第5話

 なんの結論も出なかった電話が終わり、寝室に戻ると、伊吹はまだ、目が醒めていなかった。


 ベッドの横に座り、伊吹の分のミネラルウォーターのペットボトルをサイドチェストの上に置く。せめてこれくらい、とまた冷蔵庫から出したゼリー飲料も隣に置く。


 そして、刹那は伊吹が眠っている横に、ごろん、と転がって、伊吹の横顔を見つめた。


 一応、と、確認の為に、伊吹の手枷とベッドサイドに繋がる太い紐がちゃんと役割を果たしているか、と触れる。大丈夫そうだった。伊吹は、逃げられない。


 ブランケットをめくり、いつもの癖で、伊吹の胸元のペンダントに触れる。伊吹の裸の胸の上で、刹那の執着と、伊吹がそれを受け入れてくれた印を弄る。GPSは初めから付いていたが、盗聴器は籤浜大志が亡くなってからまた付け足された機能だった。ちゃんと、許可もとった。ベッドの上で、伊吹に触れて、貫きながら。


 その時のことを思い出すと、また昂ってくる。伊吹には、まだ陽が高いうちからした情事の跡が色濃く残っている。だから刹那は伊吹に触れた。


 肩を抑えつつ、首筋を舐める。ん、と伊吹から声が漏れた。それに、刹那は笑う。


 敏感になってくれて嬉しい。最初は、くすぐったがるだけだったから。後ろは、最初から入れたら刹那の名前を呼びながら喘いでいたけれど、それは本人は「刹那が可愛かったからで、感じていた訳では……」とか言っていた。まあ、でも、今たくさん喘いでくれるし、気持ちよさそうにしてくれるし、伊吹の後ろは、すっかりと柔らかく刹那を包んでくれるし、と、不満は一切ない。


 そ、と後ろを触れるが、まだ柔らかそうだ。今日の朝、マンションに連れ帰って、電話の時間の直前までずっとしていたから、当然かもしれないが。

 

 伊吹の顔に口付けを落とす。耳に触れて、耳殻を食んで、穴に舌を入れる。気を失ったままの伊吹が顔を背けようとするが、なら、また向けられた耳をまた同じ様にするだけ。うぅん、と、伊吹は唸る様に、眠りながら、喘ぐ。


 満足するまで耳を責める。その内、仕事中でも耳元で囁いたら、顔を赤くするのかもしれない。伊吹が、毎夜刹那と過ごしているのが、他の社員にバレるのかも。どちらが上か下か、も。


 でも、千秋曰く、「由香里経由で、お前らの関係に気づいている社員がいる、とタレコミが来た」とか。でも、「どうやらお前が下だと思われているから、俺は何もしないぞ」と、千秋は言っていた。


 別に、刹那が下と思われて、社内で刹那が色眼鏡で見られるのは構わないが、伊吹が色眼鏡で見られるのは嫌らしい。だって、男とは不埒なものだ。伊吹の若く見える顔立ちと姿勢の良さと、穏やかで優しい性格に、誰かが伊吹の具合を確かめようと近寄るかもしれない。なら、刹那が下と思われていた方がいい。刹那が襲われたら遠慮容赦なく、思いっきり抵抗して、相手をぶん殴り強い握力で急所を潰し、そして、社長の弟という地位をフルに使って堂々と相手を潰すことぐらいは、刹那は躊躇わないのが、千秋は知っているから。


 伊吹は、相手を潰すときは、なるべく周りに迷惑を掛けないようにしている。だから、いつもこっそりと動く。助けさせてくれるかも、分からない。目的の為に、1人になる事も、伊吹は辞さない。


 だから、刹那が下と思われている方がいい。刹那も、仕方がない、と納得している。


 ――でも、本当は、こんなに敏感で、可愛いのに。


 刹那は、笑いながら、伊吹の体に触れる。そして、額にそっと、口付けを落とす。


 伊吹の瞼が、ゆっくりと動いた。そして、唇が震えた。



 おとうさん。



 伊吹は、確かにこう言った。


 刹那は目を見開いた。瞬時に頭の中から血液が全てなくなったように冷えて、伊吹の腰に跨って、ぐ、と伊吹の喉を掴む。起きろ、と、一筋の涙を溢す伊吹の頬に触れて、低い声を意識して、名前を呼ぶ。


 伊吹の黒い瞳が、ゆっくりと開く。


 刹那をしっかりと見つめる。少しの間の後、残念そうに瞳が伏せられた。


「伊吹」


 我ながら、冷え冷えとした声が出た。


「また、父親の夢を見ていたのか」


 伊吹は、答えなかった。それが、答えだった。


 伊吹、と、喉から手を動かさないまま、伊吹を睨む。


「いい加減、あのアパートを手放せ」


 伊吹は、首を絞められているのに、両手を拘束されているのに、首を横に振った。











 



「医者も言っていた。形見を持ちすぎても、よくないと」


 伊吹の首から手を離す。もう逃さない、という思いを伝える為に、拘束された両手首を更に掴んで、体重をかける。

 

「手放せ、と、言われていただろう、伊吹」

 

 そらされた視線を無理やり合わせて、刹那はその瞳で伊吹を捉える。


「あいつは、伊吹にアパート経営をするよう求めていた訳じゃない。手放す場合の事もちゃんとノートに書いていた。毎週、伊吹が行かなくても、他に委託する事も、また書いていた」

 

 伊吹の唇が、わずかに震えた。


「伊吹、手放せ。もうよくない、あのアパートは」


 あのアパートは、籤浜大志が自ら場所を選んで、設備もこだわって、建設会社も全て自分で決めて建てたアパートなのだという。あのアパートも売ってしまえば、倒産後すぐに金を全額返せたのに、持っていて、そこに住んでいた。住人との仲も、近所の仲も良くて、あそこに関わる人間全て、籤浜大志の事を知っている。だから、伊吹があのアパートに行くのは、よくない。伊吹のためにも。


 しかし、伊吹は、首を振った。


「親父が、喜んで、くれるかなって」

「伊吹。さっきも言ったが、あいつは手放した後の事もノートに書いていただろう。知っているだろう。伊吹がアパート経営をするのを、望んでいた訳じゃない」


 籤浜大志の望みは、伊吹が自由に幸せに生きる事。こんな状況、籤浜大志だって望んでいないのは、いい加減、刹那だって分かっている。


「伊吹。父親の事を思うのなら、父親の面影を追うのは止めろ。父親だって、伊吹と向き合えなかった。伊吹のせいじゃない。そもそも、父親が自殺したのは、伊吹のクソ兄を、」

「分かってる」


 伊吹は、ぐしゃぐしゃな顔で、刹那の言葉を遮って、こう言った。


「分かってる。分かってるよ、刹那。親父は、本当は優しい人だって。俺のことだって、愛してくれてたんだって。俺は、和樹のスペアなんかじゃなかったんだって。俺がいつまでも引きずってるの、きっと望まないって」

「なら!」

「でも、でも、俺、これ以外の償い方が、親父との繋がり方が、分からないんだよ、刹那!」


 伊吹は、泣きながら大きな声でこう言った。ごめん、ごめん、と伊吹は、何度も、刹那に謝った。


「俺、親父に対して、ずっと真っ当じゃなかった」


 伊吹は、涙を流しながら言った。


「礼儀作法に厳しいだけで、親父をずっと冷たい人だと誤解してた」


「子供に父親の悪口吹き込む奴らが真っ当なはずはないのに、そいつらを信じてしまった」


「そいつらの言い分も、よく考えてみればおかしい事ばかりだった」


「ばあちゃんは、真っ当に生きろ、と言っていたのに。俺、親父と真っ当に向き合って話もせず、逃げてしまった」


「親父は、俺に助けを求めていたのに。俺、親父の唯一の子供になったのに」

 

「俺を、捨てずにいてくれた人を、俺は捨ててしまった!」


 伊吹の慟哭を、刹那は止められなかった。

 違うとも、悪くないとも、言えなかった。元部下達は、籤浜大志を気にかけていたが、籤浜大志の身内は、誰も、彼の事を深く気にかけてなんかいなかった。――伊吹でさえも。


 籤浜大志は、伊吹を愛していた。

 でも、伊吹からの愛情は、籤浜大志は信じていなかった。


 部下達にも慕われていたのに。でも、そんなの知らないとばかり、長男だけを選んで、自分から死んでしまった。


 でも、そうなったのは、籤浜大志のせいだろうか。周囲が、勝手に籤浜大志の事を仰ぎ見て、籤浜大志の本当の姿を、見ていなかったのではないか。


 ふと、思う。籤浜大志には、対等に話せる友人なんていたのかと。


 いなかったのだろうな。伊吹における、千秋のような人は。

 

 狭い世界の中にずっといて、もしかして助けがあったのかもしれないのに、皆、籤浜大志なら大丈夫、なんて、籤浜大志を誤解して。籤浜大志は、クソ親族に囲まれていたのもあって周囲なんか頼れなくて。下手に籤浜大志も優秀で努力家だから、結局、誰かを頼るなんて知らないまま、死んでいった。


 後の祭りだった。

 だって、籤浜大志は、もう、帰ってこない。


 1人で、苦しんで、勝手に死んでしまった。


「刹那」


 鼻を啜りながら、伊吹は、涙を流して刹那の名を呼んだ。


「お願いだ、頼む。俺、あのアパートに住みたい」


 刹那は、目を見開いて、伊吹の手首に力を入れた。


「親父との繋がり、もう失いたくない。会社も、辞める。だから!」


 そんな事、許されなかった。


 刹那は、口付けで伊吹の口を塞ぐ。唇を噛んで、痛みを与える。その最中、サイドチェストから、いつか伊吹に使おうと思って用意していた道具を、たくさん、たくさん取り出す。


 伊吹は、顔を真っ青にしていた。怖がっていた。けれども、何度も何度も、頼む、と譫言の様に呟いた。


 刹那は、聞かなかった。


 キスで唇を塞ぎ、道具を腹の中に入れ、足まで拘束し、敏感な場所に何度も触れた。


 小型の道具を腹の中に入れたまま、伊吹を貫いた。気持ちよかった。伊吹も、苦しそうなくらい震えていて、何度も意識を飛ばしかけた。その都度、快楽で無理やり起こした。


 起きる度、伊吹は、「頼む、頼む」と言い続けたから、刹那も止められなかった。















 流石に疲れて、伊吹を拘束したまま、腹の中の玩具に任せて責めている間、刹那は伊吹の頭の横に座って、床に足を投げ出して考える。思い出す。


 籤浜大志の、あの姿勢が良くて育ちの良さそうな、痩せた背中を。


 顔は見えない。だって、刹那は、籤浜大志の素顔なんて、知らないから。どんな笑みを浮かべるのかすら知らない。いるのだろうか、籤浜大志がどんな風に笑うのかを知っている人間なんて。


 伊吹の体を、胸の上のネックレスと一緒にそっと触れる。刹那の手に、次何をされるのか分からず、伊吹の体は恐怖に強張る。そっと、刹那は伊吹に口付けをする。舌を絡ませる。そうだ、と気がついて、サイドチェストの上のミネラルウォーターの蓋を開き、中身を口に含んで、伊吹に口付けして、飲ませる。


 伊吹は、まだ諦めない。刹那との同居を辞めたいって言ってくるから、まだ止められない。伊吹が、諦めるまで、籤浜大志の事を忘れてくれるまで、このベッドから逃さない。その分仕事も休むことになるが、千秋も、きっと許してくれる。


 体には何度も触れて、伊吹の敏感な場所は全部知っている。


 けれど、伊吹のずっと抱えていた、伊吹自身ですら気がついていなかった本心には触れられない。その本心に触れられる人間は、勝手に1人で、長男と会える保証もないのに死んでしまった。


 どうすれば、よかったのだろう。


 刹那は、自分に問いかけるが、答えは出ない。


 ああ、そういえば、と思い出す。


 上司に連れられて、籤浜大志を職務質問の末に殺した警察官2名が、なぜ籤浜大志を見つけた時、あんなに疑ったのか、理由を必死に話していた。伊吹は、自殺という事実に呆然としていたけれど、刹那はちゃんと聞いていた。


『あの人、譫言で、苦痛に耐えれば解放が待っている、って言い続けていたんです』

『だから、薬物で、幻覚を見ているに違いないって、そう思ったんです!』


 そう、責任逃れを言っていた。


 今、ベッドの上にいる伊吹を見る。伊吹は、苦しそうに喘いでいる。どんなに苦痛に耐えても、刹那は伊吹を解放しない。耐えた所で、解放なんて待っていない。


 なのに、籤浜大志は、それが、唯一信じられる信念とばかりに、中毒症状に耐えていた。苦しかっただろうに。助けが、欲しかっただろうに。でも、苦痛に耐えれば解放が待っている、なんて、馬鹿げた信念に囚われた。


 どこで身につけたのだろう、そんな信念。




 誰か、その信念を折るような人間は、籤浜大志にはいなかったのだろうな。


 籤浜大志が抱えるものを、無理やり肩代わりしてくれる人間は、いなかったのだろうな。


 死ばかり見ている籤浜大志の肩を無理やり掴んで、生きる道を指し示す人間は、いなかったのだろうな。


 籤浜大志の誰にも言ってなかった本心を無理やり暴ける様な人間は、いなかったのだろうな。


 それができるくらい、籤浜大志の事を知っていて、籤浜大志に思い入れが深い人間なんて、いなかったのだろうな。


 じゃあ、籤浜大志が死んだのは、仕方がない事だったのだろうな。





 刹那は、そう思うと、伊吹に口付けで何度も水を飲ませた後、道具を抜いて、伊吹の後ろを、また貫いた。あ、あ、と伊吹は喘ぐが、馬鹿な思いが消えるまで、刹那は止める気は無い。


 刹那は伊吹を解放しない。


 苦痛の先には解放なんて存在しない。

 死者を追い求めた所で何もならない。


 それを、伊吹に教えるため、何度も何度も、伊吹に精を注ぐ。



 ただ、俺の側で、生きていて。 



 そんな事を囁きながら、刹那は、何度も何度も、伊吹を、縛り付けるかのように、体を繋げる。


 いつまでも、籤浜大志の輪郭は、色濃く、伊吹から消えなかった。

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