第4話
ぐ、と、ベッドサイドに繋げられた左右2本の太い紐と、伊吹の左右どちらの手にも付けられた手枷がちゃんと繋がっているかを確認する。
伊吹の、熱が身体中に巡ったせいで赤くなった腕は、力がない。顔を見ると、涙の跡そのままに、瞳を閉じて、気を失っている。
足も拘束具をつけようか、と考えるが、時間がそろそろ迫っている。仕方がない、と刹那は少しため息をついてから、GPSと盗聴器が仕掛けられたネックレス以外、何も身につけていないベッドの上の伊吹の素肌にブランケットをかけた。
そして、刹那は伊吹の頬に口付けを落としてから、下着とジャージのズボンだけ履いて、スマホを持って自分達の寝室から出て行った。
電話の向こうの相手は、重苦しいため息と共に、『こうなるとは、思わなかった』と、どの顔で言う、としか言いようのない言葉をこぼした。
『伊吹が、兄さんの事を、こんなに引き摺るなんて』
『君、毎日ちゃんと鏡を見ているのか、瀬川彰』
3人で電話ができる機能を使っているから、千秋と瀬川彰の声がスピーカー機能をオンにした刹那のスマホから聞こえる。だから、刹那が瀬川彰に言いたかった事も、千秋が代わりに言ってくれた。
『だから、俺達は伊吹にあんたと縁を切れ、と言ったんだ、瀬川彰。籤浜大志とあんたは顔が似過ぎている。あんたと話す時の口調も、まるで少年の頃みたいに可愛くなって。嫌な予感がしていたんだよ、初めから』
瀬川彰は、千秋の言葉に何も言えない、というように唸った。勿論、刹那も千秋も、それで止める気は無かった。
「昔から、父親とあんたを重ね合わせていたんだろうな、伊吹は」
刹那は、上半身になにも着ないまま、ダイニングテーブルの椅子に座って、ペットボトルのミネラルウォーターを飲む。伊吹にも、起きたら水分補給をさせなくては、ともう一本のミネラルウォーターも出してテーブルに置いてある。
冷蔵庫から出してそのまま伊吹に飲ませるには、季節が少々ズレている。刹那は、筋トレ代わりに懸垂もよくしているので、体温も高くて、上半身裸でも平気だが、伊吹はまるで、昔に戻ったみたいに痩せてしまったから。あまり冷たいままでは辛いだろう。
「しかも、あんな遺書まで残されて。部下達にあんなに罵られて。……泣く事ができる様になったのも、最近なんだぞ」
『……』
瀬川彰は、また唸った。
『兄さんの事を、慕う部下があんなにいたとは』
『加賀美さんが言っていたよ。粉飾の事を籤浜の会社で暴いた時、親族の役員達は、籤浜大志を罵っていたけど、でも、従業員達は、皆、籤浜大志を庇っていたって』
千秋は、静かに言った。
『籤浜大志に損害賠償を請求した銀行にも、彼らは籤浜大志には情状酌量の余地はある、と嘆願しにもいったらしい。……全く、羨ましいほどの慕われっぷりだ』
千秋のため息混じりの声が聞こえる。
『損害賠償の判決の時も、部下達は来ていたよ。……泣いていた人間もいた』
瀬川彰は、1人で籤浜大志の裁判の傍聴に行って、その後で2人で会って、籤浜大志に色々聞いたらしい。生活は大丈夫か、とか、返済の手段は、とか。全部、籤浜大志は、「気にするな」と返したらしい。1人で全てなんとかする、迷惑はかけない、と、籤浜大志は、その時に瀬川彰に言っていたらしい。具体的にどう返済していくか、どう1人で誰にも迷惑をかけずに暮らしていくか、も籤浜大志は全て説明したらしい。だから、瀬川彰はそれ以上、籤浜大志に何も言えなくなった、と、刹那と千秋に語っていた。
『病院には、行っているのか』
瀬川彰の言葉に、刹那は、ああ、と頷いた。
「薬は飲んでいるが、あまり、効果が出てる感じはない。医者も、長期戦を覚悟してくれ、と」
今の伊吹を取り囲む感情は、喪失感に、後悔に、罪悪感に。
「悲しむ事すら許されない、なんて思い込んで、自分で自分の感情を押し殺して。それもこれも、元部下達が、伊吹に酷い事を言うから」
『俺が、表に立ってやれば。ノートには直葬にしろって書いてあったのに、葬儀じゃないとって言ったのは、俺だったんだから。それに、俺だって、兄さんをずっと裏切って……』
瀬川彰の言葉は続かない。
だって、皆、正しい事をしたと思っていた。
伊吹は、祖母の遺言のため、真っ当に生きる為、長男のスペアではなく自分自身を見てもらう為に、父から逃げた。
瀬川彰は、籤浜大志を信用していなかったから、伊吹に協力した。
千秋と刹那は、伊吹の事が欲しかったから、籤浜を潰した。
籤浜大志は、長男を失ったから、伊吹まで死なせない様に、自分の元に置く事で、伊吹を守ろうとした。
元部下達は、そんな籤浜大志の事をよく見ていたから、籤浜大志に協力をして、籤浜大志が苦労したのも見ていたから、また彼を苦労に追いやった伊吹の、彼らにとっては白々しい態度が、許せなかった。
皆、それぞれの理由があった。誰も悪くない、と、籤浜大志が死んで年月が経った今だからこそ言える。
でも、伊吹は、こう思っている。
「俺が、親父のそばに居て、親父を支えていたら、少なくとも、親父は死ななかった」
本人が、こう言った。全て、自分が悪いと、こうも言っていた。
確かに、一理あるのだ。
伊吹が、籤浜大志の側にいれば、籤浜大志は恐らく死ななかった。長男が死んだ悲しみはあっても、伊吹を守らなければ、と思っていただろうから、それを糧に、生きていたのかもしれない。伊吹は、優秀だから、もしかしたら、籤浜の会社も、立て直していたのかも。
しかし、刹那は首を振った。
伊吹が、籤浜大志の側にいたら、伊吹は、刹那の側にいなかった。なら、その未来は、認めてはならなかった。
『生まれてきてくれてありがとう、か』
瀬川彰は、頭を抱えている様な、深いため息を吐いた。
『兄さんも、親だったんだ。でも、あの人、不器用だし、伊吹と2人で会う時は言えなかった。本家での親戚の集まりじゃ、親族どもがいつも、金の無心の為に兄さんの周りにいたから、伊吹は近寄れなかった。高校生になってから、伊吹は、集まりには行かなくなっていたし……』
瀬川彰の声には、後悔の色が、滲んでいる。
『金の無心を断られた親族達が、伊吹に一体何を吹き込んでいたのか。……想像も、したくない』
瀬川彰は、2人の子を持つ父親だ。
家庭の大黒柱で、仕事も忙しく、頑張って時間を作らないと、子供達とは触れ合えないのだという。
『愛しているのに。子供には嫌われた、なんて思い込んで。だから、遺書にあんな事を書けたんだ。今更、愛していると伝えた所で、伊吹が憎んでいるのは変わらないからって……』
千秋の、深いため息が聞こえる。
『和樹の事だって。ずっと、悔やんで自分を責めていたなんて、知らなかった。兄さん、どうして、俺には、何も言わないで……』
瀬川彰の声には、涙が滲んでいた。
『大体、和樹は、もう……』
そこで、瀬川彰の言葉が詰まる。
3人は、黙るしかない。
思っても見ない落とし穴だった。だって、誰がこんな事想像できただろうか。
倒産後も、籤浜大志の事を慕って、関係を保っていた部下達がいたのに。
瀬川彰は、定期的に子供も連れて顔を見せに行っていたのに。
その子供も、特に、第二子の長男は、籤浜大志に懐いていたのに。
仕事も、アパート経営は順調だったのに。
金を返せるあてはあり、実際、全て完済して、伊吹にまた金を残すくらいの資産はあったのに。
誰も、籤浜大志が自殺するなんて、思わなかった。
刹那は、思い出す。
伊吹が、瀬川彰に唆されて、刹那の側から逃げようとした時、刹那は、瀬川彰と伊吹がショッピングモールの駐車場で密会をしているのを見つけるまで、伊吹の事を怪しいなんて思わなかった。
籤浜大志とそっくりな瀬川彰を、母方の叔父、と嘘を吐いたから、疑念は膨らんだのだ。それが無かったら、刹那は一緒に暮らしていた伊吹に対して疑念なんて持たなかった。
籤浜大志は、伊吹の親だ。
だから、誰にも自殺の兆候を悟られず、1人で準備して、遠く離れた場所で自殺をする事くらい、簡単だったのだろう。籤浜大志には、伊吹とは違って、側に誰もいなくて、1人で暮らしていたから。籤浜大志を縛る物は、何も無くなっていたから。
刹那は、ため息を吐くしかない。
本当に、籤浜大志は、伊吹の親だったのだ。
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