アウサイダー サン

第1話

 腕を伸ばしたその先は、空だった。


 すっかりと、外からも中からも知ったその体温は隣にない。腕は白いシーツの中で空振った。おかしい。昨日、たくさん無理をさせたのに。昼まで共に眠るはずだったのに。あわよくば、休日だし、また起きてからしようと思っていたのに。


 そう思って、刹那はゆっくりとその瞼を上げた。


 そして、起き抜けから不機嫌になる。昨夜、こうならないようにしっかりと抱きしめて眠ったはずの伊吹の姿がない。昨日、同じベッドの中、眠ったはずなのに。服も着せず、下着も付けさせず、汗ばんだ身体だけ拭いて、刹那の腕の中、胸にしまい込む様にその体を抱きしめて共に眠ったのに。伊吹はいつの間にやら、刹那の腕の中から消えてしまった。


 伊吹は、少しの間ベッドから出ている訳ではない。明らかに、一人でベッドから出て時間が経っている。一人分の体温しか、ベッドにはないのは明白だ。


 刹那は、サイドチェストの上の目覚まし時計に手を伸ばす。時刻は、午前7時にすらなっていなかった。ため息を吐くしかない。


 刹那は、ゆっくりとその体を起こした。伊吹をまた、捕まえに行かなくては。


 そうして、カーテンから漏れる光にその白い裸体を照らされながら、またその隙間から微かに漏れる澄んだ空を見て、刹那はため息をついた。









 

 車を走らせて、近くにあるコインパーキングに車を停める。本当は、アパートの近くに止めたいが、すぐ近くに交番があるから、路上駐車に厳しいのだ。アパートの駐車場には空きがなかった。アパートの部屋は満室で、朝も早いから、アパートの住民は誰も外出なんてしていない。だから、刹那は車をアパートから離れたコインパーキングに駐車するしかなかった訳だ。


 アパートの近くには、朝からやっているカフェがある。だから刹那はそこに入って、アパートの全体が見える席に座ると、コーヒーだけ頼んだ。そして、じ、とアパートを見つめた。


 そして、程なくその姿勢のよい背格好が、今となっては腹立つくらい父親に似ている背中が現れた。


 その背中は――伊吹は、エプロンをして、箒と塵取りとバケツを持って、アパートの共用部分の掃除をし始めた。掃き掃除をしたり、集合ポストを拭いて埃を取ったり、階段の手すりを磨いたり。

 たまに、身を屈める時、顔を顰めて我慢しながら掃除をしている。やはりだ。腰が辛いのだろう。だって、昨日は伊吹が、無理、と言っても刹那は止めなかったから。自分と伊吹が暮らすマンションを朝早くに出て、こっそりと公共交通機関を乗り継いでアパートに辿り着いて、掃除をして、なんてやっているから、きっと体も十分に休めていないのだ。


 本当に、腹立たしい。流石に昨日ほど攻めてやって疲れさせれば、伊吹は朝、刹那の腕の中にいてくれるって思っていたのに。そのまま、伊吹をたくさん、刹那の方から甘やかして、伊吹はベッドの中で1日過ごしてもらう予定だったのに。たくさん、キスをして、甘やかして、刹那の方を見させて――憎たらしいあいつの事なんて、考えもさせないようにしたかったのに。

 

 おはようございます、と、耳の中に入れたイヤホンから声がする。見ると、エプロンをした、パンパンに詰まったゴミを持った、所帯染みた女性が、ゴミステーションの掃除をしていた伊吹に声をかけた所だった。


『今週もご苦労様です、管理人さん』


 刹那は、遠くに見える、地味な一つ結びの女を、半ば反射的に強く睨んだ。伊吹は、管理人さん、なんて名前ではない。あいつと同じ呼び方を伊吹にするな、と、カフェのテーブルの上に組んだ両手に、ぐ、と力が入る。


『おはようございます』


 伊吹は、穏やかな様子でまた女性に声をかけた。


『やはりお父さんと似ていますね。お父さんも、休日になると朝早くから掃除をしていて。私が声をかけると挨拶もしてくださって』

『親父が、ですか』

『ええ。管理人さんは、背中がそっくりですよ。本当にお父さんがいたのかと、てっきり』


 女性の笑い声に、伊吹が、ありがとうございます、と返した。それに、刹那は思い切り舌打ちを打って、カフェの店主から思い切り不審な目で見られた。でも、そんなの関係ない。伊吹に、なんてことを言うのだろうか、あの女は。


『本当に残念でしたね。旅行中、急死なさるなんて』


 女性は、ため息をつきながら言った。


『娘にも優しくしてくださって。娘も落ち込んでいました。葬儀にも、昔の部下だ、という方が沢山いらっしゃっていたのに。きっと、慕われていたんでしょうね』


 伊吹は、『ええ』と、落ち込んだ様に俯いた。


『管理人さんにとっても、いいお父さんだったのでしょうね』


 その言葉に、刹那は本格的に耐えられなくなり、席を立った。急いでカフェのレジで金を払う。釣りはいらない、と慌てて出て行こうとしたが、交番が近くにあり治安の良い地域に好んで店を構える店主はいらないくらいの善良さで、慌てて刹那を引き留めて、5千円札一枚と、千円札を四枚と小銭を沢山刹那に押し付けた。刹那は、礼も言わずにカフェを出て行く。


 カフェの店主と小競り合いをしていたせいで、伊吹はいなくなっていた。でも、盗聴器はちゃんと動いている。紙を捲る音と、かさり、という音。そして、鼻を啜る音に、刹那は真っ直ぐに、アパートの一階角部屋を目指した。


 扉に手をかけて、開く。扉は、鍵はかかってなかったから、あっさりと開いた。玄関ポーチには、伊吹の靴。そして、刹那も部屋に上がると、玄関から丸見えのダイニングキッチンを横切り、その先の部屋へと続く扉に手を掛ける。そして、開けると、がらん、と家具も家電も何もない、ただ人目を避けるカーテンのみがある部屋の中央、伊吹が刹那に背を向ける様に、俯いて、座り込んでいた。


 刹那は、伊吹の元へ大股で近寄る。そして、刹那は伊吹が見つめていたノートと手紙を奪い取った。


「伊吹」


 眺めていたノートを刹那に取られて、伊吹は涙を浮かべながら刹那を見上げている。声には出さないが、「返してくれ」と、その黒い目が語っている。それに、腹が立った。


「何度も読んだだろう、これ」


 乱暴に掴んだせいで、手紙は――遺書には皺が寄っている。ノートは折れてはいないが刹那の握力で曲がっている。


「まだ、父親の面影を追っているのか、伊吹」


 伊吹は、刹那のズボンに手を伸ばした。そして、座り込んだまま、刹那に縋った。


「刹那。頼む、返してくれ」

  

 伊吹の縋る様に、刹那の顔は苦々しく顔を歪めて、伊吹を見下した。

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