第4話

 千秋と伊吹が一緒になって向かったのは、よく伊吹が仕事終わりに向かう、非常階段の踊り場だった。


 伊吹は、タバコを取り出そうとするが、千秋が何か言う前に、ジャケットの裏ポケットから手を引っ込めた。そして、バツが悪そうに、その手をスラックスのポケットに入れた。


「なんだよ、話って」

「……さっきの、癖? タバコ取り出そうとしたろ」

「まあな。いつもここで、タバコ吸ってたから」


 伊吹は、踊り場を見下ろすと、いきなりしゃがみ込む。見ると、千秋が数日前に伊吹から奪って、そして,踏み潰したタバコの吸い殻を拾い上げて、取り出した携帯灰皿の中に入れた。本当に、律儀で真面目だ、と思う。


「いいよ、別に。タバコ」


 立ち上がった伊吹に、そう声をかける。伊吹は驚いた様に、黒い目を見開いて、「いいのか」と言った。


「嫌いなんだろ」

「嫌いってわけじゃない。君に似合わないから、辞めろって言ってただけ」

「タバコ吸うのに、似合うも似合わないもあるか?」


 伊吹は呆れた様子だったが、素直にジャケットからライターとタバコを取り出して火をつける。手すりに近寄って、それに寄りかかる。ふー、と、気持ちよさそうにタバコを吸っていた。


「タバコ、おいしいのかい」

「……慣れるとな」

「最初は美味しくなかったんだ」

「でも、頭がスッキリするから、吸ってる。……もういいだろ。なんだよ、話って」


 伊吹は、手すりから寄りかかるのを止めてから、千秋と向き合った。自分と刹那とは違う、どこまでも見通しそうな真っ黒な瞳。それが、千秋を警戒する様に見つめている。中学の頃、初めて伊吹に話しかけた時でも、こんな警戒心と不信に満ちた目は、されなかった。


「伊吹、その」


 珍しく、千秋は言い淀む。

 加賀美は、「親友だと思うのなら、素直になれ」と言っていた。でも、千秋は正直、伊吹の前でもあまり素直に本心を述べた事がない。


 代わりに、察しのいい伊吹が、素直ではない千秋の本心を汲み取って、察して、動いてくれたから。だから、千秋は素直になる必要がなかったのだ。伊吹と共に学生生活を送っていた時は、そんな以心伝心な2人の姿に、「よくできた嫁を持ってるな」なんて、他の同級生から揶揄われた事があったぐらいなのに。


「何」


 伊吹は、珍しい千秋の様子に、眉間に皺を寄せながら見つめる。その眼差しは、遠くを見通す様だ。たまに、伊吹はそんな目をする。遠くを見て、その先には伊吹にとって大切な物の姿が見えていて、その為なら、今視界にあるもの、全てを利用してやる、なんて、覚悟もしていそうな眼差し。


 その大切な物は、千秋や、千秋と共に目指す未来ではない。


「話をしてくれた? 君のクソ兄と父親に」

 

 だから、千秋は、自分でも思ってもみなかった、素直ではない言葉が出てしまった。


 伊吹は、少しだけその黒い目を見開いた後、顔を景色に向けた。この時間帯でも、まだ明るく見える景色を疲れた様な眼差しで見つめている。それに、心臓がぐ、と掴まれた感覚がした。そんな目を、させたい訳では、なかったのだ。


「なんの話だよ」


 伊吹は、不機嫌な、低い声だった。


「会社、手放す様にってさ」


 不機嫌になんかさせたくないのに、素直になるはずだったのに、千秋から語る言葉は、学生時代から伊吹に抱いていた野望ではなかった。


「手放さねえよ。和樹も、親父も、その気はない」

「嫌がらせ、されてるんだろ。クビにした、元役員達から」

「その都度警察に相談してるよ。あいつらも幼稚な嫌がらせしかできねえし、辞めさせる時、取引先まで巻き込む様な事をしたら、法的処置を取るって書類もちゃんとサインさせたし」

「読んでいるのかい。ちゃんと、その誓約書」

「読んでても読んでなくても、書類にサインさせた以上はこっちの物。ま、今の所、そんな話もきかねえけど」


 伊吹は、荒い口調でそんな事を話した後、紫炎を吐き出した。若い顔立ちと、慣れたそのタバコを吸う仕草が、似合わない。だから、辞めさせたいのに。


 でも千秋は何も言わずに、伊吹が寄りかかる手すりの隣に並んで、伊吹と同じ景色を見る。


「……そんなに腐ってた奴ら、辞めさせられてよかったね」

「ま、そこは正直お前に感謝はしてる。お前が特に厄介なのから先に株、奪い取ってくれたおかげで、残ってる親族は真面目なのも多いし、雇用と引き換えに、株も素直に親父と和樹に渡してくれた」


 褒められた。感謝された。それに、千秋の心は簡単に高鳴った。千秋は、そんなつもりは無かったけど。ただ、千秋の若さと顔とか地位に、ホイホイする奴らから、先に手をつけただけだったけど。


「解任する現場も立ち合わせたから、明日は我が身って仕事もちゃんとする様になったし。中にはさ、わざと赤字事業担当させて、不正したり結果出なかったら、それを口実にクビにしようとしてた奴がさ、なんか、頑張っちゃって、黒字にしちゃった例もあって」

「それ、君のアイデアだろ」

「でも、親父も和樹もすぐに賛同してくれた」


 にやり、と伊吹は笑った。その笑みを久々に見れて、単純に嬉しかった。若い顔立ちと、普段の穏やかで生真面目な性格に相反するような、時折見せる厄介さは、昔のままだ。その厄介さ、千秋と同じ理想に行くために、発揮してくれたらいいのに。


「なんでさ、そこまでして会社手放したくないんだい。クソ兄と父親はともかく、君、ずっと距離を取ってたのに」


 千秋は、そっと聞いた。伊吹は、その問いに、千秋を見ずに、遠い目で、景色を見ていた。


「……お前のところの会社、いい会社だと思うよ」

 

 いきなり褒められて、千秋は思わずまじまじと伊吹を見つめた。


「でも、昔から、そうじゃなかったんだろ。不安定な所から、一つずつ、よくしていったんだろ」

「……父さんと会う? その辺の苦労は、父さんが詳しいよ」

「いいよ。これ以上、職場の居心地、悪くしたくない」


 伊吹は、ふう、と紫炎を吐き出した。


「うちの会社は、多分、その過程の上、なんだと思う」

「過程の上?」

「そう。長く続いてて、取引先も多いけど、ずっとそれに甘えて、成長を辞めちゃった会社」

「……」


 よく、わかっているではないか。

 なら、どちらに所属した方が得が、簡単に分かるだろうに。


「ようやく、一歩進める様になって、結果も出てきて、親父の事を——行き過ぎだなって思う時もあるけど、慕う社員達もいて、和樹の事をみんなで支えてさ。……楽しいんだよ」


 その言葉に、千秋は目を見開いた。


「俺、中高時代は浮いてたし、お前以外に友達いなかったろ」


 うん、と、こっそりと視線を泳がせながら、千秋は頷いた。千秋以外に友達がいなかった理由、慎ましい生活の祖母と暮らしていた伊吹と周りの学友達の生活レベルが違かった事以外に、伊吹に誰か話しかけようとする度、千秋が牽制していたから、というのは、未だにバレていないようだ。やりすぎて、同性愛の噂すら立ってた。試したから分かるが、千秋は本当に、真性のヘテロなのに。


「大学じゃ、友達はできたし、初めて彼女もできたけど、ばあちゃんの病院通いに付き合ってたし、ばあちゃんの代わりに家事もしてたから、あんまり、遊びにも行けなかったし、サークルもあんまり参加できなかったし」


 受けられる行政サービスは、受けてたけどな、と伊吹は付け加えた。でも、なるべく、伊吹自身が側に居たかったのだと、伊吹は言った。


「新卒入社した所も、いい会社だったけどさ、安定してたし、いろんな仕事同時進行でやってたから、みんなで、一つの事に一直線になって頑張るとか、俺、初めての経験で」


 千秋は、拳を握った。


「だから、こんな年になって、今更の経験がさ、楽しいんだよ」

「……君、今、籤浜の会社で働いてないだろ」

「でも、お前という爆弾を暴発させないようにちゃんと見てるって仕事してる。後、土曜日はあっち寄ってる」

「副業禁止だけど、うち」

「副業禁止、じゃなくて、他所の会社に雇用されるのが禁止、なんだろ。土曜日に仕事を手伝う代わりに、昼飯か夕飯を和樹か親父に奢ってもらってるだけだよ。後、俺はうちの会社から出向してるんだからさ、別に文句言われる筋合いないだろ」


 伊吹は、笑ってる。楽しそうに、昔に戻った様に、笑ってる。


「親父も、和樹も、やっと、俺たち、素直になれたんだから。和樹とも、お互いに抱えてた嫉妬、ぶつけ合ってさ」

「クソ兄の、一方的な嫉み妬みだろ」

「俺だって向こうに嫉妬してたよ。だって、親父と住んでた。受験に失敗しても、本家に住めて、金もちゃんと出してもらえるって、あいつ当たり前に信じてたから。俺は、ちゃんと結果出さないと、見捨てられる、金も出してもらえない、とか、内心そう思ってたし」


 その言葉に、千秋の眉間の皺が寄った。文句を言いたいが、言えない。だって、千秋は父と同じ家に住んでいて、教育費も当たり前にかけられた。幼い頃は、その期待が正直、しんどかったけども。


 でも、それが当たり前でなかった伊吹に、口を挟めなかった。


「いつか、俺はうちの会社に戻るよ。で、親父にいろいろ教えてもらいながら、和樹を支えるよ。その為に、俺は今、頑張っているんだからな」 


 伊吹は、笑う。

 もうすっかりと短くなって、持ち手が小さくなったタバコを携帯灰皿に押し付ける。腕時計を見て、「ほら」と千秋に穏やかな顔を見せた。


「刹那、きっと待たされて怒ってるよ。いかないとだろ、お兄ちゃん」


 伊吹は、そう言って千秋の肩を叩いた。笑っていた。昔の様な顔をして、タバコの匂いはするが、でも、千秋に笑いかけた。


 でも、その目は千秋を見てくれない。千秋には手の届かない、血の繋がりばかり見ている。


 なんて、ままならないのか。なんで、もっと早くに伊吹と出会わなかったのか。父は、なんで、籤浜大志と連絡を取り合わなかったのか。


 そうしたら、もっと早くに千秋と伊吹は、出会って、親友となって、血の繋がりよりも濃い絆を、築いていたかもしれないのに。伊吹は、クソ兄ではなく、千秋を支えようと頑張っていたかもしれないのに。


 ーーなんで。

 ーーなんでなんだ、伊吹。


 千秋は、一足先に階段を下る伊吹の背に、どうにもならない問いを、ただ、ぶつけるだけだった。

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