第3話
そして、10時間だ。
部屋に閉じ込められて犀陵時次と同じ部屋同じ空間に、向かい合って座って10時間が過ぎた。ようは、日付が変わった。
流石に椅子に座り過ぎて腰とか尻が痛い。帰りたい。風呂に入りたい。腹は緊張のあまり空いていないが、でも、頭が疲れてぼんやりとしている。目がかすむ。けれども、犀陵時次は、私を解放してくれない。監禁罪で警察に訴えられそうだ。でも、直ぐに犀陵時次に金の力で握り潰されそうな気がする。
本当に、なんで裁判所を出てから犀陵時次の誘いに頷いてしまったんだろう。自分と相手の立場が違いすぎるのだから、迂闊に近寄るべきではなかったのに。本当に、これも後悔だ。1人で暮らせば、もう後悔はこれ以上抱かないと思っていたのに、なんで後悔をまたしなければならないんだ。久々のラムネの瓶に、まあいいか、なんて思うんじゃなかった。あれぐらい自費で買えよ、自分。それぐらいは財産残す事許されてるよ。後悔。後悔だ。
「しんどそうだな」
犀陵時次に、そう言われてつい睨んでしまう。誰のせいだと言いたい。
「……帰らせてください」
「書類にサインをしたらな」
「しません。貴方のことは信用していませんから」
犀陵時次は、まるで本当に傷付いたように笑みを強張らせた。しかし、私は騙されない。隙あらば私に金の無心をする親族達のおかげで嘘泣きなどの演技には慣れている。
「貴方がその契約書を誰にも売らない、なんて断言できますか。そんな危なっかしい契約、私は結べない」
大体、自分たちが私の会社にした事を思い出してもらいたい。株を持つ親族達に近寄って、詐欺みたいな手段で株を集めて、私が気がついた時には小さくないパーセンテージを犀陵時次の息子達が握っていた。そして、その株を私に渡す代わりに、数少ない黒字事業を向こうに渡す羽目になり、残りの事業では到底、赤字事業を含む会社全体を支える事も誤魔化す事もできなくなり、倒産した。
言ってしまえば、こういう流れなのだから、息子達の後ろにいただろう、犀陵時次を信用なんて本当に無理だ。
もしも、犀陵時次が、その契約書を誰かに売ったら? その相手が常識も良識もない相手だったら? 私はどうなってもいいが、伊吹にこれ以上迷惑をかけられない。その契約書は、ようは私への貸付のための契約書と同義なのだから。
犀陵時次は、深いため息をついて、椅子に深く座り直した。
「……売らないよ、誰にも」
「言葉だけでは誰でも言えます」
私は、犀陵時次を睨みながら言った。
「なら、言葉以外ではどうすれば信じてくれる」
「さあ。私に貴方の心を読む能力があれば、信じられるのですが」
「今の私の言葉が信じられない、というのならば、昔は? 長い付き合いだろう。学生時代から」
私は、ため息をつかざる得なかった。
「大した仲ではなかったでしょう」
私の言葉に、犀陵時次は、本気で驚いたように目を見開いて、椅子の中、身を乗り出してきた。演技が上手いな、本当に。
「あなたが本当に仲良くなりたかったのは、私ではない。違いますか」
学生時代の犀陵時次は、浮いていた。
その浮き方が問題だった。私と伊吹も通っていた学校は、所謂金持ちの子息御用達の学校であった。だから、根本から違う金持ちの同級生もいた。けれども、全員が全員そうではない。
確かに、同級生達は固く稼げる職業の親を持っていたのが大半であったが、実際に付き合うと親が贅沢を許さない教育方針であったり、本人の性格もあって、その辺の学生と変わらない嗜好を持つ同級生が殆どだった。乗馬やクラシック、海外旅行が好きです、なんて質の違う、優雅な金持ちの同級生は確かにいたが、そんな彼らは少数派。残りは、こっそりといかがわしい雑誌を学校に持ち寄って低俗な話をしたり、テレビが好きだったり、他校の女の子にドキドキとしたり、と、まあ、一言で言えば皆年相応に馬鹿だがありふれた学生生活を送っていた。
でも、犀陵時次は、なぜか大多数のありふれた同級生達とは関わろうとせず、優雅で質の違う金持ちの同級生にばかりにふらふらと近寄っていたのだ。でも、彼らとは根本から生活レベルが違うから話についていく事ができず、浮く。大多数の同級生達は、なぜか自分達を視界に入れてない犀陵時次にいい印象を持つわけがない。だから、そちらからも、浮く。
そんな犀陵時次に頭を悩ませた教師が、ある日私に「少し、話しかけてあげてくれませんか」と頼んできた。だから、話しかけた。それが最初に話しかけたきっかけだった。
なので、犀陵時次が本当に仲良くなりたかったのは私ではない。私はただの、犀陵時次がこれ以上浮かないための、緊急避難的な付き合いであって、別に親友とかでもなかったのだ。
……まあ、こうして思い返すと、当時の私も結構傲慢だった。だから、犀陵時次は会社を潰すような真似をしたのかもしれない。人生の後悔の一つとして、自分への不甲斐なさの愚痴吐き用の日記に一応書いておこう。
学生時代は、この事を話すと流石に傷付くだろうと言わなかった事だが、あれから何十年と時間は経っているから言っても大丈夫だろう、流石に犀陵時次も心当たりがあるはずだ、と全て話せば、犀陵時次は、なぜか表情を全て消して顔を真っ白にした血の気のない顔になった。ここまでの演技は、見た事がない。なぜ俳優にならなかったのだろうか。
「犀陵さん。とにかく、昔のことを持ち出しても仕方がないのですから、私を解放してください」
「…………麒麟児」
「はい?」
「私に、麒麟児、と言ってくれたのは、覚えているか、大志」
「ええと……」
覚えているような、いないような。
思い出せば、当時の私は辞書をパラパラとめくり、格好いいな、と思う言葉を見つけるのがささやかな趣味だった。だから、麒麟児という言葉を知っていたのだろう。
でも、それを犀陵時次に言ったのは、ただ覚えたての格好いい言葉を使ってみたかった、という、子供らしい底の浅い、今思えば恥ずかしい理由である。確かに恥ずかしいが、でも、そんなの誰だってあるエピソードの一つだろう。今更、そんな記憶を持ち出してどうするつもりだ。
「覚えているんだな?」
なぜか、犀陵時次は、私の様子に食い気味で身を乗り出してきた。
「……若気の至りです。お忘れください」
そうとしかいえない。だからなんだ、としか言えない。
私が今一番犀陵時次に言いたいことは、「早く諦めて私を家に帰してくれ」の、一点である。麒麟児は結構。事実、あそこまで一代で会社を大きくし上場を果たし、優秀な息子達にも恵まれているようだし、確かに犀陵時次は麒麟児であったのだろう。結局、凡百以下の、暗愚な人間である私とも違う。立場とか生まれ持ったものとか、天運を掴んだところとか、ありとあらゆるものが違うのだから、いい加減目を覚まして妻にまでこんな変なことに協力させずに、早くその契約書をしまって欲しい。
犀陵時次の浮気癖は、私も身に覚えがあるので何も言わないが。まあ、よそに子供を作ったのは伊吹だけだ。伊吹には絶対に言えないが、避妊具に穴が開けられていたのだ。あれ以降、特定の相手は作ってはいけない事、そして、避妊具はきちんと自分で用意をする事を学んだ。ちゃんと、私は既婚者で結婚をする気はないと、伊吹の生みの母には言っておいたのだが。
まあ、そんな経緯でも、伊吹が生まれてきてくれた事を思えば感慨深い。本人には本当に言えないが。遺書にも書けない。その辺りはぼかしておいて、ああ、照れ臭くてずっと言えていなかった、あいつの名前の由来でも、伝えておこう。
私の事はさておき、犀陵時次なんかは、あの規模の会社の会長ともなれば、婚外子なんて複数人いそうだな。社会通念上はともかく、まあ、すごいとは思う。
「いや、覚えているのならいい」
犀陵時次は、乗り出していた体を元に戻して、背もたれに寄りかかった。変わらず、犀陵時次に疲れは見えない。なぜか憔悴しているのはこちらばかりだった。こういう、体力的な面でも、違うのだ。
「犀陵さん。頼みますから、本当に戯れはよしてください」
私は、10時間以上、何度も何度も繰り返したのと同じ内容をまた口にする。
「私の会社を潰したのが貴方であっても、特に恨みません。どうせ、粉飾というズルをしながら生きながらえてきた会社です。早く潰しておくべきだった。いつまでも、その事から逃げていた私の責任なのです」
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