第5話
自宅マンションに戻っても、暗い気分は消えなかった。
誰もいない部屋。つい見栄を張って、間取りも広く、部屋数も多めな部屋を選んだせいで、正直持て余してる。掃除も大変だ。築年数が経っているので、部屋数と間取りと比べて割と家賃は安いが。リフォームはしてあるから、設備には特に不満はないが。
千秋は、スーパーで買ってきた酒瓶とビール缶を、ダイニングテーブルにどん、と置いた。つまみとして買ってきた惣菜も、がさん、と置く。大きめなビニール袋の中、積み上げたパックが倒れて、唐揚げの入ったパックがひっくり返ってテーブルに落ちたが、拾いあげることもなく、千秋はスーツを脱ぐため、寝室に向かった。
寝室でスーツを脱いで部屋着に着替える。スーツはハンガーにかけるだけだった。普段、スーツは脱いだらブラッシングするのが日課の一つだが、その気力がなく、ハンガーにかけるだけで、千秋はダイニングテーブルに向かった。
椅子に座って、ビール缶を開ける。プシュ、と音がして、泡が吹き出た缶に口を付けて、思い切り仰いでそれを飲んだ。
ごくごく、と、千秋の白い喉が動く。一気飲みではなかったが、飲めるだけ、ビールを飲む。そして、半分以上飲み干すと、はあ、と、ビール缶から口を離した。
千秋は、アルコールは普段、きちんとセーブしている。
酒は、伊吹程ではないが、刹那と比べても弱いわけではない。でも、顔がすぐ赤くなったり、後で、アルコール分解に伴う脱水で肌が乾燥してヒリヒリして痛かったりと、そちら方面で問題が出てくるのだ。なので、普段はきちんとセーブしてる。
けれど、今は、何も考えず、思い切り酒を飲みたかった。
つまみのパックが何個も入ったビニール袋から、割り箸を取り出す。そして、テーブルの上に落ちてる、室温の唐揚げのパックを開き、食べる。そして、また飲む。
その繰り返しだ。そんな、普段は絶対にしない暴飲暴食をしていても、全く気が晴れることはなかった。
気付けば、日本酒も開けて、何缶もあったビールも飲み切って、つまみの惣菜のパックは、食べかけのまま、何個も無造作に開けられて、中途半端に箸を付けられていた。やけ酒だ。やけ食いだ。でも、全く、気は晴れない。
どうして、とか、ああしたら、とか、今となってはどうしょうもない事ばかりが浮かんできて、全く楽しくない。
ふと、テーブルの上の、自分のスマホが目に入る。そして、拾い上げた。時刻はそろそろ遅くなっているが、もう、1人でこのモヤモヤを解消するのは無理だった。流石に呼び出す気はないが、話くらい聞いてほしい。アドバイスなんかいらないから、ただ、話を聞いてほしい、と、まるで、男女逆転した様な事を思う。
加賀美は以前、「付き合うのでしたら、辛い時、寄り添ってくれる女性がいいでしょう」と言っていた。なら、寄り添って欲しい。伊吹の事も知っていて、加賀美にもたまに褒められている恋人に、この、男同士のぐちゃぐちゃで、どうにもならない話を聞いて欲しい。
彼女も、以前親友が結婚する時、酒を飲みながら千秋相手に何か、こう、うんうん言っていた。「幸せになって欲しいけど、私に縛り付けたいわけではないけど、なんか、こう、寂しい! 私以外に頼る相手作って欲しくない!」とか。あの時、千秋はちゃんと彼女に付き合ってあげたのだから、今、千秋に付き合って欲しい。こんな時間に家に来て慰めて、とは言わないから。それは、また時間があるときに頼むから。彼女は一晩付き合ったら、すっきりとした顔をしていたが、ちょっと千秋は数晩かけないと、回復できる気がしないので、長期戦を覚悟して欲しい。
だから、呼び出そうと電話帳の、「ゆ」の項目をタップしようとした所だった。
「……愚弟よぉ。タイミング、悪すぎだろうよぉ」
赤ら顔のまま、千秋はそうぼやく。
見下ろした手の中のスマホは、恋人の名前ではなく、弟の名前が表示されていた。
夜も更けてきた。それなのに、連絡が来るなんてなんだろうか。家族に何かあったら、大体千秋に先に連絡が来て、そこから刹那に連絡するから、家族の問題ではないだろう。
もしかして、急に体調が悪くなったから休みたい、とか。それかもしれないから、出てやるか、と、千秋は操作してから、スピーカーモードにして、スマホをテーブルの上に置いた。
『……千秋』
その声は、沈んでいた。
「何。お前、具合悪いのか」
帰る時に見た姿を思い出すが、別に普通だった気がしたが。
「何、明日休みか? 別にいいけど、ちゃんと体調整えろよ」
千秋は先回りしてそう言う。早く電話を切って彼女に話を聞いてもらいたい。明日も仕事だが、彼女も仕事を休んでもいいから話を聞いてほしい。明日、彼女の家に千秋が行ってまた話を聞いてもらうから、休めばちょうどいいじゃないか。ずっと、千秋は頑張っていたのだから、それくらい、いいじゃないか。父だって、少しの私情くらい、と言っていた。繁忙期でもないし、休んだ分の彼女の仕事は、千秋が代わりにやっても構わないから。
『千秋、千秋さ、』
「なんだよ。はっきり言え」
『伊吹に、盗聴器付けてるな?』
刹那からの言葉に、千秋は誤魔化す事も忘れて、手に持っていたグラスをテーブルの上に、落としてしまった。
わずかに残っていたグラスの中の酒が、テーブルの上に広がって、水滴がスマホに飛び散った。
「……は?」
『伊吹と千秋が2人きりで出て行った後、千秋の机の上のワイヤレスイヤホンから、声がするなって思ったら、伊吹の声と千秋の声がしたから』
だから、聞いてた。
刹那は、はっきりとそう言った。
「…………」
千秋は、台拭きでこぼした酒を吹き、スマホもついでに拭く。そして、ビニール袋を漁って、グラスに取り出したミネラルウォーターを注いで、口を付けた。
「そうだけど。何が言いたいんだ?」
『ん? できたお兄ちゃんだなって』
「……は?」
てっきり、刹那から、止めろ、と言われるかと思った。そんな伊吹を監視する様な真似、やめるんだ、とか。でも、電話の向こうの刹那は、クスクス笑っている。
『千秋、伊吹は、うちに、ずっといてくれる気はないのか』
弟の問いに、千秋は水を飲みながら、天井を仰いで「ああ」と認めた。
「そうだよ。すぐにでも、籤浜に帰りたがってる」
『買収するのに? 子会社にするんだろ』
「向こうが嫌がってる。向こうからしても、初めから青天の霹靂だった所を父さんが馬鹿な事してさ。もう伊吹も向こうも俺が何を言っても信じてくれない」
『馬鹿な事?』
「……あー、なんか、伊吹の父親と父さんが同級生で、親友だったらしくて、父さんの認識では。で、それに甘えて乱暴な交渉して信用失ったんだよ」
『……へえ』
電話の向こうの刹那は、何を考えているのか。でも、最後の、へえ、は、何か、かなり含みがあった。
『父さんも、そんなミスするんだな』
「そうだな。そのせいで、俺も困ってるよ」
『まあ、でも。正直、俺達には伊吹さえいたらいいんだろ?』
刹那の声に、千秋はスマホを睨んだ。
『伊吹に盗聴器付けるぐらいなんだから、千秋だって、伊吹、欲しいんだろ。籤浜は、別にいらない。そうだろう?』
「……そうだね。あんな経営がなってない会社、いらない」
千秋は、はっきりと認めた。伊吹が、千秋の側で、千秋の下で、千秋を支えるというのなら、株は、いつでもあちらに渡してもいい。父は、そんなの認めないが。
『うん。なら、協力できるな、俺達』
「…………はあ?」
千秋は、目を剥いた。刹那は、何を言っている?
『父さんだけだろ、会社が欲しいのは。でも、籤浜の会社は、まだ安定的な経営とは言い難い。そもそも、俺たちは伊吹が欲しいだけで、籤浜はいらない。貰っても、扱いに困るだけ。そうだろ』
「それは、そう、だけど。お前さ、何が言いたいわけ。現状確認? じゃあ、もう済んだだろ。なら、切るぞ、電話」
『父さん、降そう』
刹那の言葉に、千秋のスマホを操作しようとする手が止まった。
『父さんには、隠居してもらう。迷惑料として、籤浜には株を渡す。伊吹は、その代わりに、うちにずっといる』
「……刹那?」
『父さん、話聞いてる限り、伊吹の父親が好きなんじゃないか? なら、会社の社長である必要はない。なら、父さんの社長の椅子は、奪い取っても、構わない』
「お前、何を、」
『考えたんだ、俺』
刹那は、楽しそうに笑っている。
『千秋と父さん、噛み合ってる様で噛み合ってないから。欲しいものも、ただ同じ場所にあるだけで、別の物だし。なら、同じアプローチを取る必要がない』
「いや、でも。降ろす、とか」
父は、そろそろ還暦が近い。
でも、まだ体は元気で、活力がある。隠居なんてする理由がない。千秋だって、日々後継者として努力はしているつもりだ。でも、まだ結婚もしてないし、若すぎる。そもそも、父親を追いやるなんて、周りも、なんて言うか。
『これなら、伊吹も俺たちに協力してくれるんじゃないか』
千秋は、弟の提案に、なんて言ったらいいかわからず、黙り込んだ。
『千秋、伊吹の父は、父さんの事、どう思ってる?』
「……嫌がってる。なんか、父さんが顔を見せるだけで逃げようとするらしいよ」
『やった。なら、そちらとも協力できる』
刹那の声が、初めて聞くくらい、明るい、深い。やった、なんて、刹那の口から、初めて聞いた。
『父さんさえ降ろせば、全て上手くいくんだ。籤浜は株を手に入れて、安定して経営ができる。伊吹は、その見返りに俺たちの側にずっといる。千秋は一足早く、社長になれる。千秋は顔がいいし、俺も母さん似だから、揃って表に立てば、会社もまた、有名になれるんじゃないか』
「お前も、経営に関わるつもりか?」
『伊吹がそばに居るなら、俺はなんだって頑張る』
刹那の声に、初めて聞く様な熱が灯ってる。
『千秋、伊吹をまず捕まえて、弱みを握ろう。その後、籤浜に俺たちの思惑を伝えに行く。籤浜さ、ずっと理由が欲しかったんじゃないか? 千秋が、籤浜の株を集めた理由。その欲しい理由を、籤浜は手に入れる事が出来るし、向こうが乗り気になれば、伊吹はもう、何も言えない』
「それ、は」
『伊吹の父にもクソ兄にも協力してもらうけど、その過程でも、籤浜に沢山恩を売ろう。伊吹が、こちらに来ても仕方がないなって思えるくらいの恩を。そうすればそうするほど、伊吹を、俺たちに縛り付けられる』
伊吹を、縛り付ける。
籤浜から、千秋の下へ。血を、大切にしようとするから、血を使って、伊吹を縛り付ける。
理屈は、あってる。
でも、倫理が、良識が、それでいいのか、と問いかける。盗聴器を仕掛けておいてなんだ、という話でもあるが、でも、伊吹は、弱みを何個も握らないと、きっと逃げるから、仕方がない。でも、他に、やり方はない、のか?
千秋は、色んなことが、頭が馬鹿になったように、分からなかった。
「刹那、お前、本気、か」
頭が冷えている。酔いはすっかり覚めた。顔色も、真っ白になっているだろう。テーブルの上に何個も並べられたパックに残った惣菜達も、まあまあ美味しかったのに、もう食べられない程、腹や胸が一杯だった。
『……千秋は、本気じゃないのか?』
刹那は、残念そうに言った。
『なら、伊吹は程なく籤浜に帰るぞ。俺も調べたけど、伊吹の父とクソ兄に、もうすぐ半分の株、集まるんだろ』
「そう、だけど」
『過半数まで株を手にしたら、もう伊吹はうちにいる必要がない。異業種だから、うちの伝手も効かないし、うちの信用問題にもなるから、あまり、外まで巻き込む様な、目立つ事はできない』
「でも、俺は、40%の、株を」
『そんなの、意味あると思うか? 悔しいけど、あっちの経営コンサルが優秀なのは間違いない様だ。無駄な事業も、役員の資金の私的流用も全部やめて、ビジネスモデルもどんどん新しくして、資金繰りは劇的に良くなってる』
「……」
『あっちだって、何も対策を考えていないとは思えない。千秋の、その40%の株も、そのうち、無意味になるぞ』
千秋、と、刹那は、笑いながら、千秋を誘った。
『俺、伊吹に夢を見たんだ。伊吹が側に居てくれれば、俺は、どんな勇気も出せるって。初めてなんだよ、こんな風に思える人は』
「ゆ、め」
『うん。千秋は? 千秋もそうだろう? 伊吹に夢を見てる。だから、無理して、伊吹を側に置いた。そうだろう?』
夢。
伊吹を、自分の下に置き、支えさせる、という、夢。同じ理想を、共に高みを、目指すという、夢。
その夢が、叶う。父さえ、引き摺り下ろせば。伊吹の弱みを握って、あの首に、首輪を付けることができれば。叶えられる場所に、ある。
「刹那」
『何、千秋』
「お前、伊吹の弱みを最初に握るって言ってたな。……何か、弱みの心当たりでもあるのか」
電話の向こうの刹那が、笑ったのが分かった。
『千秋。俺、伊吹のことが——』
そうして告げられた言葉に、千秋はその瞳を見開いた。
でも、とか。そんなの、とか。いろんな否定の言葉が出る。でも、刹那は、もう、覚悟を決めていて。千秋に、覚悟が決まってないのか、なんて、言われて。
夢を、失うのか、なんて、言われて。
千秋は。
千秋は——。
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