第6話
私は、目の前の、並々と注がれた、顔に近付けなくてもアルコールの匂いがプンプン香る、ジョッキのウイスキーのソーダ割りを見下ろした。
ウイスキーとソーダ水の比率は、8対2。頭おかしいのか? ウイスキーのソーダ割りではない。ソーダのウイスキー割りだ。頭おかしいな。ジョッキも居酒屋でしか見ないような、大きいやつだな。頭おかしい。
「お前は昔から炭酸が好きだったからな」
「……その」
ハイボールと、呼んで、いいのかな、これは。アルコールの匂いが、すごいのだが。大学生の、一番酒の失敗が多い時期でも、こんな無茶をする奴はそうそういなかった。こんな還暦が近い年で、こんな馬鹿みたいな飲み物を目の前にするなんて思わなかったな。
「あの、ブザーは、なんですか」
分かる。これを飲まなければ、解放されないと。でも、これを飲んだら、絶対に帰れない。それも、分かる。確かウイスキーのアルコール度数は、40度ぐらいだったか。絶対に無理だ、これを飲んで帰る、なんて。
「猫がいてね。その対策だ」
白々しく嘘を吐きやがってこいつ。
私は、思い切り舌打ちを打ちたくなった。代わりに、私の口の端がひくり、と動いたのが分かった。
今アパートの庭先に猫が住み着いてるから分かる。窓を開けていると勝手に入り込んで私の部屋で寛いでくるから分かる。この家に動物はいない。特に猫がいたら、逃亡対策で色々揃えなくてはならないし、匂いや鳴き声もあるはずだ。
くっ、猫に会いたい。別に餌もくれてないのになぜか私に懐いているあの目つきが悪い猫に会いたい。癒されたい。それぐらい疲れている。無事に戻れたら、確保して動物病院に連れて行ってやるからな。元部下達が集まる探偵社に連れて行けば、誰か貰い手が決まるかもしれないな。アパートはペット可だが、私は金を返したら死ぬから飼えないし。
こうして考えている間もアルコールの匂いは止まない。嫌だなぁ。飲みたくないなぁ、これ。昔、追加で役員貸付金を頼んできた奴に無理やり飲まされて、前後不覚になって書類にサインをしてしまってから、人前で酒は極力飲みたくないんだよなぁ。今と状況が似ているなぁ、本当に。トラウマが刺激されるなぁ。
「飲まないのか」
飲みたくないですこんな殺人飲料。殺人までいかなくても、こんな肝臓破壊飲料はこの歳ではごめん被りたい。いや幾つでも飲みたくないこれ。
殆どウイスキーのハイボールの表面では、たった2割の炭酸水で、小さくてささやかな泡が浮かんでは消えて、消えては浮かんでいく。ストレートではありませんよ、と私に教えてくれる。たった2割のくせに。白々しい。犀陵時次のようだ。なおさら飲みたくない。
「大丈夫だ。酔い潰れても、明日がある」
何日かけるつもりだこいつ。暇なのか。いいな悠々自適な隠居暮らしは。私は早く生活費分を稼ぐだけの仕事を決めたいよ。
「……明日も、予定があります」
「ずらせばいい」
「相手方にも、予定はありますので」
嘘だが。
予定はあるが、それはアパートの庭の草取りとか軽い掃除で、別に明日じゃなくてもいい。そもそも、明日というか今日は土曜だ。でも、私のトラウマが、絶対にこれは飲んではいけないと囁いてくる。過去の後悔の焼き直しは、自殺よりも勘弁だ。
「貴方とは違って、私は忙しいんです」
「へえ。例えば」
「再就職活動、とか」
思えば初めてだな、就職活動。
大学卒業後は父が決めた会社で修行後うちの会社に戻ったから。初めてで不安だが、なんか少し楽しみだな、バイト。こんな定年も近くなって初めてのバイトに浮かれるなんて年甲斐もないが。贅沢する気もないし家賃のいらない持ちアパートで暮らしいて、節約生活も苦ではないし、半ば趣味になっている資産運用も、株式投資を細々やれればそれでいいので、バイトで十分だ。
「だから、仕事は紹介すると」
犀陵時次は、契約書を指でトントンと叩いた。
「必要ないです。本当に」
「無理をするな」
「無理ではないです」
押し問答が続く。変わらずハイボールじみた殆どウイスキーの匂いはすごい。ウイスキーは結構いい奴だったが、勿体無いだろうこんな、嫌がらせドリンクに使うなんて。なんで私はこんなに嫌われているんだ犀陵時次から。
「はあ」と、犀陵時次からため息がこぼされたのと、同時だった。犀陵時次の携帯が震えたのだ。
犀陵時次は、機械が苦手なのか、いまだにガラケーを使っていた。古い携帯そのまま、ではなくてまだ真新しいから、わざわざガラケーにしているらしい。とにかく、それが震えた。
時計を見ると、そろそろ深夜3時になろうとしている。それに暗い気分になる。この家に来て、14時間が経ってしまう。
「どうぞ」
こんな時間に電話なんて、緊急事態に決まっている。誰かが危篤とか事故事件に巻き込まれた、とか。なら、犀陵時次もそちらに向かわねばならないだろう。私は、ようやく解放される、と体から力が抜けそうだった。
「————もしもし」
犀陵時次は、渋々、といった様子で電話に出た。
「は? 必要ない。こちらでどうにかする。帰りたい? 駄目だ。あんたに毎月いくら金を払っていると思っている」
なんの電話だ。おかしいな、誰か、身内が危険な事になっているという電話ではないのか。
「妻から話は聞いているはずだ。碌な準備をしてこなかったそちらが悪い。私には関係ない。話がそれだけならもう切るぞ」
そして、犀陵時次は、携帯電話から耳を離して電話を切った。その間、電話の向こうから『会長!』と悲痛な男の叫びが聞こえた気がするが、犀陵時次は気にせず電話を切った。
「いいんですか、会社の話でしょう」
「会社の話じゃない。個人的な話だ」
犀陵時次は、私を睨んで腕を組んできた。睨みたいのはこちらである。疲れてもう睨む元気もないが。
「分かったよ、大志」
「なんですか」
「それ、飲み切ったら帰っていい。鍵も開ける」
じゃらり、と、ポケットから犀陵時次は、鍵を取り出して私に見せる。
「別に、アルコールが弱い訳ではないのだろう」
私は、黙って水滴が浮かぶ大ジョッキを見下ろす。先ほどよりも炭酸水の主張が弱くなってきている。和らぎ水はない。でも、飲み切れれば、10時間以上ぶりにこの家から出られる。解放、される。
自殺を決めた時を思い出す。私が選んだ自殺の方法は、首吊りだった。本家の屋敷の鴨居からロープを輪っかにして垂らして、そこから首を括った。恐怖心はあった。でも、踏み台を蹴って、ロープで首を括った時、苦しかったし怖かったが、直ぐに「もっと、早くこうするべきだった」と気がついた。だから苦しさにもがくのをやめた。この生き地獄と馬鹿馬鹿しさから解放されたい。その直前の苦しさなんて、決定的な解放である死への、必要経費みたいなものだと思えば耐えられた。
それを思えば、アルコールくらい。
私は、生唾を飲み込んで、震える手でジョッキを握った。
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