終わり

 気を失う寸前、思ってはいけないことを、思ってしまった気がする。


 私は、勢いよく起き上がった。そして、あたりを見渡す。私のアパートではない。犀陵時次と丸一日いたあの部屋ではない。でも、内装は似通っている部屋の、白いシーツが掛けられたベッドの上で、私は眠っていたのだ。


 今何時だ。え? 午後17時?


 壁にかけられたデジタル時計で私は時間を把握する。そして、ベッドの隣のサイドテーブルの、田村法律事務所、という名前が書いてある大きな封筒を見つけた。それを、慌てて開く。別に糊付けで封筒が閉まっていたわけではないから、あっさりとその書類は出てきた。そして、私の顔は真っ青になって、後悔に頭を抱え込んだ。


 そのコピーされた契約書には、ヘロヘロな字で、確かに私の名前が書かれていた。私の債務や損害賠償を、犀陵時次が肩代わりする事になっていた。


 最悪だ最悪だ! 後悔の焼き直しだこれは!


 いや、待て、冷静に考えればこれは無効だ。家に丸一日閉じ込められて、強い酒を飲まされて、眠らせないように拷問された。なら、無効だ絶対!


 とりあえず、私が今、債務整理等の為に契約している弁護士に連絡しよう。若いけれども熱心で優秀だ。連絡を! スマホは! どこだ! ない!


 ズボンのポケットにはない。財布もない。カバンもない。この部屋には家具以外では封筒と私の身一つしかない。


 この部屋は明らかにまだ犀陵時次の家の一室なのだから犀陵時次が持っている可能性が高い。くそ、奪われたか! 警察行くぞ本当に!


「大志、起きたのか」


 部屋の外から声が聞こえる。そして、私の返答を待たずに扉が開いた。出てきたのは、やはり犀陵時次だった。すっかり着替えたその姿を見て、私はベッドから立ち上がって睨む。


「私の荷物は?」


 右手を出す。とりあえず、荷物を回収して、この家から出て、弁護士に連絡して会う予定を擦り合わせる。その後、アパートに戻ってシャワーを浴びて着替えたりしなければ。こいつが契約書をどこかに売るまでがタイムリミットだ!!


「まあ待て。はやるな」

 

 時次は、持っていた紙袋を私に手渡そうと差し出す。受け取らないまま中身を覗き込むと、真新しい服や下着、タオル、洗面用具などが入っていた。それに、嫌な予感がして犀陵時次を見つめる。


「お前の弁護士には連絡しておいたから。19時には来ると。その間に風呂に入って着替えたらどうだ。軽い食事もあるぞ。飲み物は炭酸系飲料もたくさんあるぞ」

「何やってんだあんた!!!!」


 私は、立場の違いも忘れて思い切り近所迷惑も考えず叫んだ。


「やっぱりか! やっぱりかあんた!!」

「言っておくが、お前の本音を向こうに告げたら、やっぱりか、と言ってこちらの援助の案にあの弁護士は乗り気だったぞ」

「あんたに私の本音を言ったことはない!」

「死ぬ気なんだろう」


 犀陵時次の真剣な顔とその言葉に、私は次に言おうとしていた文句を引っ込めた。


「金、全部返したら、長男の元に逝く気なんだろう。伊吹くんにアパートを遺して」


 私の眉間の皺が寄った。そういえば、酔った時、そんな風にくだを巻いた気がする。後悔だ。犀陵時次が、約束なんて守る訳ないぐらいの人間なのに打ち明けるなんて。後悔の一つとして、日記に書かなければ。


「そのアパートも見に行ったよ。外観と物件情報だけだが、立地もいいし設備もいい。よく手入れされた、いい物件だ。庭先に、私にいきなり唸って威嚇してきた猫がいたが」

「いきなり褒めて、なんのつもりですか」

「本心だよ」


 犀陵時次は、困ったように笑っている。


「満室なのが残念だ。もしも空きが出たら、私が借りるから言ってくれ」

「人を監禁してもしかしたら死ぬかもしれない濃度のアルコール飲ませて約束を破り眠らせないという拷問をする人間と、同じ屋根の下で住みたくありません」

「……今回はやり過ぎたよ、謝る」


 犀陵時次は、深々と頭を下げた。また頭を上げた時、犀陵時次は、まるで吹っ切れたような顔をしていた。せめて、最後まで申し訳ない、という態度を貫いてほしい。演技でもいいから。


「でもさ、こちらからしたら、それぐらいしても、お前に死んでほしくないんだよ」


 私は、ため息を吐いた。身内じゃあるまいに、私の生き死にがなんで犀陵時次に関係があるというのだろう。後、私がアルコールに強い体質だったから良かったとはいえ、本当にあの濃度逆転ハイボールは、人によっては本当に殺人ハイボールだというのに、白々しすぎる。


「大志。お前にとってはさ、遠い昔の事でも、お前にはそんな気はなかったとしてもさ」


 瞳が、深い。そして、奥底で、確かに火が灯っている。


「俺は、確かに、お前に夢を見たんだよ、大志」

 

 私は、思い切り眉間に皺を寄せて犀陵時次を睨みながら、もう一度、深い、深いため息をついた。


「息子さん達に、似てますね」

 

 犀陵時次の息子は、見た目は犀陵玲奈に似ている。2人揃って、母譲りの顔立ちの美青年で、きっと女性にもモテる。


 けれども、その瞳と中身はそっくりだ。しつこくて、容赦がなくて、目的の為なら、何をしても構わない、と思っている。周囲の状況に振り回されて、雁字搦めになっていた私とは大違いだ。


「……そうか、似てるか、私は。息子達に」

「ええ。私の会社を潰した息子さん達にそっくりです」


 私の部下達を思い出す。


 彼らは、私が会社を畳むことを宣言すると、口々に謝ってきた。自分達の力不足です、とか、もっと頑張っていれば、とか、泣いていた人間もいた。私からしたら、あの会社に縛りつけるのも可哀想で勿体無いくらいの、優秀で、できた部下達で、今彼らが立ち上げた探偵社の活動も、心の底から応援してる。そちらの方が、彼らに相応しいと思う。でも、彼らは私に感謝してる、と言っていた。もっと、私の側にいたかった、とも言ってくれた。目が曇りすぎだな、と呆れたものだ。犀陵の人間の依頼はいくら金を積まれようとも絶対に受けない、と宣言もしていた。


 そんな彼らの思いを踏みにじっても、あの兄弟は伊吹の為とか言って、私の会社を潰したのだ。強引な手段だったから、もしかしたら、先の未来、何かの火種になるのかもしれないのに。本業もあるのに、恐らく私よりも私の会社の事を考えて、時間をかけて準備をして、潰してしまったのだ。伊吹だって、驚いただろう。その想いの強さに、感謝どころか逆に引いて、逃げたくもなっただろうに。


 なら、私がその親である犀陵時次に勝てなかったのは、もう決められた結末だったのかもしれない。私は、頭をガシガシと掻きむしってから、犀陵時次に握られた紙袋を受け取った。


「風呂はどこです」

「ああ、こっちだ」

 

 犀陵時次は、ポケットから鍵を取り出して、部屋の鍵を開けてから廊下へと続く扉を開けて先導した。……また、閉じ込められていたんだ、俺……。


「言っておきますが」

「なんだ」


 私は、廊下で犀陵時次の背中を睨みながら口を開く。


「もう隠す必要はないので言っておきますが、私にも財産があります。それらを充てれば、貴方が肩代わりした額など、直ぐに返済できます」

「へえ。やっぱり、昔と同じく真面目で堅実だな、お前」

「ええ。ですから、貴方が思っているのよりも早く、私は貴方に金を返します。その後、私は和樹の元へ向かいます」

「……そうか」


 犀陵時次は、何を考えているのか、分からない。表情も分からないし、学生時代は犀陵時次と本気で向き合った事が無かったからより分からない。お互い社長になった後も会った時は何故かちょくちょく話しかけてきたが、こいつは人付き合いが下手なので、無理して他人と話した後、無理しなくていい私でガス抜きしていたとばかり思っていた。お互い立場があったから、腹を割って話すなんて、とてもできなかった。


 だから、私も初めてなのだ。犀陵時次に、本音で話すなんて。


「貴方のことは許しません。でも、どうせ短い付き合いになりますから、その短い時間、少しだけ付き合ってあげますよ。とても嫌ですが」

 

 私は、そう言って、風呂場までの廊下を歩きながら弁護士が来てからどう交渉を進めようか考える。とりあえず、契約書を売らないように対策をして、処分できる財産は、予定通り全て処分して金に変える。それを、犀陵時次に渡す。犀陵時次から紹介された再就職先がどれほど稼げるか分からないが、生活費はそれで賄って、家賃収入は充てられるだけ、犀陵時次への返済に回して。そのペースなら、完済までは——。














 籤浜大志は、考える。自分が死ぬまでの道筋を、しっかりと考える。金銭問題は、しっかりとしないと息子に迷惑が掛かる。カタを付けるまで、絶対に死ねないと、決意する。


 だから、気が付かなかった。前を歩く犀陵時次が、ようやく、彼をこの世に繋ぎ止められたと。


 涙を流して、喜びと安堵に震えていたのには、全く、気が付かなかった。

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