終わり

 目を見開き、勢いよく布団から起き上がった。


 自分の呼吸が荒い。しかしそれに構っている暇はない。伊吹を、迎えに行かなくてはいけない。秘書の酒井なんかどうでもいい。せめて、遺体だけは自分たちの元に。急いで着替えなければ。ああ、千秋にも話しておかないと、と暗い部屋の中、灯りを付けようと手を伸ばす。


 そこで、はたと気がついた。


 枕元の電子目覚まし時計。そこに表示された西暦と日付が間違っていた。なんで、と手を伸ばして、気がついた。


 目覚まし時計の表示は、間違っていない。正しいのだ。だから、間違っていたのは刹那の方だ。


 灯りを付けて、辺りを見渡す。そこは、海外のホテルでも、病院でも、タクシーの中でもなかった。千秋が借りているマンションの一室。刹那の部屋だ。どうせ大学卒業後出ていくんだから、と千秋は伊吹にはベッドを用意したのに、刹那には用意してくれなかった。だから、床にマットレスを敷いた上の布団の中、刹那は眠っていたのだ。


 だから、さっきのは夢。全部、幻。


 それを理解すると、刹那は、はー、と深い息を吐いた。立てた膝の上に額を乗せる。すっかり汗をかいた背中が濡れていて気持ち悪くて嫌だ。でも、それ以上に嫌だったのは、あの夢の内容だ。


 本当に、嫌な夢だった。なまじ、現実的だったのがもっと嫌だ。たまにそういう夢を見るが、さっきのは今までの人生の中で1番嫌な夢だった。


 刹那は電子目覚まし時計の隣にあるスマホに手を伸ばす。立ち上げたメッセンジャーアプリで、すっかりと後ろの方に追いやられたトーク画面を表示する。


 簡潔な言葉。伊吹からの別れの言葉は呆気ないほどだった。今日も、刹那が沢山送ったメッセージに返信は来ていない。読んだ形跡もない。いつも通り、だった。


 伊吹が出て行って、何日経っただろう。

 あっという間だった気がするし、随分と長かった気がする。変わらず、伊吹は帰ってこない。


 籤浜に告げ口した奴の粛清は済んだのに、伊吹はいない。刹那の側には誰もいない。千秋も忙しい合間を縫って探してはいるが、手がかりが全く掴めていないらしい。刹那は、毎日1人で大学に行って、講義を受けて、伊吹に教えてもらった家事の手順をなぞって暮らしている。でも、伊吹よりは上手くはできない。だから、千秋も弁当はいらない、と刹那に伝えていた。外食も多くなった。


 伊吹、と声を漏らす。


 でも、それに応じる者は誰もいない。なんだ、と振り向いてくれる伊吹はいない。刹那が縋る相手はもういない。初めて刹那を甘やかしてくれる相手はどこか遠くへ行ってしまった。


 刹那は、ゆっくりと立ち上がった。


 部屋から出る。暗い廊下を歩く。そして、たどり着いた、伊吹が使っていた部屋の扉を開ける。


 そこには、伊吹が出ていく前の日となんら変わらない部屋があった。

 なぜか千秋が伊吹には用意した折り畳みベッドには、伊吹が直前まで眠っていたかの様な布団がある。まるで、少しトイレとか水を飲みに行く為、部屋から一時だけいないようにも感じられる。


 刹那は、ベッドに歩み寄ると、床に膝をついて、そのベッドの上に上半身を投げ出した。


 すっかりと、伊吹の匂いはベッドから消えてしまった。なんの匂いもしない。あの近くにいると安心する匂いがしない。抱きしめられた時、胸一杯に吸い込んだあの香りがない。刹那は、鼻を啜りながら、ベッドの上で涙を流していた。その時だった。


 だんだんと、乱暴な足音が聞こえてきて、勢いよく刹那は振り返った。それと同時にドアが開いた。


「……お前もかよ」


 現れたのは、千秋だった。


 刹那と同じく寝巻き姿で、伊吹のベッドに縋り付く刹那を睨んでいる。


「ち、千秋?」

「……どけ。そこ」


 ずんずん、と横暴な兄は刹那の元までやってくる。そして刹那をベッドから引き剥がすと、ごろん、と伊吹が使っていたベッドの上に寝転がった。


「千秋、何をしているんだ」

「うるさい。寝かせろ、バカ」


 千秋は、鼻を啜りながら、明らかな涙声で刹那に言い返した。


「……泣いてるのか」

「うるさいって言ってるだろ愚弟。嫌な夢を見たんだよ。本当に、胸糞悪くなる夢だった」


 千秋の部屋には、立派なベッドがある。でも、伊吹の部屋の折り畳みベッドで寝転がっている。壁の方を向いて、腕を枕にしている。体が、小刻みに震えている。


 こんな千秋の姿は、初めて見た。


「……」


 刹那も、伊吹が使っていたベッドに横たわった。千秋と背中合わせになる。千秋と同じベッドに寝転がるなんて、まだ小さな頃を思い出しても、初めての経験だった。


「どんな夢だ」

「言う訳ないだろ。現実になったらどうするんだよ」

「……そうだな。俺も、嫌な夢を見たから」


 伊吹が復讐の為に非合法的な手段で籤浜を潰して、海外に逃げて、そこで死んだ。殺された。夢のどのワンシ—ンを切り取っても、現実にはしたくない事ばかりだった。


「会社は、どうだ」


 声をかける。ぐすり、と千秋が鼻を啜る音をあえて無視して、聞いてみる。


「今、力になりそうな奴をリストアップしてる。お前が入社する頃には揃うから、ちゃんと挨拶して礼儀正しくしろよ」

「……分かってる」

「お前は勉強ちゃんとしろ。伝手で試験問題手に入れて、それで単位を取った気になるな。ちゃんと、学んだ知識は頭に入れて身につけろ」

「うん」


 刹那は、しっかりと頷いた。


「他の奴らを黙らせる為にも、俺は本業に力を入れなくちゃいけない。だから、籤浜の事はお前が中心になって動くんだ」

「うん。それが、父さんが出した条件だからな」

「一通りの部署を経験もさせず、いきなり俺の下に付かせるんだから、隙は見せるなよ。仕事は厳しすぎるぐらいがちょうどいい」

「分かった」

「伊吹をまた捕まえるまで、気は抜くな」

「……千秋」


 刹那は、そっと千秋に囁いた。


「多分、伊吹には俺たちの他に協力者がいるんだ。籤浜の情報を流してくれる様な」

「……あいつ、俺達には何も言ってなかったのにな」

「うん。ムカつくな。でも、伊吹が信頼するくらいだから、きっと伊吹にとっては大切なんじゃないかと思う」

「……で?」


 千秋は、また鼻を啜った。でも、声がしっかりとしてきた。


「俺達が籤浜を潰すまで、その協力者は伊吹の逃亡の手助けをし続けてもらわなければならない。情報を流すくらいだから、きっと協力者は籤浜内部の人間だ」


 刹那は、千秋に背を向けながら、話す。伊吹がいない部屋を見続けながら、話す。


「出来うる限り、籤浜がその協力者を探し出す余裕は作らない方がいい。今からでも、籤浜を揺すれないか?」

「…………」


 兄は、少し考えた後、口を開いた。


「今できるのは、噂を流すことだな。資金繰りが厳しくなってる、という噂でも流せば取引先も付き合いを躊躇う」

「うん」

「決算書見る限り、粉飾は絶対にしてる。だから、それもセットで噂を流す。あまり動きすぎても怪しまれるから、最初に噂を流す相手を選ばないと」

「籤浜の、大口の取引先は?」

「そこ、うちと付き合いないから。いきなり近寄ってそんな事話しても不自然だろ」

「……経営陣と、プライベートで会う、とか」


 一瞬の間の後、はー、と、千秋はため息を吐いた。


「流石に、社長引き継ぎもあるのに、働きながらそこまでは無理だ。時間が足りない」

「俺がする」


 刹那の声に、千秋の背中がモゾモゾと動き、ぴたりと止まった。うなじに、視線を感じる。


「お前が?」

「うん」


 刹那は、しっかりと頷いた。


「まだ、入社するまで時間はあるから。俺の方が時間あるし」

「……接触する奴の趣味がキャバクラ通いだったら、そこに通うのかよ」

「うん。通う」

「……」

 

 千秋は黙り込んだ後、ぼふりと音を立ててベッドに沈み込んだ。


「金は出してやる」

「ありがとう」


 兄弟は、伊吹が使っていたベッドの上で、背中合わせになっている。お互いの体温を感じながら、ここにはいない誰かを思う。伊吹は、今、よく休んでいるだろうか。そろそろ寒くなってきたが、凍えていないだろうか。


 狭いベッドで、男2人で寝転んでいる。体は十分温かいのに、心は一向に暖かくならない。


「……千秋」


 刹那は、以前よりも出しやすくなった勇気を振り絞って、そっと兄に話しかけた。


「んだよ」

「ずっと、言ってなかったんだが」

「ああ」

「俺、伊吹が好きだ。そういう意味で」


 刹那の言葉に、千秋は黙る。けれど、直ぐにまた、はー、とため息が聞こえる。呆れの色が含まれていて、それに夢を思い出して気後れしそうになった。


「そんなの、とっくに気付いてたよ、バカ」

「え?」

「お前、伊吹を見る時の目がキラキラしすぎ。いくら伊吹が甘やかしがちでも伊吹に甘えすぎ。伊吹がお前の方に向く度嬉しそうにしすぎ。伊吹が来てから身なりに気を使う様になったし、よく笑うようになった」


 千秋は、あとは、と、伊吹が刹那の側に来てからの、刹那の変化を語る。沢山あった。沢山、伊吹のおかげで、刹那の世界が色付いたのだ。千秋は、そんな刹那をずっと見ていてくれたのだ。


「伊吹は、気付いているのか」

「いないだろ。可愛い弟分ぐらいにしか思ってない」

「……鈍感。いや、千秋が敏感なのか」

「ふん、まあな」


 千秋は、鼻を鳴らした。


「伊吹は歳下に弱い。それで、突発的な、予想もしていない事にも弱いから、捕まえたら考える時間を与えずに甘えまくって押せるだけ押せ。そのままキスでもしてやれよ」

「……いいのか」

「また逃げられて、俺の知らない所で勝手に死なれるよりはマシ。あいつの貞操ぐらいお前にくれてやる」

 

 千秋は、偉そうに言った。


「もし伊吹がまた見つかったら、絶対に逃すな。俺たちの下に、縛り付けるんだ」

「うん」

「俺の力を信じず、勝手に逃げた事を後悔させてやるんだ」

「分かってる」

「お前は、沢山頑張れよ。父さんにあれだけ啖呵切ったんだから」

「うん。頑張るよ、沢山」


 刹那は、兄の言いつけに何度も頷く。伊吹がいない部屋。すっかりと伊吹の匂いや気配が薄くなった暗い部屋で、2人の兄弟は背中合わせになっている。刹那は、初めて、背中で兄の体温を感じながら、勇気を握りしめて、ゆっくりと瞼を閉じる。


 思い浮かぶ人はただ1人。


 自分を初めて沢山甘やかしてくれた人。

 初めて、刹那が勇気を握る事ができた人。


 初めて、恋をした人。


 いつか、たくさんの初めてを抱きしめて、絶対に迎えに行く。


 だから、また会えた時は、どんな一瞬も、いつまでも永遠に、側にいさせるから。


 刹那は、そうして、また自分自身に初めて誓うと、大好きな人の顔を思い浮かべて暗い部屋の中、意識を手放したのだった。

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