第3話

 急いで駆けつけた近くの病院の霊安室に、彼はいた。


 間に合わなかった。病院に着いた時にはまだ息はあったようだが、下腹部に一発で、大量出血で、伊吹は刹那が病院に着くよりもずっと前に、息を引き取っていた。


 男性警察官と看護師らしき女性がいて、秘書も気分が悪そうな顔をして同じ空間にいた。刹那は、日本でも病院の霊安室には入った事はないから、日本のそれとこの国のそれとの違いはわからない。でも、その場所は死体を腐らせない為、と言っても寒すぎて、ただ、死体を入れるだけのロッカーのような引き出しがあった。巨大な冷蔵庫だな、と場違いに思った。


 女性看護師によってロッカーから出された時に最初に見たのは、巨大なビニール袋だった。それに、目を見開く。いくらなんでも、雑すぎやしないか。ほんの数時間前まで、生きていた、のだろう。


 そして、ビニール袋が開いた時、刹那は立っていられなかった。秘書は顔色を悪くして、後ろを向いている。支えもしない。代わりに男性警察官が来て、太い腕で刹那を支えてくれた。


 英語で聞かれる。知っている人か、と。刹那は、ゆっくりとうなずいた。


 伊吹は、眠っていた。

 そう信じたいほど、目を閉じて、微笑んで眠っていた。顔に、まだ血が残ってる。なのに、伊吹は笑ってる。


「いぶ、き」



 ——なんでだ。


 あんた、殺されたんだぞ。なんで、笑ってるんだ。なんだその穏やかそうな顔は。死にたかったのか? なんで?

 今日再会したばっかりじゃないか。これから、一緒に日本に帰るんだろ。また、刹那の側にいてくれるんだろ。なのに、なんで死んでるんだよ。殺されているんだよ。おかしいだろ。

 おかしいよ、伊吹。



 呆然と、そう思う。伊吹に心の中で語りかける。でも、何も返答は返ってこない。口が動かない。喉が締め付けられたようだ。それを震わせるだけの、勇気が持てない。


 看護師が、近寄ってくる。訛りが強くて、何を言っているのか分からないが、ビデオカメラを持っている。


 警察官が簡単な英語で教えてくれた。今際の際、伊吹は何か、日本語で話していたと。こんな異国で、たった1人で死ぬ伊吹を憐れんで、看護師がビデオカメラでその様子を撮っていたと。遺族とか友人に、見せようと思っていたと。


 見るか、と言われて、刹那はゆっくりと頷いた。秘書は、信じられない、といった顔だが、そんなの関係なかった。


 ビデオカメラは、看護師が持ってくれた。刹那自身で持てるわけが無かったのだ。用意された椅子で、刹那はビデオカメラを見つめる。


 小さなビデオカメラの画面の中に、伊吹がいた。生きて、いた。

 

「いぶ、き」

『せつ、な』


 刹那は、目を見開いた。

 名前を、呼んだ。確かに伊吹は名前を呼んだ! 刹那の名を! 

 苦しそうにしながら、ベッドの上で、焦点の合っていない目で、カメラを見つめながら、話している。


『神様って、いるん、だな』


「伊吹、伊吹!」 


『お前、立派になって、よかっ——』


 そして、伊吹は、微笑んで。

 目を閉じて、眠った。


「あ、あ……!」


 刹那は、ビデオカメラを看護師の手ごと掴んで、震えた。


「伊吹、嫌だよ、眠らないで!」

 

 ——話そうよ。お互いの事。離れ離れになっていた間の事、話そうよ。沢山、沢山!


 自分の、どこが立派になったというのだ。会社ではお情けで千秋のそばで働かせてもらって、外に出る時は秘書を名目としたお目付役が必ずついているというのに。自分の、どこが、立派だと。大好きな人の為に、父に歯向かうという勇気すら持てなかったのに。千秋が父に初めて殴られた時、刹那は殴られてもいないのに、怖がって、何も動けなかったのに。


「伊吹! ごめん、ごめん、伊吹!」


 椅子から立ち上がって、伊吹が寝るストレッチャ—に縋り付く。


「助けられなくてごめん、1人にしてごめん! 謝るよ、沢山、謝るから、だから!」


 ——側にいてよ。帰ろうよ、一緒に。伊吹。


「いぶ、」

「刹那さん!!」


 肩を、強い力で掴まれた。伊吹に伸ばそうとした手が、止められた。


「大変です! 病院に、マスコミが沢山集まっているようです!」

「は……」


 だから何だ、と信じがたい気持ちで思った。

 何を言っているんだ、この男。こんな状況で、何を言っているのか、刹那は全く分からなかった。


「こいつ、酷いやつなんですよ!」


 秘書は、伊吹を無遠慮に指差して叫んだ。


「日本で反社と組んで散々好き勝手したやつらしいです! そのお陰で死人も出て……! とにかく、こんな所にいたらダメです! 逃げますよ!」

「ま、まて、なんで」

「はあ⁉︎ こんなのと知り合いなんて知れたら一体どうなるか分からないんですかあんた! 昼間もこいつに銃向けられていたのに!」


 秘書は、目を剥きながら叫んでいる。


「立場を考えてくださいよ全く! 病院の裏口に車用意してあるようですから乗って! ああもう千秋さんに怒ってもらおう!」


 秘書は、刹那の手を引っ張る。嫌だとか、待って、という言葉も通じない。秘書は強い力で刹那を引っ張っている。そして、病院の裏口に止めてあったタクシ—に乗り込んだ。


 刹那は、病院を見つめながら、涙を流す。伊吹を1人にしてしまった。あの場に踏み止まれなかった。なんで。ああ。自分は、なんて、無力な。


「ほら、千秋さんご立腹ですよ」


 秘書が、スマホを差し出す。震える手で受け取って、耳に当てた。


「——千秋」

『おい愚弟。酒井から聞いたよ。お前、何やってるんだ?』


 千秋の倦み疲れたような声がした。


『その程度の出張で、何トラブル起こしてるんだよ。いい加減にしてくれないか、本当に』


 心の底から、呆れて疲れていて、刹那に初めから、何も期待していないような声色。普段は、その声色に頭が動かなくなってしまうが、今は、そんなの関係なかった。


「千秋、伊吹、が」


 伊吹の名前を出して、あ、と気づく。

 千秋が、伊吹の事を忘れていたらどうしよう。どうでもいいって言ったらどうしよう。


『…………伊吹?』


 しかし、千秋はそう言った。すぐに、伊吹、という名前に、反応してくれた。


『え、何。お前今、伊吹って、言ったか』


 千秋の声に、久しく聞いていない明るさが灯る。熱が灯り、がたん、と電話の向こうで音がした。


『お前、伊吹に会ったのか⁉︎ おい、どうなんだ、刹那!』


 千秋からも、久々に名前を呼ばれた。ずっと、おい、とか、愚弟、とか、そういう呼び名ばっかりだったから。


「……あった」

『ははっ! あいつ、海外にいたのか! どうりで日本中探しても見つからない訳だ!』


 千秋は見るからに喜んでいる。


『今そっちは深夜か。ああ、でも連絡先ぐらい交換しただろうな? してなかったら許さないぞ。するまで帰ってくるな』

「千秋」

『あいつ、元気そうだったか? 勉強は国語以外、俺よりも出来たし、英語も得意だったから、言葉は問題ないだろ』

「伊吹が」

『たっく、あいつも仕方がない奴だよ。海外に逃げるなら、せめて俺に一言言ってから逃げろって。お陰で散々無駄足踏んだ』

「ちあきぃ……」


 脳裏に浮かぶ、伊吹の姿。

 たくさんの思い出があるのに、今は全て塗りつぶされたように、一つの姿しか出てこない。あの霊安室で、殺されたのに、笑って、眠っている姿。

 それに、涙が堪える事ができない。情けなく、泣く事しかできない。


『……………………刹那?』


 不審がる千秋に、刹那は真実を告げる。

 誰も幸福にならず、誰もが重たい石を飲み込んだような重苦しさしか感じない真実を。


 千秋は息を呑んでいる。自分は、ただただ兄に縋るように泣くだけ。

 タクシ—のカ—ラジオからは、最新ニュースをラジオのパーソナリティーが話しているのが聞こえる。曰く、日本から復讐に来た女性が、見事人手なしの悪人を成敗したと。銃弾を一発、憎たらしい仇の真っ黒な腹に撃ち込んで、その悪党は苦しんで死んだと。女性の気迫にやられて、その悪漢は全くの無抵抗だったと。


 これぞ神の思し召し。女性は正しい事をした! 悪人は成敗されて然るべき!


 それを聴きながら、刹那は伊吹の本当の姿を世間に教える勇気も持たず泣き喚くだけ。後悔が、身体中に包んでいく。













 ああ、神様。


 もしも、もしもがあるならば。


 あの日、勇気を出して、父を説得する千秋に加勢できた自分がいるならば。


 伝えてください、この後悔を。遅すぎる勇気と覚悟を握った愚か者の事を伝えてください。

 そして、こんな結末を、あの優しい人に迎えさせてはならないと。何をしても、この結末は覆してくれと。


 ただ、それだけを、伝えてください。






 





 いつまでも、いつまでも、無力で遅すぎる刹那は、泣きながら、そんな、何にもならない祈りを捧げていた。


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