。
「……あ、オ……レ……何」
「えぇ、体に力は入らないのに意識だけがぼんやりとあるから私の声も全て聞こえているでしょう? そういう香水なのよ、これ」
アリスに接近した際、コウイチは彼女が身にまとっていた香水と称した麻酔を吸ってしまった。
これは今回のような潜入暗殺やハニートラップを仕掛ける時に使われる香水で、標的の意識はそのまま体の自由のみを奪うために用いられるものだ。
もちろん香水を身に着けている張本人は専用の薬を事前に飲んでいるため、吸ったところで効果は現れない。
「オレ……死……?」
「死ぬのかって? 残念だけど、今回はクライアントに『殺さずに殺して欲しい』っていうオーダーを受けているの」
「……?」
「つまり、命はとらないから安心して頂戴。ゴミくず君」
すると先程アリスがかけた電話に応答があったようで、彼女は路地の外へと顔を向けながら何やら話し始めた。
地面に寝ていることしか出来ないコウイチは、明るい夜空をただ呆然と眺めるだけ。
麻酔で思考がはっきりしないし、舌も回らない。
ただ外部から何を言われているか、何をされているかは認識出来る状態だ。
彼女が述べた自分の所業に偽りはない。
だって、オレは有名人だから。
女の子をえり好みする権利だって、気持ちいいことをするのだって、それは個人の自由じゃないか。
なのに勝手に子供なんか作るんだ、女は。
オレのせいじゃない。オレは悪くない……。
これが、コウイチという青年の主張である。
いつも通りならこの主張を振りかざしているところだが、どうにも今回はそう簡単にはいかないらしい。
自分の身の危険を感じながらも、麻酔で低下した判断力は役に立ちそうになかった。
「さて、そろそろお迎えが来るわよ」
「……?」
「よかったわねゴミくず君、クライアントが優しくて。他の依頼人だったら真っ先にあなたの始末を望んだでしょうに、更生のチャンスよ。……ただ」
路地裏にぴたりとくっつくように、一台のボックスカーが止まった。
後部座席のドアが開き、中から男が一人降りてくる。
その男はアリスと目配せをすると、特に言葉も交わさずにコウイチを軽々と担いだ。
まるで事前に打ち合わせをしていたかのように。
コウイチは相変わらず脱力したまま、男に担がれたままボックスカーへと連れていかれる。
ぼんやりする頭と締まりのない口から唾液を垂らしながら、アリスへと視線を向けた。
「『殺してもらった方がマシだ』って思うかもしれないけどね」
彼女の目には怒りの感情も、憐みの感情も見られない。
ただ標的が運ばれていく、その事実を最後まで見届けるだけの眼差しを彼に向けていた。
だが車のドアが閉められるその瞬間。
彼女は遂に視線を外し、手元のスマートフォンでまたどこかへと電話をかけ始めた。
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「あ、オネーさんお疲れ様~。一口飲む?」
「先に帰ってなさいってアレだけ言ったのに……」
「だって~。仕事終わりのオネーさんをお迎えしたかったんだも~ん」
「へぇ、ボディーガードまで頼む割には警戒心が薄いのね」
「あ」
やはりこの食えない女子高生はボディーガードではなく家事世話役が欲しかっただけじゃないか、とアリスは呆れてため息を吐いた。
ごめんね、コレあげるから許して、ね? とフラペチーノを掲げる姫崎を断って、ひとまず彼女の隣に腰を下ろす。
渋谷駅付近のカフェ、外が見えるカウンター席で姫崎はアリスの帰りを待っていた。
繁華街ということもあり駅前は街の光で暗くはないものの、もう夜も遅い時間だ。
姫崎が制服で来ていたとしたら、様々な理由で多くの大人から声をかけられていたろうと思うと、心穏やかにはいられなかった。
「そういえば、今日同席していた眼鏡の男の子。明日からしばらく姿を消すあのゴミくず君のこと怪しんだりしないかしら」
「ん~ふふ、それはダイジョブなのですよ、オネーさん。何故なら彼はコウイチのことが大っっっっっっ……嫌いだからね!」
「そんなに満面の笑みで言うこと?」
「言うこと言うこと! なんなら親指も立てちゃうぜ!」
詳しくは聞かなかったが、どうやらあの青年は心底コウイチのことを嫌っていたらしく、姫崎も殺し屋を雇ったとまでは話さなかったが「お仕置きをするんだ」と話したうえで、今回の食事会のセッティングを手伝ってくれたらしい。
アリスたちと別れた後はこのカフェまで姫崎を送り、アリスから連絡があるまでは同席していたらしい。
「あの眼鏡君はコウイチのやらかしとか全部知ってたからさ、だからオネーさんに感謝してたよ」
「は? 何で私に」
「だって、『どう見ても、この後焼きを入れるんだろうな~……って思った』って。わかる人にはわかるものなんだね~」
「……そう。それはちょっと、……私ももう少し気を付けないといけないわね」
元々慣れていない潜入とハニートラップのせいか、一般人にバレているようでは今回の仕事は「潜入」とはお世辞にも呼ぶことが出来ない。
もっと妹からあれこれとノウハウを学んでおくべきだった……とアリスは静かに項垂れる。
「さ、もう帰るわよ。仕事を終えたら迅速に帰る、これが鉄則なんだから」
「いやいやいや、まだ聞いてない報告があるであろう、アリス君。クライアントであるボクはまだ満足してないぞ」
「?」
「あのゴミくず君は、結局どうやって始末するの?
姫崎の問いを受けて、まさかとアリスは肩を竦めた。
「あなたが殺すなって言ったんでしょう? だから命はとってないわよ。更生施設に入れたってとこかしら」
「更生……おまわりさん?」
「去勢した後、彼が女の子にしてきたことをその身をもって知るだけ」
「……え゛」
「普段は新宿に拠点を置いてる知り合いで、そういうのが趣味な人がいるのよ。躾のなってないワンちゃんを躾けるのが趣味なんですって。誘ったらノリノリで受けてくれたわ」
「…………ボクは、何も聞きませんでした」
「そうよ。知らない方がいいことはこの世にはごまんとあるの」
殺さずに殺してくれ、つまりもうおいたをしないように心を折って欲しいというのが姫崎のリクエストだった。
様々な殺しの仕事を引き受けてきたアリスにはなんてことはない、別段難しくないリクエストだ。
人を殺す方法なんていくらでもある。
今回はこういう方法がベストだった、というだけ。
「それでは満足しましたか? お姫様」
「うむ! 一人目の依頼完遂、ご苦労であった!」
「じゃあ帰……」
「というわけで褒美をつかわそう。……お買い物デート行こ―――!」
「はあ? あんた今何時だと思って」
しかしアリスの言葉などどこ吹く風。
姫崎は椅子から立ち上がるとすぐさま外へと飛び出し、どんどん駅と逆の方向へと突き進む。
「早く早く、オネーさん! 閉店までの勝負だよ~!」
「何と勝負してるのよ……」
「そりゃもう時間!? 今売ってる服は今しかない! もう明日にはなくなってるかもしれない! 今のボクに最高に似合う服が! 今しか! ないの!」
「仮に洋服を見に行って、別にいいのがなかったら?」
「そういう日もあるよね~」
「あのねぇ……」
しかしどんなに止めても姫崎は止まりはしない。
結局、アリスが彼女を追いかけなければならなかった。
夜の眩しい繁華街の中へ、アリスは渋々歩を進めた。
標的一人目、駆除完了。
残る標的、二名。
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