胡蝶の夢は、雨に消えてしまえ 犀陵千秋

第1話

 ワイヤレスイヤホンから、ごうごうという、風の音が聞こえてきた。それに、千秋は舌打ちを打つ。伊吹は、また隠れて非常階段でサボっているらしい。


 卓上の時計を見ると、すでに終業時間は過ぎている。だから、今の時間は残業中、というわけだ。誰が決めた訳ではないが、残業中は就業時間とは違い、休憩などは自分の判断で自由に取れる、という事になっている。

 

 特に、同居家族などに、いつ帰るか、などの連絡も必要だから、電話も黙認されている。流石にサボってばっかりで残業代をせしめようとしているのを見つけた場合には厳しく指導して酷ければ処分もする。

 けれども、伊吹の場合は、本人の仕事は終わっていて、今は他の人間が仕事を終えるのを待っている待ち時間な訳だから、正直、サボる、という表現はふさわしくない。それは、わかっていた。


『——うん。今日、リハビリだったんだって? 親父』


 まるで、昔、まだ自分も伊吹も学生の時に戻ったかのような、穏やかな口調。それに、唇を噛む。電話の相手に、昔何されたか思い出せ、と腹立たしく思う。昔、伊吹はたくさん、その電話相手の文句を千秋に語っていたのに。


『そう。理学療法士ともなんか仲良くやってる』

『いい事じゃないか。なんだよ、その言い方』

『あんな若いのに指図されて、よくハイハイ聞けるなって親父』


 千秋は、仕事の手を止めて、耳に入れたワイヤレスイヤホンをしっかりと耳の中に固定する。伊吹の電話の向こうの相手の言葉も、しっかりと耳を澄ます。


『親父は素直なんだよ。和樹と違ってさ』


 父親に対して、素直、とはふさわしい言葉ではない。それは、伊吹も、和樹、と呼ばれた電話の向こうの相手も、その言葉に笑い声がする。それに、より苛立った。


『前、そっち寄ったら驚いたよ。子供にも素直じゃないって言われてたんだからさ。笑われながら』

『女房の口癖が移ったんだよ、うっさいな馬鹿伊吹』

『いい奥さんだろ。素直じゃない旦那の事を笑って許してくれてるんだから。姉さん女房だっけ? ちゃんと大切にしろよ。浮気はするな』

『する訳ないだろ。俺らでお前以外の婚外子がいないだろうなって親父に詰め寄ったら、めっちゃ情けなくて親父! しない。絶対に、外で子供は作らない!』

『子供作らなきゃOKって訳じゃないんだからよ、お前さ。ま、親父もストレスあったんだろうけど、まさか日記に浮気の記録、あれだけ付けてたとは……』


 電話の向こうの相手と話している伊吹は、楽しそうに笑っている。それに、とうとう耐えられなくなって、千秋は席を立った。オフィスの中を横切って、廊下に出る。千秋の様子に、まだオフィスの中にいた千秋の部下達は、顔を見合わせながら、イライラしながらオフィスを横切る千秋を見送る。

 

 小柄で、童顔気味の小山由香里、という女性部下はそんな千秋に苦笑するようにすれ違う千秋に一礼し、帰る準備をしていた。千秋は、小山にお疲れ、と早口で挨拶した後、立ち止まらず、早足で緊急避難用の、外階段に向かった。


『……そっちは。一応様子聞く。親父も気にしてたし』


 その声に、歩きながらワイヤレスイヤホンを押さえつつ、注意深く聞く。


『……ぼちぼち。まあ、前とそんなに変わらない』


 チッ、と、電話の向こうから舌打ちの音がした。


『クッソ。爺ちゃんが一番の癌だったな。親族同士仲良くやれ、とか馬鹿な事言って、株を親族中にばら撒くから。俺と親父に株を集めて、もうちょっとで半分なのに。あのいけすかない、お前の元同級生、変わらず、全体の40%の株、手離さないのか』

『……うん。俺も、言っては、いるんだけど』


『ごめん』、と、心から電話の向こうの相手に、謝る伊吹の声を聞く。それに、千秋は歯噛みをした。なんで、謝る。だから、そいつに何されたか思い出せと、胸ぐらを掴んで、言ってやりたい。


『親父の前で言うなよ、それ。また気にして眠れなくなるから』

『……でもさ、俺が、千秋にうちの会社に入るって、言ってからだし』

『はあ!? 現役でめっちゃいい大学行ってたくせ、本当に馬鹿だな、伊吹! まさか、犀陵の御曹司が会社の規模も違うし事業も違うし粉飾もめっちゃしてたうちに、敵対的買収なんて仕掛けるとか誰も思わないだろ普通! ただ、お前は新しい門出に、背中押してもらいたかっただけなんだろ! なのに、何を思ったか、いきなり親族中に接触して! 金で株集めやがってあいつ!』


 お前は文句を言える立場か、と千秋は早足で廊下を進みながら、伊吹の電話の相手に向けるように虚空を睨む。

 籤浜和樹は、昔、伊吹に何をしたか覚えていないのだろうか。真冬に、碌な防寒具も与えないで、伊吹を籤浜の本家の地下の座敷牢に閉じ込めたのだ。そのせいで、幼い伊吹は肺炎を起こしたのだ。殺しかけたのだ、伊吹を。それだけではない。みみっちい嫉妬で、幼い伊吹を何度も何度も暴力を振るったのだ。伊吹も、かつて千秋に話した事を、忘れたとは言わせない。

 それと、伊吹が言う「うちの会社」とはなんだ。昔はずっと、「親父の会社」とか「あそこ」とかって呼んでただろう。いつのまに、「うち」になったのか。


『あいつが頭おかしいだけなんだよ! お前は被害者だって、親父も言ってた! 友達だった奴に裏切られたんだって! これも! 親父が言ってた!』

『…………マジで、親父が言ってたのかよ、和樹』

『言ってた。本当に言ってた。本当』


 早口で電話の向こうの相手は言う。それに、伊吹は、救われたように笑う。それに、火に油が入れられた様に苛立った。非常階段の扉の前に立ち止まり、息を吸って、吐いて、呼吸を整える。

 伊吹の名札に、盗聴器が仕掛けられていることは千秋にしか知らない。盗聴していた事は、気づかれてはならないのだ。知らないふりをしなければ。自分は、伊吹の上司として、上の人間として、サボる伊吹を探しにきた。そういうていにしなければ。


『本当に、死にかけてから、素直になったなぁ、和樹は』

『うっせえ、ばーかばーか。お前くらいだよ、俺の事、素直なんて言うのは』


 千秋は、ワイヤレスイヤホンを外して、ジャケットのポケットにしまう。そして、重い鉄製の扉を開けた。


 なるべく、音を立てないように扉を閉める。そして、また、足音を立てないように、階段を登る。見えた踊り場には、千秋に背を向けるようにしゃがんで、タバコを手にしながら、電話をする、スーツ姿の伊吹の姿があった。


「みんな思ってるよ。だからさ、みんな、俺じゃなくて、お前を後継者に選んだんだろ、和樹」


 穏やかな声が直接聞こえる。まるで、本当の兄弟のように、電話の向こうの腹違いの兄に声をかける。


「税理士もさ、親父は1人で頑張り過ぎだから不安だったって言われてたじゃん。反面、お前はちゃんと周りを頼れて、きつい時はきついって分かりやすいから、みんなのサポートが間に合う。ちゃんと礼も言える。感謝してるのが分かりやすいから、周りもまた頑張ろうって思える。……うちの会社を継いだのが、和樹で本当に、」


「伊吹」


 声をかけた千秋に、伊吹の肩が跳ねた。ゆっくりと、伊吹は後ろを振り向いて、顔を顰めた。


「……ごめん、和樹。千秋が来たから、切る」


 そう、電話の向こうに話してから、伊吹はスマホを操作して、ポケットにしまった。


「随分と、楽しそうに電話してたね、伊吹」


 千秋は、踊り場まで階段を登り切り、立ち上がった伊吹と向き合う。向き合った伊吹は、顔を顰めたまま、少しだけ視線を逸らした。


「仕事は、ちゃんと終わらせたよ」


 じ、と、伊吹は千秋を見つめる。昔とは違う、警戒心に満ちた視線に、千秋は隠れて拳を握りしめた。


「俺の許可なく勝手に席を外して、外でクソ兄と楽しく会話かい。昔やられた事忘れた? そんなに記憶力悪かったっけ?」


 伊吹は、千秋を睨むように、また口を開いた。


「確かに、昔は仲が悪かったよ。でもさ、和樹は会社継いで、家庭もあって、子供もいる。いつまでも、俺たちだって昔のままじゃないんだよ。親父は倒れてから足悪くしてるし。俺だって、何も手を出さない訳にはいかないだろ」

「クソ兄のせいで死にかけた事があるくせに」

「ちゃんと生きてる。昔の話だよ。そちらが気にする必要ないだろ」

「気にするよ。君の親友としてね」


 本心の言葉だが、しかし、伊吹は信じた様子はなかった。昔とは段違いのきつい眼差しで、千秋を睨んでいる。


「仕事、終わったのか」


 伊吹は、千秋から視線を外して遠くの景色を見た。日は落ちて、夜景が見える。千秋を見ていない。高いビルの上、いつか伊吹を横に置いて見下ろしてやりたい、なんて思っていたのに、今同じ場所にいるのに、全く心中は穏やかではなかった。


「今、サボりの部下の指導っていう仕事をしに来た所」

「だから、仕事はちゃんとやったって……!」

「あの電話、必要? 同居もしてない仲の悪いクソ兄との電話なのに」

「親父が、今日リハビリの日で! あいつに、親父の事任せきりだし、話ぐらい聞かないと!」

「父親ね。いつまで働くんだい、そいつ」


 千秋の言葉に、伊吹は訳が分からない、と言った様子でじ、と様子を伺うように見つめている。


「会長なのは分かってるけど、早く隠居したらいいんじゃないかな。脳梗塞で倒れてから、足動かなくて、杖ついているんだろ」

「頭はまだちゃんと動くよ! 仕事も会社で事務仕事だし……!」

「ははっ。後継者が頼りないって可哀想だね。いつまで働くんだか、本当に。早く諦めて、クソ兄に、俺に会社売るように言えよ、伊吹」


 千秋のその言葉に、伊吹は目を見開いた。そして、悔しそうに顔を歪めて、拳を握った。


「俺が、お前の下にいれば、うちの会社に手を出さないって言ってただろ!」

「そうだけど。でもさ、主要株主として、言うべきことは言わないと」

「よくやってるよ和樹は! ちゃんと借金も計画通り返してる! 本業も頑張ってて! 無駄な事業は全部やめて! クソ親族も経営から締め出して! 会社のために本家の土地家屋も売って!」

「赤字事業やめられたり、クソ親族をクビにできたの、俺がクソ親族から株を買い取ってやったからだろ? ひどいな、親友の俺の手助けを無視するなんて」


 伊吹は、何も言えないように千秋を睨む。その伊吹の姿の後ろに、伊吹を虐めていたクソ兄とか、会社の経営を傾けた上に多額の粉飾もしてた無能な父とか、何故かそいつらを慕う、見る目のない従業員とか、千秋にとって何も価値のない連中の姿が、見えてしまう。なんで、そんな奴らをかばうのか。それが、分からない。


「なんで、本当に、そんなこと……」


 伊吹は、頭を落ち着かせるように首を振った後、千秋から視線を逸らして手すりに近寄った。千秋も、隣に並んで手すりの向こうの夜景を見る。美しい、とは思う。


「君が欲しかった、じゃ駄目か」

「…………気持ち悪い」


 伊吹は、ぼそりと呟いた。それに、だいぶ傷つく。無理して笑みを作って、伊吹にまた話しかける。


「だって、勿体無いよ、君。新卒入社した会社もいいところで、出世街道まっしぐら、だったのに。いきなり籤浜の会社に入ってクソ兄支えるって。いきなり、偏差値が一桁になったかと思った」


 しかもさ、と千秋は、手すりに背中をつけて空を仰いだ。


「その理由が、父親とクソ兄に謝られたからって。……ハハッ。馬鹿としか言いようがない」

「お前には分かんねえよ、俺の気持ち……」


 タバコをもったまま、手すりの上に肘をついて、伊吹は頭を抱えた。タバコ片手に持つのが、随分と、慣れている。昔は、タバコなんて興味もなかったのに。伊吹を、自分の下に置いてからだ、伊吹がタバコを吸い始めたのは。


「優しくしてくれるおじさんはいたけど。でもさ、その人も家庭があってさ。俺、ばあちゃんが亡くなってから、ずっと、1人で過ごしてて」

「……」

「でもさ、ある日、親父と和樹が、一緒になって来て。親父は、なんか、倒れて後遺症で歩行困難だって。なんか和樹も素直だし、目立つ所にハゲあるな、って思ってたら、ばあちゃんが亡くなった年にバイク事故起こして、一月ぐらい生死の境彷徨ってた、なんて言われて」


 伊吹の、もう何度も聞いた、何度聞いても納得いかない話を黙って聞いてやる。


「2人して、今までごめんって。許されないだろうけど、謝らせてくれって」

「自分勝手な謝罪だね。過去は変えられない」

「分かってるよ! でもさ、でも……」

 

 伊吹は、力が抜けたように、しゃがみ込んだ。


「血は、繋がってるのに。俺、2人が、死ぬかもって時に、何も、教えて、もらえなくて」

「……社長が意識不明だっていうのは、会社の評判に関わるし、クソ兄の事故なんて、教えられても何もできないだろう」

「でもさ! 勝手に死なれるとか、それとこれとは話が違うだろ!」


 伊吹は、しゃがみ込んだまま頭を抱え込んで叫んだ。


「親父は死にかけたし! 税理士も交えて相続の話もしたいからって、会社に呼ばれて! 行ったらさ、和樹も真面目な顔して働いてるんだよ! 何個も下の人間に指導されながら、素直に頑張ってて! 親父の事を慕う社員も沢山いてさぁ! クソ親族に振り回されながら、頑張って会社、経営してたんだよ」


 伊吹は、その瞳に涙を浮かべて、空を仰いだ。こんな空気も悪い東京じゃ、せいぜい月しか見えないのに、眩しそうに目を細めて空を見ていた。


「だからさ、許してもいいかなって」


 馬鹿だな、と千秋は思った。

 本当に馬鹿だから、伊吹をあそこから連れ出して、本当に良かった、と心から思った。自分の下で、自分を支えさせた方が、ずっと、伊吹を社会の中で活躍させる事ができる。この自分の下にいさせれば、ずっとずっと、高みへ共に、登る事ができる。


「会社、ヤバいのは俺にも分かったけど。人手も足りないし。ずっと別の業種だったけど、まあ、それでも、何か、できる事があるかなって」

「本当に馬鹿になったね、君」


 千秋は、しゃがんだままの伊吹の持つタバコを奪うと、踊り場の床に落として靴で思い切り踏み潰して、その火を消してやった。


「それで? 潰れかけの、粉飾もしてた会社に入って? 社長に就任する自分殺しかけたクソ兄と、足を悪くした、ネグレクトのクソ父を支えますって? 久々に連絡が来たと思ったら、そんな事告白された俺の身になってみろよ。止めるよ普通」

「いいだろ。俺の、人生だろ。俺だって、散々考えたよ」

「よくない。君は、俺が初めて認めた男なんだから、そんな泥舟に乗せるわけにはいかないだろう?」


 一時の身内の情なんかに騙されて、自分の許可なく勝手に長く続いてるだけの泥舟に乗ろうとして。そんなの、許せるわけないだろう。


「だから、親族に接触して、株を集めたのかよ。詐欺みたいな口八丁手八丁で。社長の、自分の父親まで巻き込んで」


 伊吹は、涙目で千秋を睨んだ。

 それに、千秋は視線を外して空を仰ぐ。夜でも、雲がなく月がよく見える。綺麗だな、と素直に思う。


「言っておくけど、別に父さん騙してはないよ。話を持ちかけたら、なんでか乗り気だった。伊吹の父親と仲良かったんだって」

「それが、一番意味わからない……。なんで、仲が良いと買収しようとするんだよ。別に、親父は望んでなかったよ買収なんて。学生時代も、別に親友とかじゃなかったってさ」

「あー……。ほら、あの人も、刹那の親だから。一つの事ばっか見て、他が見えなくなるんだよ、偶に」

「親父、怖がってたよ。もうトラウマだよ、鍵の掛かる部屋が。何、濃度逆転ハイボールって。アホなの? いい歳した中年が、酒の力で有耶無耶にしようとするなよ。うちの家系、みんな酒強いけど、それはダメだよ。死ぬよ、ウイスキーは」


 アルコール度数、40度だぞ、と半泣きで付け加えられる。まあ、確かにあの時のうちの父親はやり過ぎたなーって思う。

 1人、うちの会社を買収ってどういう事だ、と会社を代表して家にやって来た伊吹の父親を、丸2日間、家の一室に閉じ込めて、買収に「うん」と頷くまで粘ろうとした。結局、会長という責任のある立場と息子達2人の顔を常に思い浮かべた籤浜大志は、伊吹と伊吹のクソ兄が助けに来るまで父から耐えて、父にせり勝った。あの事件のせいで、伊吹は千秋の事を全く信用してくれなくなった。千秋も、事件を聞いた後、本気で父を怒ったし手が出たし、母にも怒鳴ったし、顧問弁護士の胸倉も掴もうとしたけど逃げられた。今思い出しても胸ぐらを掴みたいぐらいだ。千秋が社長になったら、あそこの法律事務所と縁を切ると決めている。長年の付き合いがなあなあな関係にしたのだから、いい加減変えなくてはならない。


 あの事件があってから、籤浜の面々は全く、犀陵の事を信じてくれなくなった。買収と言っても、従業員を解雇しないし、経営陣もそのままでいいと言ったのに。もしも、千秋が会社を買収したら、自分たちは経営から外されて、従業員は沢山解雇されて、籤浜の事業も程なく無くなって、なんて最悪な未来を信じ切ってる。その原因が、うちの親、というのに、腹立たしさしか感じない。本当に、なんて事してくれたんだ。


「本当に」


 伊吹は、頭をかかえながら、小さな声で確かにこう言った。


「お前に、言わなきゃよかった。うちの会社に入るって」


 ——伊吹。


 心の中で、呼びかける。


 ——俺だってさ、傷つくよ。どうでもいい人間に何言われようとも嘲笑えるけど。お前からのそれは、傷つくよ、本当に。


「……伊吹」


 でも、その本心を隠して、千秋は伊吹に声をかける。


「ほら、君には愚弟の世話も頼んでるだろ。あいつの仕事、そろそろ終わるから」


 だから、と千秋は、手を差し伸べる。


「行くよ、伊吹」


 伊吹は、千秋の手をじっと見る。手を取ることも、誤魔化すように、軽く叩く事もしない。ただ、疲れたような目で、千秋の掌を見て、何も触れずにゆっくりと腰を上げた。そして、千秋に目を向けず、階段を降りる。千秋もその横に並んで、一緒に降る。


「あいつ、いつになったら自立するの」


 伊吹は、硬い声音で千秋に聞いた。


「刹那か? さあ」

「もう、24歳だろ。そろそろ独り立ちしてもいいだろ。というか、なんで兄弟揃って同じ会社なんだよ」

「あいつが就活成功できると思うか?」

「甘やかしすぎだよ。だから……」


 伊吹は、何か言いかけたが、益体もないこと、と気づいたから、首を振った。伊吹は、年下の扱いが上手い。別に世話をするのも苦ではなかったはずだ。でも、今の伊吹は、とても疲れている。しんどい、という思いが、隠さずに出ていた。


 共に並んで、千秋が室長を務めるオフィスに戻る。その間、会話はない。色々と、話したいことはあるのに、伊吹がその話題に乗ってくれるなんて思えなくて、千秋は黙って伊吹の隣、そろそろ暗いオフィスも多い会社の中を歩いて、まだ明かりが灯るオフィスに戻っていた。


 オフィスの中は、もう殆ど人がいなかった。でも、その中で1人、椅子に座りもせず、そわそわと待っていた弟に、千秋は声をかけた。


「仕事は終わったか?」

「千秋! 伊吹!」


 オフィスにいた刹那は、伊吹の姿を見ると嬉しそうに笑って、伊吹の元まで素早く近寄ってきた。そして、伊吹の体をぎゅう、と、抱きしめる。伊吹は、廊下の中の無表情を一旦やめて、困ったように笑いながら、刹那の背を軽く叩いた。


「こら、刹那。腕の力が強いぞ」

「ごめん」


 でも、刹那は伊吹から離れない。肩に額を当てて、それを擦り付けてくる。全く。自分の弟ながら、伊吹の事が好きすぎて甘えすぎだ。伊吹は、引き攣った笑みでそれを受け入れている。


「伊吹。今日も俺、頑張った」


 やっと体を起こした刹那のおねだりに、伊吹はまた、はいはい、とまるで親のように笑って、刹那の色素の薄い髪を撫でる。それに、刹那はとても、嬉しそうに笑っていた。そして、また伊吹の体を抱きしめた。


「伊吹、タバコの匂いがする」


 刹那は、少し不機嫌になったように伊吹を抱きしめたまま、じ、と伊吹の顔を見つめる。


「また、吸ってきたのか」

「……まあ」


 素直に頷いた伊吹に、刹那は頬を膨らませて、「やだ」と一言言った。


「伊吹がタバコ吸うの、嫌だ」

「いやさ……。そんなこと言われても」

「まあ、愚弟の言う通りかな。タバコなんて似合わないよ。やめたら?」


 千秋の言葉に、伊吹は刹那に隠れて千秋を睨んできた。けれども、刹那の前である事を思い出したか、すぐに作り笑いを浮かべて誤魔化すように「んなこと言うなよ」と口にする。


「ちょっとした、ストレス解消なんだから」

「……伊吹、ストレス溜まっているのか?」


 刹那は、不思議そうな顔で伊吹の顔を見つめている。


「あの、ミニハゲの兄のせいか? 何か、言われたのか?」


 刹那も、過去の伊吹の腹違いの兄と伊吹の確執は知っている。別に伊吹は教えてないが、千秋が教えた。だって、伊吹は、年下に弱いから。そちらを優先すると思って。クソ兄なんか、庇わないと思って。


 でも、伊吹は首を振った。


「何も言われてないよ。今日、親父のリハビリだったから、話聞いてただけ。俺達は上手くやってる。後、あのハゲは、事故の後遺症だからさ、あまり言わないでやって」

「うー……。千秋、いつ、籤浜をうちの物にするんだ? 伊吹は、出向じゃなくて、完全にうちのになってくれるんだ?」


 刹那は、伊吹を離さず、まるで守るように自分の胸に仕舞い込むみたいに抱きしめている。それで、伊吹の顔が見えなくなる。だから、今伊吹がどんな顔をしているかなんて、分かってない。


「さあ。向こうが頑固でさ」

「なんで? 向こうになにか悪い事でもあるのか?」

「ないよ、ない。ただ、色々と誤解を向こうがしてるだけ」


 刹那の腕の中、伊吹は、千秋を思い切り睨んできた。それに、千秋は笑って返す。本当だよ、本当に、本当なんだって、と思いは込める。でも、その思いが伝わった感じはない。

 刹那は、伊吹の肩を掴んで体を起こした。そして、必死な顔で伊吹と目を合わせて口を開き、「伊吹!」と大声で言った。思いきり、年下の顔で、おねだりをするみたいな態度だった。


「早く、あいつら説得して。伊吹の口から言えば、父も兄も納得するだろ」

「いや、その」

「伊吹も、千秋とは親友なんだから。お願い、伊吹」

「刹那、あのな」


 伊吹は、強い、しっかりとした力で、刹那の肩を掴んで押した。刹那は、素直に伊吹から離れて、唇を尖らせた。


「その、うちもさ、色々とあるんだよ。それに、同業他社でもないし、経営も、まだ不安定だし。犀陵の世話になっちゃ駄目だろ?」


 な? と、伊吹は、刹那の頭を撫でながら、目を合わせて、しっかりと語る。


「経営が安定したら、うちの物になってくれるのか?」


 刹那の言葉に、伊吹の顔が強張った。


「なら! 俺頑張るよ! たくさん頑張って! 籤浜の会社立て直すから! だからさ、伊吹、」

「刹那」


 内心が読めない、硬い声音。それに、口を開いてた刹那の口が、閉じる。


「大丈夫だから。ちゃんと、優秀な経営コンサルにも頼んで見てもらってるから。本当に、何もしなくていい。本当だから」

「……でも、その経営コンサルって、伊吹の叔父が紹介したんだろ。一個人の人脈なんて、たかが知れてる」

「そんな事ないよ。親父も早くおじさんに頼ればよかった、ていうくらい、優秀な人だから。会計士の資格を持ってるし、理屈もしっかりとしてて、でも、うちの企業理念とか将来の理想とか、ちゃんと理解がある人だから。銀行にも一緒に謝りに行ってくれて、返済計画もアドバイスしてくれて。すごい頼りになる人だから」


 だから、大丈夫。


 千秋からしたら、全く大丈夫ではないのに、伊吹は、刹那を押し込めるようにそう言う。また、千秋は納得がいかない。経営コンサルが悪いわけではない。でも、頼るのならなぜ、千秋を頼らず、叔父を頼ったのか。伊吹の叔父は籤浜の会社勤めではないが、勤めている企業で経理部に所属して、簿記の公的資格の最高峰の資格を持っているという。千秋も今取得しようと勉強を頑張っているが、まだ取れていないのに。悔しい、と、正直思う。


 刹那も、顔を見る限り、伊吹の言葉に納得していない。刹那の伊吹の大好きっぷりは千秋ですらどうか、と思うほどだ。まあ、伊吹が犀陵にやって来て刹那の世話をするようになってから、人の視線を怖がらなくなったり、笑顔が増えたり、仕事を伊吹に褒められたいが為に頑張るようになったり、と客観的に見たらいい事づくめである。でも、思った通りに事が進まない。


 刹那がいれば、年下に甘くて面倒見がいい伊吹は、そちらにかかりきりになって、放って置けなくなると思ったのに。そのまま、うちの会社にいてくれると思ったのに。以前の会社でも、面倒見の良さで後輩達に沢山慕われていたというのに。世話だって苦ではないはずなのに。

 でも、伊吹は内心、刹那を鬱陶しく思っているのだ。刹那と過ごしていても、伊吹の頭の中には、まだ籤浜が残ってる。


 ーー使えない愚弟だ、本当に。


 千秋は、ため息を溢した。

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