握れなかった勇気を貴方に 犀陵刹那

第1話

 その日、自分は生まれて初めて、神様という存在を信じて、そして心の底から感謝した。







  






「伊吹……?」


 自分の声がひきつっている。なんだか視界がぼやける。体が震える。心の中が真っ白になるくらい、驚いて、喜んでいる。


 海外出張中、この辺は治安が悪いから早く通り過ぎましょう、と半ば自分のお目付け役の秘書に言われて、刹那も早歩きで歩いていた。鞄をしっかりと握りしめて、辺りをきょろきょろと警戒しながら歩いていた。

 

 それがよかったのだ。だって、通りがかった、異邦人の自分でもすぐにわかるほど寂れて、冬でもないのに枯れて落書きもされた噴水の縁に座っていた、黒髪で随分と痩せたが、でもずっとずっと心の中で求めていたその人を見つけることができたのだから。


 刹那さん? と、自分を先導していた秘書が怪訝な顔をして振り向いている。そして、刹那の視線の先を同じように見つめた。


「……アジア人ですね。日本人でしょうか」


 それきり、秘書は眉間にしわを寄せて刹那の元まで歩み寄ってきた。行きますよ、と目で訴えている。


「その、ごめん」

「どうしたんですか。確かにこんな治安が悪い地域に日本人らしい人がいるのは珍しいかもしれませんが。いつまでも見つめていると、絡まれますよ」


 知り合いですか、と秘書の「絶対に違うだろうな」という思いが込められた言葉に、刹那はうなずいた。


「……え?」

「知り合いだ。ようやく、会えたんだ。……頼む。少し、時間をくれ」


 刹那は、じっと秘書を見つめる。秘書は、困ったようにすっかりと刹那に気づいているらしく刹那の方を見つめる伊吹と刹那を交互に見やる。そして、伊吹の方をじっと見て、伊吹の記憶の中よりもずっと細くなった身体を見つめた後、深いため息をついた。


「……あいさつ程度にしておいてください。いくらお知り合いと言っても、あまりこういった場所に長居されては、社長とお兄さんがなんというか」

「父さんは、分からないが、千秋なら、きっと許して、」


 言いかけて、口を噤む。


 千秋は、兄は、なんというだろうか。

 あの日、伊吹が刹那と千秋で3人で暮らしたマンションから1人逃げ出した後、千秋が伊吹を助けるために会社の力を貸してくれ、と父に懇願していて、しかし父が全く取り合わなく、初めて千秋に暴力を振るった日から、千秋が伊吹の名前を出すことはなくなった。探しているのかもわからない。もしかしたら、もう、忘れているかも。だから、千秋の名前を気軽に出すことは憚られた。


「その、行ってくる」


 そして、刹那は秘書の機嫌が変わらないうちに、自分を驚いたように見つめる伊吹の側へ、走り寄っていった。


 伊吹の目の前までくると、自分の呼吸がすっかりと荒くなっていた。はあはあ、と肩で息をするが、視線は真っ直ぐに伊吹に向ける。伊吹は、困ったような表情で、ちらり、と公園の入り口で不機嫌そうに待つ秘書に視線を移した。


「……いいのか。あっちは」

「いい。許可はとった」

「そう、か」


 本当に久々に聞いた伊吹の声には、力が無かった。一時的に元気がない、と言うよりは、体の中から活力が湧かないような、そんな風にも感じられるような声だった。それに、伊吹の今までの生活が詰まっているようで、胸が締め付けられそうになった。


「伊吹、隣、座ってもいいか」

「……少しな。お前だって、待ってる人がいるだろ」


 伊吹は、秘書と似たような事を言って頷いてくれた。だから、刹那はそっと、伊吹の隣に腰掛ける。


 空は曇天で、空の向こうなんて見通せないくらいで、もうすぐ雨が降りそうなくらいだ。でも、伊吹は見る限り傘は持っていなさそうだ。自分と別れてから年月が経っているのに、以前も使っているのを見た事があるショルダ—バッグの紐を、ぎゅう、と握っている。


「伊吹、久々だな」


 刹那は、沈黙が怖くて、直ぐに伊吹に話しかけた。


「海外に出ていたんだな」

「……まあな」


 思えば、伊吹の身を思えばそれが一番確実なのだ。本当は、それこそ父親から逃げ始めた時に直ぐに海外に行けば、誰も伊吹に手出しできなかった。けれど、千秋が伊吹を見つけて、刹那も居候していたマンションに連れ帰ってきてから、2年半も、伊吹はずっとずっと、刹那の隣にいてくれた。自分の、友達役をしてくれたのだ。

 それに、結果的に、籤浜の面々の末路を考えれば、尚更、海外に出ていた方が、ずっと安全だった。


「今は、その、なにをしているんだ」


 伊吹の服装を見る。

 随分と着古したパーカーに、Tシャツに、ジーンズ。決して、生活に余裕がありそうには思えなかった。若者の様な格好をしている。伊吹は若く見えがちなので違和感はないが、伊吹はそろそろ30に近いはずだ。あまり、年相応の格好ではない。生活は、あまり良くないのだろうか。


 伊吹は、質問には答えず、刹那をじっと見つめている。


「お前は、親の会社に入ったんだったな」

「え、あ、うん」

「千秋は、後継者修行、頑張ってるのか」

「……うん。父さんの近くで、仕事してる。千秋は、次期社長だから」

「へえ。ならいい」


 伊吹は、いい、と言っていたが、その言い方は他人行儀で、軽くて、なんだか、伊吹の中で自分や千秋の存在すらも小さく軽くなってしまった様に感じる。それは、嫌だ。仮にそうだとしても、そんなの、絶対に嫌だ。


「伊吹は、この辺に住んでいるのか」

「まあな」

「いつから」

「2年前から。日本を出たのもそれくらい」


 2年前。

 その言葉にどくんと心臓が鳴った。自分が父の会社に入ったのと同じ年。そして、伊吹の父を含む、籤浜の親族達の悲劇。


「伊吹、は、その」


 刹那は、ぐ、と拳を握りながら、刹那は口を開いた。


「日本には、いつ戻ってくるんだ」


 伊吹は、刹那の方を向いて、目を見開いた。


「その、籤浜は、潰れたんだ」


 ごくり、と刹那は生唾を飲み込んで話す。

 そう、籤浜は潰れた。全て全て、会社も家も人も、全て潰れて、酷い目にあって、血に塗れて。


 でも、伊吹にその事を伝える必要はない。もう逃げる必要はない。それだけを刹那はただ伝えたかった。


「だから、跡取りはもう意味がなくなった。だから、伊吹はもう海外にいる必要はないんだ」


 刹那は、伊吹をじっと見つめている。


「伊吹。その、俺はずっと会いたかった。千秋も、きっと。だから、日本に、」


 そう言いながら、伊吹に手を伸ばす。伊吹が近くにいる。すぐ側にいる。だから、腕を伸ばせば捕まえられる。刹那と一緒に大学に通っていた時みたいに、たくさん甘えて、おねだりをしたら、きっと仕方がないなって顔をして自分を甘やかして、お願いを聞いてくれる。


 だから。


「伊吹」


 もう少しで触れそうな、左手。記憶にあるよりも骨張ってかさついた手。その手に、昔の様に触れようとして。


 

 パシリ。



 そんな軽い音で、伊吹に振り払われた。


「……え?」


 伊吹の顔が、苦々しく歪んでいた。初めて見る顔だった。まるで、刹那を睨みつけているみたいだった。なんで。嫌だよ、そんな顔、されたくはないと、刹那は呆然と思った。昔みたいに、笑って欲しいだけだった。甘やかしてほしいだけ、なのに。


「……」


 伊吹は、立ち上がっていた。そして、刹那を見下ろしてじっと見つめた後、はー、と息を吐いた。


「日本での報道は、どうなっているんだ?」


 変な事を聞かれた。訳がわからなくて、刹那は伊吹を見つめる事しかできない。それに、伊吹は苦々しい顔と声音で、だから、と続けた。


「俺の事はどう報道されているんだ?」


 興味なかったからそこまで調べてない、なんて付け足されるが、刹那には、伊吹のいう事が分からない。だから、伊吹の顔を見ることしかできない。それに伊吹は苛立ったように眉間に皺を寄せた。


「答えろよ。分かってるんだよ、こっちだって」

「あ、あの」

「お前が話しかけてきたの、警察に引き渡す為だろ。分かってるよ。とっくに」

「伊吹、何を、いって」

「とぼけるな」


 伊吹は、刹那を見下して、冷たい声で言った。


「籤浜潰したのが俺だって、お前分かってるだろ」

「……え?」

「実の父親を殺したの俺だって、知ってるだろ」


 ——ころし、た?


 伊吹の言っていることが、理解できない。

 待て。伊吹の父は確かに死んだ。殺された。けれど、犯人は籤浜の親族の1人で、そいつもまた同じ親族に殺された。そいつは辛うじて生きてる。あの、籤浜の本家で起こった悍ましい事件の、唯一の、生き残りだった。


 まさか、あの場に伊吹か? 

 いや、待て。あの事件が起こったのは、今から1年半前。伊吹は2年前に海外に来た、と言っていた。だから、計算が合わない。だから、伊吹は父親を殺していない。伊吹は、何もしていない。その筈なのだ。


「というかお前さ、よく俺に話しかけてきたな。俺が籤浜の連中に何をしたか分かるだろ。そんな事をしでかす奴に、昔の知り合いだからって、不用心に話しかけるなよ」


 伊吹は、呆れた、と言うようにため息をついている。でも、刹那は全くついていけない。


「い、伊吹」

「なんだよ」

「ご、ごめん。伊吹が何を言っているか、わからない。い、伊吹は、何もしていない。そう、だろう?」


 引き攣りながら笑う刹那の言葉に、伊吹は目を見開いた。


「……おい。本家で起こった殺し合い、どう報道されているんだ」

「それは、その」


 刹那は、目を泳がせた。


 今から1年半前。籤浜の本家で凄惨な殺し合いがあった。

 そこで、多くが死んだ。自殺した者もいれば、ありとあらゆるものを持って殺し合った者もいた。籤浜の直系の親族達は、伊吹の父親を含めて、辛うじて1人残して、死に絶えた。


 でも、あまりに凄惨すぎる事件だったし、その裏では反社会組織の影も大きかった。だから、早々にメディアは報道自粛をし、被害者の数と事件の凄惨さとは裏腹に、碌な報道もされる事がなかったのだ。


 それを伝えると、伊吹は思い切り舌打ちを打った。


「なるほどな。そういや、そういう国だったな、日本って」

 

 伊吹は、まるで何かを投げ捨てるかのように言った。


「じゃあ、その場にいなかった親族達がまたどういう目にあったのかも知らないのかよ」

「それ、は」


 少しだけ、刹那は知ってる。


 籤浜、という名を持つ人間達は、殆どが碌な目にあっていなかった。大方の人間が、反社会組織や犯罪組織と関わっていた、というのは知ってる。けれども、どういう末路なのかは、わからない。情報は闇の彼方に葬られて、刹那のような一般人には、まず分からないし届かない場所にある。


「……たっく。本当に、相変わらずのお坊ちゃんだな、お前は」


 伊吹は、呆れたと言わんばかりに首を振った。


「いいか。籤浜を潰したのは俺だ」


 伊吹は、刹那を見下しながら、はっきりと言った。でも、その言葉が理解できない。そんな筈はない。だって、伊吹はそんな事をする人じゃない。優しい人だ。面倒見が良くて、昔の自分の世話もよくしてくれた。たくさん助けてくれて、世間知らずの刹那に、多くのことを教えてくれた。


「直接手出しはしなくても、俺は多くを殺した。実の父親だけでなく、ただ籤浜に生まれた、それだけの奴らも」


 いやだ。そんなの認めない。

 だって、伊吹1人にそんな大事が出来るわけがない。多くの人間が死んだ。闇に葬られた。けれど、伊吹1人にそんな事はできない。


「伊吹。俺を遠ざける為の嘘はよしてくれ」


 刹那は、しっかりと伊吹を見つめた。勇気をぐ、と握った。それに押されて、伊吹をまっすぐに見つめる。


「伊吹、日本に帰ろう。確かに、籤浜の奴らはみんなみんな、酷い目にあって死んだ。でも、それは伊吹のせいじゃない。奴らが勝手に、欲を出して、反社会組織と手を結んで、そうなっただけだ。だから、伊吹」


 手を伸ばす。さっきは失敗してしまったけど、もう絶対に逃げないように、捕まえなくては。


「日本に——俺の側に、帰ってきて、伊吹」


 手を握れ。そのまま、自分の側に。千秋にも連絡して、どうにか伊吹を自分の側に。


 その為ならば、刹那はなんでもやる。どんな努力も手段も厭わない。どんな道にも進む。その覚悟なら、今まさに、決めたのだ。


 だから、伊吹。


 久々に心から笑う。刹那の手はもうすぐ伊吹に触れる。伊吹が、自分の側に帰ってくる。それが、嬉しくて嬉しくて。だから。


「止まれ」


 伊吹が拳銃を取り出したのに、刹那は気付かなかった。

 

 刹那さん! と、秘書が顔真っ青にして刹那に名前を呼ぶ。刹那は目を見開いて、伊吹の手の中の黒い物体を見つめた。冷たそうな黒い塊が、伊吹に不似合いな筈なのに慣れた様子で、伊吹の手の中にある。


「お前さ、何を夢みたいな事言っているんだ?」


 伊吹は、笑っている。けれども、刹那を、初めて見る顔で嘲笑っていた。

 伊吹は、取り出した拳銃の先を、ぐ、と刹那の額に押し付けた。まるで、凍傷になりそうな程、その塊は冷たかった。


「信じられねえんなら教えてやるよ、刹那」

 

 ようやく刹那の名前を呼んでくれたのに、伊吹は決して、あの頃みたいに笑ってくれなかった。


「手始めに狙ったのは、俺の顔を知らない、籤浜の若い奴らだ。そいつらに無害な顔して近寄って、金に困ってるって言って、闇金の保証人になってもらった」


 ——嘘だ。


「闇金なら、弁護士とか警察の力を借りれば手はあったんだが、ほら、籤浜の奴らって馬鹿だし、バレたらやばい事もしてたから、そういうの頼れなくてさ」


 伊吹は、笑っている。


「親族の家に、盗みに入って権利書とか実印とかも欲しがる奴に売ってやった。これもいい金になったよ」

  

 伊吹は、そんな事しない。

 金の為にそんな事しない。


「結託させないように、嘘を吹き込んだり奴らしか知らない事を書いた手紙を送りつけて、疑心暗鬼にさせてやって」


 ぐりぐりと、伊吹は刹那の額に銃の先を押し付け続けている。秘書は、何も出来ずに青い顔をしたままだ。


「ああ、偽の警察官になったりもしたな。安いコスプレグッズに騙されて。本当に馬鹿な奴らばっかだろ?」


 いぶき、と、名前を呼びたいが、呼べない。

 伊吹の瞳を見つめても、伊吹は刹那を見ていない。視線は刹那を向いているのに、決して刹那を見てくれていない。遠くを、見ている。


「反社に食い物にされて終わったんだろ? 親父の会社」


 そうだ。

 今日び、暴力団対策の法律も対策のノウハウも警察にはあるのに、あっさりと会社は反社に取られて、消えてしまった。


「それも、俺のせい。籤浜の奴ら騙したり盗んだ物売った金で人雇って、親父の会社に入れて、まあ、色々仕向けた」


 色々って、何だ。

 何をしたのだ。なんで、刹那とか千秋じゃない人を頼って、そんな事を。なんで、そんな道に。


やりきれなさに、そう思う。視界が、涙で、よく見えない。伊吹の顔が、分からない。


「だから、親父も親族達も死んだんだろ? 確かに会社の資金繰りはヤバかったから、早晩、潰れてたんだろうけどさ。でも、あんな無残な、親族同士で責任擦り付けあって行き場も無くなって誰にも助けを呼べないで、無理心中みたいに、死んだんだろ?」

 

 なあ? と、伊吹は刹那の涙で滲んだ視界の中、笑う。

 笑っているのに、笑っていない。まるで泣いているように笑って、自分で自分の事を傷つけるように笑っている。


「皆、俺の手のひらの上」


 伊吹は、ふ、と真顔になった。


「お前、本当に何も知らないんだな」


 冷たい声だった。

 初めて聞いた。でも、その声だけで、刹那は今の自分の立場を思い知った。離れてから、伊吹の事を探そうともせず、籤浜の事も碌に調べようもせず、ニュ—スで流れている事だけをただただ摂取していた、自分自身を。

 伊吹の力になれず、ただ甘えているだけの、昔と何も変わらない、無力な自分を。


 刹那は、ゆっくりと、伊吹に伸びたままの腕を下ろした。


「いぶ、き」

「なんだよ」

「教えて。なんで、そんな事を」

 

 伊吹の目が、澱んだ。


「…………俺がさ、親父から逃げる時も、その後も、ずっと助けてくれた人がいてさ」


 刹那は、じっと伊吹を見つめる。

 伊吹が、刹那の側にきて、一緒に大学に行ってくれるようになってから、刹那はまず、誰かの事をまっすぐに見つめられるようになった。人の視線がそんなに、怖くなくなった。だって、伊吹が、刹那を見てくれる事が、とても、嬉しかったから。伊吹の前では、甘えたいからまだ怖いフリをしていたけれど。でも、それを思い出して、伊吹を見つめた。


 でも、伊吹は刹那を見ていない。ただ、自分の記憶とか、心の中を見ていた。


「でも、その人、親父に見つかっちゃってさ」


 伊吹が、刹那に向けている拳銃を持つ手が、震えている。


「その人の、奥さんから電話かかってきて。ひどい怪我だって。俺のせいだって。その人は、俺をずっと庇って、何も口を割らなかって」


 伊吹の瞳から、涙が一筋、落ちていく。

 きっと、その涙は温かいのに、拭わなきゃいけないのに、刹那は、動けなかった。


「だからさ、潰さなきゃって。何を利用しても、真っ当に生きる道を諦めても、その人が安寧に暮らす為に、ちゃんと、俺の手でカタをつけなくちゃって」


 なんで。

 なんで、自分は、その時に側にいれなかったのだろう。その時、刹那は何をしていただろう。ただ、あのマンションの一室で、父親を説得する勇気も持たず、膝を抱えて、震えて、伊吹が帰ってくるのを、ずっと待っていただけだった。自分の為だけに、震えていただけだった。


「……もしかしたら、千秋はもう知ってるかもしれないけどさ」


 伊吹は、ようやく刹那を見て、泣きながら、笑っていた。


「警察は、俺が事件に関わってる事に、きっと気付いてる。だから、日本には帰れない。帰ったら、俺が一番大切にしたい人に、きっとまた、迷惑がかかる」


 伊吹自身の為じゃなくて、刹那でも千秋でもない別の、大切な人の為。


 やっぱり、優しいじゃないか。昔のままじゃないか。変わらないじゃないか。伊吹が一番大切にしたいその相手が、刹那ではない事が悔しいけど。でも、伊吹は変わらないじゃないか。


「だから刹那。今日の事は忘れろ。いいな」

 

 伊吹は、笑いながら、ゆっくりと拳銃を下ろしてしまった。そして、右手を刹那の頭に伸ばして、


「……」

 

 引っ込めた。じ、と、伊吹は、自分の手を見つめる。まるで、手の汚れに気がついたように。その手は何も汚れていないのに。


「いぶ、き」


 ——いいよ。


 刹那は、涙を流しながら思った。


 ——別に、伊吹の手が泥まみれでも血まみれでもいいよ。


 ——昔のように、自分の頭をなでてくれよ。たくさん、甘やかしてくれよ。初めてだったんだよ。今までの記憶の中で、頭をなでられたのは、伊吹が初めてだったんだよ。


 でも、伊吹の手は、また、力なく下された。その手首には、何もない筈なのに、重たい手錠が見えた。そんなの似合わないのに、と涙が溢れた。


 ふ、と、刹那の顔を見て、伊吹は柔らかく笑った。


「千秋にも、お節介かもしれないけど、伝えておいて」

「いぶき、いぶきぃ……!」

「お前らは、真っ当に生きてって」


 じゃあな、と伊吹は刹那に背を向けた。


 自分は立ち上がる。伊吹を引き止めなくては。縋り付かなければ。どこにも行かないでって。側にいてって。どうにかするから、帰ろうって。たくさん頑張るからって。でも、足は動かない。まるで全身が鉛になったみたいだ。


 伊吹は、公園から出て行った。それを見送ってから、秘書が走り寄ってきた。


「刹那さん! だから言ったでしょう! もう!」


 ああ、社長と千秋さんになんて言おう、と刹那の事をほったらかしで秘書は頭を抱えている。でもそんなの関係なかった。ただ、寂れた、日本から遠い異国の公園で、自分の無力さを噛み締めて、泣いていただけだった。


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