2.ハニートラップ/前編
『まさかあの“殺しのアリス”が潜入なんて、……頭でも打った?』
「わかってるわよ、私にはどーせ“腕”しかないってことは」
都内のある私立高校、職員室の窓に肘を置きながらアリスは髪をかき上げた。
『帰って早々偽装身分証と潜入の手続きしてくれなんて、俺は耳を疑ったけどね』
「今回のクライアントがボディーガードもやれって言うのよ」
『は? じゃあ高校生が依頼人?』
「兼、有名配信者らしいわよ」
『へー』
昼休みの高校ってこんなに静かだったっけ、とアリスは呑気に吹くそよ風に白衣をはためかせながら空を仰ぐ。
青い空を優雅に飛ぶ鳥を見上げて、実に平和な世界の一ページだと目を細めた。
『てっきり、血迷ってアイツの真似事でも始めるのかと思った』
「……」
電話の主が指すアイツとは、アリスの妹のことだ。
「あの子の真似なんて誰にも出来ないでしょ。あの子の潜入技術は神業よ」
『じゃあお前の殺しの腕も神業だな』
「あんたの器用さには負けるわ」
通話の相手はアリスの兄だった。
アリスが今こうして教師として学校へ潜入出来ているのも、彼が裏で諸々の手続きをしてくれたからだ。
兄妹揃って幼少期にボスに拾われ、自分たちで殺し屋の道を選び、最終的に得たものはバラバラだった。
妹はその容姿と柔軟な性格、抜群の社交力を生かして飛びぬけた偽装・潜入力を。
兄は頓着のない性格と器用さが相まって、殺しに潜入に追跡と何でも出来るオールラウンダー。
そしてアリスはというと、彼が言った通りの依頼完遂率の高さ。
すなわち殺しの腕が誰よりも立つということだった。
お互いの得意分野を生かして数々の仕事をこなしてきた遠い日が、ふと脳裏によぎる。
『で、何。次は素性調査だっけ?』
「そう。標的は三人なんだけど、一人しか素性がはっきりしてないの。残りの二人についてはクライアントから聞いた情報をあとで送っておくから」
『了解。ちょうど俺今空いてるから、しばらくはそっちに付き添うわ』
「助かる」
『……ところで』
「なによ、ニヤつくなら顔に出しなさいよ」
『音声電話でなんと無茶ぶりな』
「その死んでる表情筋動かしなさいよって話」
物心ついた頃から一緒にいるのだ。
血は繋がってなくとも家族同然、声を聴くだけで今どんな顔をしているかなんて想像に容易い。
アリスは大きくため息を吐きながら缶コーヒーを口にした。
『いや、クライアントと同居しながらボディーガードってだけでも荷が重いだろうに。子守りなんてお前に出来んの?』
「臨時講師としてすべき授業はちゃんとしてます」
『ガキから一線置かれてそう』
「程よく仲良くしてます、ご心配どうも」
あと未成年をガキって呼ぶのやめなさい。
最後にそう小言を言ってからアリスは電話を切った。
昼休みの職員室はもっと教師で埋め尽くされるのだろうと思っていたが、教師という職種は思っていたよりも忙しいようだ。
早々に昼食を食べ終えた教師たちは次々と自分の仕事をしにどこかへ出て行ってしまった。
突然やってきた臨時講師という身としては、居心地も悪くなく助かることなのだが……少々肩透かしである。
(にしても……二十四時間ボディーガードをするからって、何も学校にまでついてくる必要あるのかしら?)
本来の仕事とは関係のないことに時間を割かれるのは避けたかったが、姫崎がどうしてもと譲らなかった。
本業のおかげで多国語を話せるというスキルから臨時の英語教師として何とか履歴書やら身分証やらを兄に作ってもらったものの、現地で日常会話をするのと授業で教えるのとは全くの別物だ。
下手にボロを出して正体がバレやしないかと、正直授業が終わる度に寿命が縮まっている気がしている。
まさか子供に勉強を教えることが殺しの仕事よりも怖いだなんて、事前に誰かに教えてほしかった。
「
「……あ、はい!」
久慈アリスというのがこの学校敷地内にいる間の自分の名前であることを思い出し、アリスは慌てて呼び声に反応した。
潜入が得意だった妹なら、こういう時もスムーズに対応していたのだろうと思うと眉間にしわが寄る。
「次の授業で補佐をして欲しくて、お願い出来ますか?」
「えぇ、私でよければ。是非」
「わ~よかった。私の授業ではよくプリントを配るんですけど、私いつもモタモタしちゃって……見かねた生徒たちが手伝ってくれるんですけどねぇ」
「へぇ、いい子たちじゃないですか」
「いえいえ、それはそうなんですけど。教師としては頼りないでしょう?」
おっとりとした話し方をする女性教師の誘いを受け、アリスは教材を先に持っていきますねと一足先に職員室を出た。
授業の補佐ならほとんど教室の後方で突っ立っているだけなので、むしろこういう仕事ばかり振ってほしい……と思わず心の中でガッツポーズをする。
だが、次の授業の教室に到着したところで握っていた拳は力なく解かれた。
「あ、オネーさ~~~~ん!」
「……久慈先生と、呼びなさい。姫崎さん」
チャイムはもうまもなく鳴るであろう。
これからおよそ一時間、このクラスの全生徒から向けられる稀有の眼差しを耐えなければならないのか……と。
アリスは気が遠くなった。
#
二十四時間のボディーガード、しかもクライアント宅に住み込みと、最初に耳にした時は一体どんな暮らしを強いられるのだろうと気が重かった。
本来、そんな煩わしい追加オプションが発生しなければ(そもそもそんなオプションはないのだが)いつも通り適当なホテルに拠点を作り、仕事を進める。
ホテルであれば寝る場所も水回りも常に清潔が保たれるし、食事もルームサービスを使えば外に出る手間すら省ける。
だからまず最初に抱いた感想は、面倒なことになってしまった……というもの。
そして姫崎宅に到着して抱いた感想は、高額納税者……だった。
立地の良いどでかい高級デザイナーズハウスから都内の一般高校に通う女子高生がこの世に存在するなんて、誰に話せば信じてもらえるのやら。
何畳あるか考えたくない程広いリビングに、部屋数は片手では足りず、ほとんど使ってないであろうシンクはほぼ鏡として使える程磨かれていた。
そんなお宅に足を踏み入れてから何時間か経過し、時刻はそろそろ日付が変わる頃。
アリスは姫崎から今回の依頼を完遂するまで自由に使っていいとあてがわれた部屋で、今出来る簡単な事務仕事を片付けていた。
隣の部屋からはかすかに姫崎の声が聞こえてくる。
スマートフォンで配信サイトを確認すると、人気配信者ノノのチャンネルには「現在ライブ中」という表記が出ていた。
(本当に有名配信者だったのね……)
そちらの世界に詳しくはないが、最低限の知識としては心得ているつもりだ。
「配信者」といえば今や職業のひとつとしてあげられるもので、ネット上での芸能人といえばよいのだろう。
……とまぁ、その程度の知識しかアリスにはなかったが別段これ以上詳しく知る必要もなかった。
ノノの配信画面にはゲームのプレイ画面と彼女本人の顔をワイプしたものが表示されている。
だから先程から大きな物音が聞こえてくるのか、とそこでようやく隣室で起きている騒動を把握した。
どうも大変に白熱しているらしい。
「ゲームねぇ……」
ふと、最後にやったのはいつだろうと考える。
ゲーム好きな兄は今でも複数のソーシャルゲームや、据え置きの新作ゲームが発売されれば一通りチェックしているだろう。
反対に自分と妹はどうにもゲーム音痴というやつで、いくつか試してみても楽しめなかったなぁ……と、苦い思い出がよみがえる。
そして隣室の女子高生はというと、大声を上げながらもこうしてゲームをしているということはきっと彼女はゲームが好きなのだろう。
そんなことを考えていると猫のような鳴き声が隣室から聞こえ、それを境に隣室は静かになった。
再度スマホの画面を見てみると「ライブは終了しました」という文字が並んでいる。
どうやら今日のお務めは終わったらしい。
アリスは椅子から立ち上がり、ドアを開いてだだっ広いリビングへと向かうと流し台に漬け置きしておいた食器へと手を伸ばした。
「あー!! 気にしなくていいって言ったのに!」
「っ!?」
背後からの突然の大声に肩をびくつかせてアリスは振り返る。
すると廊下からズカズカと大きな足音を立てて、部屋着姿の姫崎がこちらへ向かって来ていた。
「ボクの配信中に生活音入ると思ったんでしょ、オネーさん。うち全室防音だから気にしなくていいって言ったのに!」
「気になるでしょう。あなた一人暮らしって公言してるんだから、少しでも何か音が入ったらやれ彼氏がいるだ、泥棒でも入ったかって大騒ぎになるわよ」
「ん? そしたらオネーさんもボクの配信に出ればいいんじゃない?」
「殺し屋がそう簡単に顔出し出来るわけないでしょ。ほら、明日も学校でしょ。早く寝なさい」
「今時のJKがそうそう早寝早起きするワケないじゃ~~ん。ってゆーか、ボクがお皿洗う」
「食器がどこにしまってあったかもわからない人は洗わんでいい」
「え~~だってオネーさんがご飯作ってくれたんだよ? ボクに。だからそのお礼で洗うよ~男飯だったけど」
「放っといたらあなたお菓子しか食べないからでしょう!?」
「ボクは甘いものしか食べないの!」
そうやんややんやと口論をしながらもアリスはすっかり皿を洗い終えて、姫崎を自室へと押し返す。
この家に到着してからというものの、もうずっとこんな感じだ。
これではボディーガードではなく家政婦じゃないかと、アリスは文句を言いたかったが言ってもどうしようもないのでぐっとこらえているのが現状である。
これ以上お姫様のわがままに付き合っているわけにはいかない。平和ボケして本業を怠るわけにはいかないのだ。
「はいはいお姫様は早く寝なさい、お肌に悪いわよ」
「仕事でもらった高級化粧水つけてるから大丈夫だも~~ん!! オネーさんだって喜んでたじゃん!」
「そっ、それとこれとは話が別よ! こっちだってまだ仕事が残ってるんだから、あなたは早く……」
「あ、そうそう。セッティング出来たよ、オネーさん」
「?」
何のセッティング? とアリスが足を止めると、姫崎は自室に駆け込みまたすぐに廊下へ戻ってきた。
綺麗なネイルが施された少女の手には、分厚い茶封筒が握られている。
「“お仕事”の一人目とのセッティング。明日の夜八時から、配信者仲間でご飯しようって」
「……」
「で、別にボクとはそこまで仲良し~って感じじゃない人だから。一応他にも人を呼んだんだけど、殺して欲しいのは一人だけね」
姫崎はポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、この人とSNSの個人ページを表示してアリスへ見せた。
「殺して欲しいのは、このコウイチって人」
「……この間ファンの子が言ってた人物ね」
アリスが確認すると、姫崎はうんうんと頷く。
「それで~……あのね、オネーさん」
「何。依頼内容に含まれることなら聞くし、業務外なら断るだけよ。おねだりしてもそれは変わらないわ」
「ん~じゃあ大丈夫かも! あのね、このゴミくず野郎って本当に許しがたいゴミくずなんだよ! だから、ボクはコイツを懲らしめたいわけ」
「……それで?」
「だからね、もし出来るなら」
殺さずに、殺して欲しい。
姫崎がいたずらっぽく笑いながらそうリクエストすると、アリスはただ一言「了解」とだけ返事をして茶封筒を受け取った。
##
定刻になると予定通りに渋谷駅前に4人の男女が集った。
その場での挨拶を軽く済ませると予約の時間も迫っていたため、一旦飲食店へと場所を変える。
店内は程よく暗くテーブルもそれぞれ離れているため、評判通りゆっくりお喋りをしながら酒と料理が楽しめる店らしい。
姫崎が店員に予約の旨を伝えると、店員は「お待ちしておりました」と気持ちの良い笑顔で応対して彼女達を奥の半個室の席へと案内する。
姫崎曰く、メニューも適当に事前に頼んでおいたため待っていれば適当にご飯がやってくるとのこと。
席に着いてからそれぞれアルコールを注文し、グラスが行き届いてから早速乾杯をする。
「え⁉ ノノちゃんマネージャーさんいたの!? フリーじゃなかったけ?」
「それがね~ボクが個人的に『マネちゃんして!』ってお願いしちゃったのだ~! いえ~い」
「えぇ~いいじゃん、美人マネさん。羨ましい~いえ~い」
眼鏡をかけた青年がそう口にしながらグラスを掲げると、姫崎も合わせて自分のグラスをカチンとぶつけた。
もちろん、未成年である姫崎のグラスのみソフトドリンクである。
いちごミルクと思われるピンク色の液体にはたっぷりとホイップが乗り、更にいくつかのお菓子が突き刺さっている。
だが、今の彼にとってはそんなことはどうでもいいことだった。
彼、コウイチという青年にとってそれよりも気になること、優先すべきことはその姫崎の隣にある。
「ノノちゃんのマネさん、なんて呼べばいっすか? オレはコウイチ、よろしく~」
「名乗るほどではないと思うんですけど……じゃあ、アリスで。よろしくお願いします」
「アリスさん? えっなに、芸名?」
「まぁ、そんなところです」
コウイチは向かいに座る銀髪美女に全神経が集中していた。
ノノから食事の誘いが来た時、最初は喜んだものだ。
ノノもまたそこらの女とは比較にならない可愛さがあり、ノリの良さもある。
少しマイペースなところが面倒そうだなと常々思っていたが、もう少し仲を深められれば……と狙っていたところ。
しかし問題は今自分の隣に座っている男だった。
ノノだってこいつがオレのことを嫌いってことは空気を見りゃわかるっていうのに、どうしてよりにもよってこの面子で……と。
ただ人の金で飯が食えそうなこともあって、とりあえず行ってみて、だるかったらさっさと帰ろうと考えていたのが今朝のこと。
だがどういうことか、どういう引き合わせか?
ノノにこんな美人のマネージャーがいるなんて聞いてない。
そんな噂をしている同業者もいなかったはずだ。
駅前で合流してからというもの、コウイチの頭の中はこの後どうやってこの銀髪美女マネージャーを連れ出すかということしか計算していなかった。
「アリスさんマジかわいいっすね~、めっちゃ言われるっしょ? ナンパとかマジ多そう」
「いえいえ、そんなことないですよ。今日はノノのお友達が同席すると聞いていたので、少し綺麗にしてきただけなので」
「少し綺麗にしただけでそれはもうヤバいじゃないっすか~。オレ、マジでアリスさんどタイプで、正直駅で会ってからもう心臓ばっくばく!」
コウイチが楽し気に声を出して笑うと、アリスも釣られて笑った。
(これは、いけるだろ)
コウイチは勝利を確信していた。
この業界は若い人間が多く、まだ二十代前半のコウイチから見ても年下が非常に多い。
特に女性はアイドルと同様若ければ若い程売れるので、ある一定の年齢を超えてくると年齢を非公開にして活動する人間が大半だ。
もちろんコウイチも年下の女の子の方が可愛いと思うし、何より年上というアドバンテージをこちらが取るだけで彼女たちは皆すぐ従順になる。非常に扱いやすく、何かトラブルが起きそうになってももみ消すことも容易いものだ。
そんな経験を培っていても、どう見ても今目の前にいる美女が自分より年上だとわかっていても、それでも彼の本能は欲しがらずにはいられなかった。
やはりいくら輝きがあったとしても、小さな石ころたちは大きなダイヤに勝つことは出来ないのだと。
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