第8話

 私は、虚ろな目で犀陵時次の後ろの時計を見つめた。現在時刻、昼の12時。犀陵時次のまた後ろの窓から、今日の天気が分かる。昨日と同じ、澄んだ秋空だなぁ……。


 耐えた。頑張った。この歳で徹夜をしつつ、頑張って直ぐにでも意識が飛びそうな頭を動かして、契約書のサインを拒み続けた。犀陵時次は、私と同い歳で同じく徹夜なのに、未だに活力が残っていた。眠りそうな私をその都度起こして、「ここにサインをすれば解放する」と言い続けた。


 なあ、時次。眠らせないって、拷問の一種なの知っているか? 知っていても関係ないのか、お前なら。なあ。


 おかしいなぁ。苦しみに耐えれば、解放はすぐそこなのに、私は未だに解放されない。なんでだろう。私の信念が間違っていた、という事だろうか。じゃあもう何を信じればいいんだ、なあ。


「なんで」

「うん」

「なんで、こんな、事を」


 どうせ、良からぬ事を考えているのだろうけれど。息子たちの不始末の尻拭いにしては頑固がすぎるし。


「……金持ちの傲慢、とお前は言うかもしれないが」

「うん……」

「お前は、生真面目な奴だったから。俺と契約を結んでいる限り、死なないと思って」

「う、ぅ……」

「お前に、生きて、ほしくて。その為なら、金なんて、惜しくは……」


 ちょっと、何を言っているのか、分からない……。


 話の内容が、頭に入ってこない。意味がわからない。眠りたい。解放されたい。死にたい……。


「ほら、起きろ。サインすれば眠れるぞ」


 腕が伸びてきて体を揺らされる。ゆっくりと、瞼を開ける。光が辛い。白。白い光。白い、布。


「……和樹」

「長男の事は残念だった。でもさ、彼はお前が後を追う事を望んでいるか、ちゃんと考えたか?」

「死な、なきゃ」


 だん! と大きい音がテーブルから聞こえた。未だ乗ったままの、ウイスキーの酒瓶がその衝撃でテーブルの上に倒れる。幸運にも、割れなかった。


「起きろ。サインをしろ」


 目の前の犀陵時次の顔にも、クマが浮かんでいた。でも、目が深くて、その奥底でごうごうと燃えていて。ああ、これに呑まれたら奥底に落ちて焼き殺されるな、と思ったが、そんな死に方は本意ではないので首を振る。遺体の身元がちゃんと分からないと、いろいろと意味がない。


「頑固だな。その頑固さどこで覚えた」


 呆れた調子の犀陵時次だが、頑固なのはどちらだ、と言いたい。


 我慢比べなら、恐らく私の方に分がある。粉飾をしてしまった負い目を抱えながら、息子を1人失い、もう1人の息子は日本中を逃げ回るほど私を嫌った。そんな中で、ずっと会社を経営し続けていたのだ。それを思い出せ。おそらく、ここが私の人生の集大成だ。見通せない未来を抱えながら、ずっと耐え忍んできた日々を思い出せ。眠れないくらいなんだ。息子2人は、それよりも辛い日々を過ごしただろう。それを思い出せ。まだ生きている伊吹に、これ以上迷惑をかけるな。


 私は、そう思うとしっかりと、犀陵時次を睨んだ。私の眼差しに、犀陵時次は思い切り舌打ちを打った。さすがの長丁場に、犀陵時次にも疲れが見える。しんどさを抱えながら進む事は、きっと私の方が経験値がある。だから、勝てる。私は、テーブルの下で拳を握りしめた。


 そして、気がついた。


 犀陵時次の背後の窓。そこに、2人の人影が見えた。1人は犀陵玲奈。相変わらずの芸術作品の彫刻のように美人だ。女優帽、というか、つばの大きな黒い帽子を被っている。それが本当に女優のように様になっている。もう1人は、白髪の、質は良さそうだが、何日も連続して着ているかのように、しわくちゃなスーツを着た男だった。顔もとても疲れている。それを抜きにすれば、紳士然とした男なのに。え、なんで。この敷地内に犀陵玲奈は分かるが、もう1人男がいるんだ。まさか、こっちも浮気?


 そんな馬鹿な事を思っていると、白髪の男が、私に窓越しで名刺を見せてきた。


 ええと? 弁護士の方ですか。はあ。田村さんというのですか。ベテランそうな雰囲気ですね。


 ——犀陵の会社の、顧問弁護士も勤めております。


 おかしいな、なんか心の声が聞こえてきたな。

 幻聴かな。


 ——実は、私はこの家に丸一日と半日、足止めされております。


 ——なんですと?

 

 窓の向こうの田村は、私の心の声に頷いた。おかしいな。なんで私の意思も向こうに伝わっているのかな。まあいいや、細かい事はもう気にかけられない。


 ——籤浜さんへのご援助のための書類の確認であったり打ち合わせで、籤浜さんがこの家にいらっしゃる約半日前からいました。籤浜さんが頷いた瞬間に、直ぐに手続きに移れるよう、ずっと別室に待機していたのです。


 ——そうだったんですか。


 ——ええ。でも、あなた頑固すぎます。


 田村は、疲れ切った顔で私を見つめている。


 ——長い人生の中、色々とあった事は同情しますが、もういい加減腹を括って、その書類にサインしてください。


 ——いや、それは無理です。


 ——お願いします。本当に。


 田村は、強い眼差しで私に訴えている。


 ——何がそんなにご不満ですか。貴方にだって悪い話ではないでしょう。


 ——信用できません。


 ——お願いします。信用してください。私に、家に帰らせてください。


 ——それが本音ですか。私も家に帰りたいです。


 ——なら、それにサインしてください。


 ——いやです。


 ——お願いします。お願いします。


 田村は、深々と頭を下げた。


 ——今日、孫が遊びにくると言っていて。デパートで買い物を約束していて。帰りたいんです。


 ——可愛い孫なんです。


 ——このままでは、いつまで経っても帰れません。


 ——お願いします。家に、帰して。


 ——帰、シテ。


 ——カエ、シテ。


 田村の悲痛な顔。そして脳に流れ込んでくる、かわいい盛りの少年。ああ、息子二人にも、こんな時期があったな。かわいく思っていたよ、どちらも。


「大志?」


 犀陵時次が私の視線に背後に気付く。そして、妻と顧問弁護士の姿に明らかにいやな顔をしていた。特に弁護士に対しては、「こちらでどうにかすると言っただろう!」と理不尽に怒鳴っている。ああ、思い出すなぁ、うちの会社の弁護士に自分の不倫の弁護をしろ、と言っていた親族のこと。うち、顧問弁護士いないんだよ、意外といない中小企業も多いんだよ、顧問弁護士。いや税理士に頼めばその伝手で弁護士がいたけれど、そんな馬鹿な相談を税理士に出来ないから、いないで突っぱねたな、あの時は。


「大志、すまないな。さあ話し合おう」


 犀陵時次はまた私に向き合う。その瞳は、深くて奥底で燃えている。その目を、じっと見る。そして、映像が頭に流れ込んでくる。


 夕暮れの教室。まだ若い私の姿。時次の荒唐無稽な夢をうんうんと聞いている。ともにノートを広げて、勉強をしている。正直、時次とはあまり趣味が合わなかったから、共通の話題は勉強とか学校のことばかりだった。何でも話せる親友なんて、言い難い仲だった。


 ——いつか、大志に並ぶ男になってやる。


 へえ。そんな事思っていたのか、お前。


 俺、そんな大した人間じゃなかったのに。会社だってさ、父のころからの放漫経営で、俺すごく苦労したのに。俺のことなんか、軽く追い越していったのに、そんな事思っていたのか、お前。それを、今の今まで、思ってたのか。


 すごいな、本当にすごい。すごいけど、夢なんてさ、いつか終わるものだよ。みんな、そうやって生きていく。そんなもんなんだよ、時次。


 ——籤浜さん! せめてサインをしてから眠って下さい!


 田村の声がする。かわいい盛りの少年の姿がまた、頭に流れ込んでくる。


「ほら、ペンを握れ、大志」


 時次が、勝手に私の右手を掴んでペンを握らす。そして、名前を書く欄にペン先を置く。時次の顔を見上げる。昔と変わらない、活力に満ちた姿。お互い老けたな。変わったな。でも、お前は、変わらないな。


 田村さんのお孫さんは、かわいいし、おじいちゃんを慕っているようだし、いい加減、田村さんを家に帰してやらないと、可哀想だな。俺も、家に帰りたいし。


 お前がさ、学生の時から、何も変わらない、というのなら。


 サイン、しても、まあ、いい、か……な……。

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