第3話

 ——とはいえ、だ。


 千秋は、今日も今日もとて、わざと仕事を終業時間後も伸ばし、あえて残業をしていた。伊吹は、今日もきちんと就業時間内に仕事を終わらせて、自分のデスクで、書店で買った時にもらう様な紙のブックカバーをつけた本を読んでいる。 


 次々と仕事を終わらせて、席を立つ他の部下達の「お疲れ様です」という声に、いちいち会釈をしたり、声に出して「お疲れ様」と言っていて、律儀だな、と思う。でも、中には本を読んでいる伊吹を睨んで、伊吹にだけ何も言わずに帰宅する部下もいた。後で、きちんと注意をしなければ。でも、その部下からなんて言われるか、怖く思っている自分がいる。自分は、何を弱気になっているのか。


「伊吹! 仕事終わったぞ」


 刹那は、難しい顔で向き合っていたPCから顔を離すと、笑顔で伊吹に声をかけた。それに、伊吹は本から目を離して、刹那の方へと顔を向けた。


「もう? 随分と早くなったな、刹那」

「うん。頑張った」


 伊吹は、立ち上がって、刹那のデスクまで行くと、刹那のPCを覗く。そして、確認をすると、笑みを作って、刹那の肩を叩いた。


「うん。一先ず、ミスはないな。最終チェックは千秋がするけど」

「伊吹、なら、いつもの」


 刹那は、そう言って、椅子に座ったまま、伊吹の胴をぎゅう、と抱きついた。それに、伊吹は苦笑して、いつも通り頭を撫でてやる。それに、刹那は満足そうに喉を鳴らした。


「伊吹、最近、仕事終わった後、外に行かなくなったな」


 刹那は、そのまま、機嫌良さそうに言う。


「タバコの匂いもしない。やめたのか?」


 それに、伊吹は浮かべた笑みを強張らせて、少しだけ千秋を睨んだ。しかし、直ぐに自分を見上げる刹那を見下ろすと、「いや」と首を振った。


「会社の中では吸わない様にしただけ」

「……外では吸ってるのか」

「まあ……」


 刹那は、伊吹のその返答に、頬を膨らませた。


「伊吹、タバコは体に良くない」

「減らしたよ、これでも」

「やめたら? そのまま。君、今でも年齢確認されるんだろ」


 千秋のその言葉に、伊吹は本格的に千秋を睨んだ。伊吹は童顔気味な事を気にしているのと今まで終業後の待ち時間、外にタバコを吸いに行っていたのに、いけなくなった原因が千秋だからだろう。割と本気で睨まれた。

 トイレ以外で席を外す時は、千秋の許可がいる、なんて、我ながら、行き過ぎなのは、分かるけども。


「流石に年齢確認はもうされない。もう少しで30歳なんだぞ」


 伊吹、結構怒ってるな、と思いつつ、千秋も最後のエクセルのセルの中に数値を入れて、保存した。千秋も、仕事が終わった。繁忙期でないから、割と早く仕事を終わらせられてよかった、と思う。


「伊吹は、若く見えても格好いいと思う」


 フォローのつもりなのか、思っている事を話しているだけなのか、刹那が口を挟む。


「いいじゃないか、若く見えて。君、老け顔が良かったのか?」


 千秋は、ちらりと伊吹の顔を伺う。伊吹はすでに誕生日を迎えて、もう29歳となるが、でも、正直5歳下の刹那とは同い年、と言われても納得できる程若く見える。籤浜大志は、切れ長の瞳の、一見冷徹な印象を持つクールで端正な顔立ちで、伊吹は目元しか似ていないので、母方の血が強いのだろう。千秋と刹那と一緒である。背格好は、伊吹は籤浜大志に似ているが。


「……憧れる、老け顔」


 伊吹が、自分の頬をそっと撫でながらそんな事を言ってきたので、千秋は吹き出しそうになった。


「女性に言うなよ。余計な反感買うから」

「もう買ってる」


 伊吹は、そう言って拗ねたように視線を逸らした。変わらず、その胴には刹那がまとわり付いている。


「酒井は男だけど、伊吹に挨拶しなかったな」


 刹那は、その姿のまま、苛立ったような声色で呟いた。


「千秋、あいつ、クビにして」

「刹那、行き過ぎだぞ」


 伊吹の、刹那の頭を撫でながらの苦笑の言葉に、だって、と刹那は唇を尖らせる。


「あいつ、俺のことも絶対馬鹿にしてる。伊吹への態度も悪い。千秋にはゴマスリしてるのに」


 刹那は、ようやく伊吹の胴から腕を離した。気付けば、オフィスの中は3人だけになっていた。静かで、邪魔者は誰もいない。千秋は、メールチェックをした後、PCの電源を落とした。


「注意はするよ。挨拶は基本だからね。それぐらいできないと」

「……厳しくしすぎるなよ」

「なら、君も俺たち以外と関われよ。飲み会も来ないし」

「俺は出向だから。行っても仕方がないだろう」


 伊吹は、ため息を溢した。なぜ自分が飲み会に行かねばならぬのか、と言葉にしなくてもその思いが出ている。


「伊吹、酒苦手なのか? 俺も、すぐ酔う」

「……うん、まあ、そんなに飲まないな」


 嘘で、そして本当の発言だ、これは。


 千秋は、それに、すぐに気がついた。


 伊吹は、酒が強い。父側の家系はみんなそうらしく、酒に酔っても二日酔いなんて無縁の面々ばかりだと言う。でも、伊吹自身は別に酒が好きとかではなかったはずだ。あまり酔えないから、飲むメリットが存在しないのだ。酒の味も別に好み、という訳ではないらしい。難儀な体質というか、ある意味羨ましい体質、というか。


 伊吹には言えないが、父が籤浜大志監禁時出した、というウイスキーと炭酸水の比率が逆転したような濃度のアルコールを飲ませなければ、一般人が思う「酔って素直になる」みたいな現象が起こり得ないのだ。千秋は、流石にそんな物、伊吹に飲ませる気は毛頭はないが。普通に考えて、急性アルコール中毒を起こす可能性が高い。実際にそんなものを親友? に出した父曰く、「半分の量で限界が来ると思った」と供述していたけども。本当に、伊吹の父親はよくそんなハイボール? を飲み切ったと思う。


 そんな事を伊吹に言ったら、「お前の父親が! 飲まなければ解放しないと! 親父に無茶を言ったんだろう!!」と、激怒されて、ともすれば殴られる自分がありありと想像できてしまう。殴られても文句が言えない。仮に伊吹と父親がまだ和解していない時でも、そんな飲み物を籤浜大志に出した、なんて知られたら、「殺す気か!」と人格を疑われてしまうだろう。


「酒が嫌いなら、俺の隣にいて。烏龍茶一緒に飲もう」


 そんな事はつゆ知らず、刹那はそんな可愛いともいえるおねだりを伊吹にしている。酒が弱いのは仕方がないが、だから酒井に馬鹿にされるのだ、と千秋は思う。

 伊吹は、苦笑して、誤魔化す様に刹那の頭を撫でた。


「いやな。俺は外部の人間だから。飲み会くらい、好きに色々話したいのに、俺がいたら気を使うだろ? だから、行かないんだよ」

「……また、籤浜か」


 刹那は、ため息をついた。そして、ジト目で奥の、管理職席の千秋を見つめた。


「千秋、いくらなんでも籤浜を買収するの、遅くないか。父さんも何をしているんだ?」


 伊吹は、その発言をした後、肩を強張らせて、千秋をじ、と見つめる。警戒心と、不安と、不信が、その眼差しに込められている。


 伊吹の立場では、社長を務める犀陵時次に直接会う事は叶わない。父は「大志の息子ならいつでも」とか言い出しそうだが、流石に、他の社員の手前、会わせられない。

 でも、籤浜の買収については、父の意向も過分に入っているから、どうしても気になってしまうのだろう。


「……伊吹」

「……なんだよ」


 伊吹の声は、警戒心に満ちていた。


「それについて、2人で話したい。刹那、少し待っていろ」


 千秋の真剣な声と顔と、珍しい刹那の名前を呼んだことから、刹那は少し驚いた様に目を見開いて、素直に頷いた。

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