第2話

 約11時間前、この部屋に招かれた時、先に食事にしよう、と言われて、目の前に座る男の妻が作った食事が振る舞われた。正直遠慮したかったが、まあ、私も伊吹の頼みとはいえ、なぜ彼が私の会社を潰したのか理由を聞きたくもあったから、相手に話をさせる為に共に食卓についた。食事は美味しかった。凝った料理ばかりで、毎日こうなのか、私という、一応ではあるが来客をもてなす為なのかは分からないが、美味しかった。


 私の元妻の料理は食べたことが無い。向こうも、家事なんて自分以外の誰かがするもの、という認識だったから、料理なんてする気もなかったのだ。でも、私と離婚した後どうするつもりなのだろうか、あいつは。実家はとうに弟夫婦の代になっているから戻れないだろう。他所に男がいるのかもしれない。でも、あの我儘っぷりを四六時中受け止められ、若くもない女の世話をずっとしてくれる奇特な男なんているのだろうか。


 財産分与で夫婦共同口座の預貯金は渡したが、それでも今までの生活をしていたらすぐに尽きる程度の預貯金でしかない。まあ、家計管理なんてできない女で、私が資産運用のついでに家計管理もしていたから、そんなことなど知らないのかもしれないが。


 本当は結婚後に得た、不動産や土地や投資商品、私名義の口座などがあるから、それらを加味すればまた金額が増えたのだが、私は向こうが要求するまま、あいつが気付いている分だけの預貯金を渡して離婚届に判を捺したのだった。夫婦関係は、半ば向こうから希望された結果の仮面夫婦だったから、私も特に何も言わなかった。気づいていないのなら、気づかないままでよい。残った財産の大半は、これから私の債務や損害賠償でアパート一棟とある程度の預貯金だけ残して消える予定だ。


 とにかく、食事の後だ。食事の後、何を話すかと身構えていたら、書類を手渡された。曰く、息子達の不始末の尻拭い、だという。

 そして、目の前の男、犀陵時次から、なんで私の経営していた会社を潰すような真似をしたのか、語られたのだ。結果、私は正直にこう思った。嘘もほどほどにしてほしい、と。


 全て全て、伊吹の為に息子達が自発的にしたこと? 伊吹すら青天の霹靂? そんなこと信じられるか。伊吹にとっても思ってもみないことだとしても、この男の息子は、長男ですら伊吹と同い年で、まだ30にもなっていない、私からしたらまだ十分に若い青年なのだ。いくら社長をしているといっても、目の前の、同じ会社で会長職をしている犀陵時次の意向が何もなかった、なんてある訳ない。何を息子達に全て責任転嫁をしているのだろう。親としての矜持はないのか、と私は自分のことを棚にあげて思った。


 確かに伊吹と犀陵時次の長男は中高と同級生だ。伊吹曰く、仲が良かった、と。しかし、話を聞いている限りその息子が話す内容は自慢話ばかりだし、なんか伊吹が便利に使われているように思えて、あまりいい印象はないのだ。大学で離れ離れになった時はホッとした物だった。

 それなのに、兄弟揃って? 伊吹の為? 絶対に見返りを要求しているだろう。伊吹が絶対に大変なやつだそれは。


 その後、犀陵時次は息子達の不始末を拭いたい、と書類を示した。言われた通り、渡されていた書類に目を通すと、そこには、信じがたいことが書かれていた。


『籤浜大志が抱える債務、損害賠償諸々を、全て犀陵時次が肩代わりする』


 ようは、こんな内容だった。


 悪い話ではないだろう、と犀陵時次は笑いながら言った。

 私は財産を何も失わなくてもいいし、犀陵時次に紹介された再就職先で働きながら、給料日に肩代わりしてくれた金を犀陵時次にちまちまと返していくだけでいいときた。確かに、文面だけで捉えるなら悪くはない話どころか私には旨みしかない話だ。だから私は、犀陵時次をしっかりと見つめて、愛想笑いをして、こう言った。


「お断りします」


 そして、私は書類を犀陵時次につき返した。


「こちらでも、何も返済の手段がないわけではありませんので。お気になさらず」


 依頼した弁護士は、今私が住んでいる、私のアパートの権利だけは必ず残すと約束してくれた。債権者からは、立地も設備も悪くないしそれも売れ、と迫られたが、弁護士は私の年齢だと再就職は難しいし、元々の借金の理由も同情できる理由だと。追加で生活費分だけ少し働けば、家賃収入分を返済にあてられ、分割でも程なく完済できると言って相手方を納得させてくれた。


 あのアパートは、私自ら場所を選んで設備もこだわってちゃんと個人資産で建てた思い入れの深いアパートだ。家に帰りたくない時、親族達から逃げたい時、会社では落ち着いて仕事ができない時、無性に1人になりたい時、よくあのアパートの私の部屋に逃げ込んで過ごした。私が自殺した後も、相続する伊吹にだって、邪魔にはならないと自信をもって言える。売るにしてもそのまま所有するにしても、少なくない額が約束されるだろう。本当に最期まで金でしか繋がりが持てない親で申し訳ないが、受け取ってくれると嬉しかった。


 そもそも、会社も潰れて離婚もして親族も散り散りになって、1人きりになってしまったのだから、過剰な財産などもういらぬのだ。アパート以外、もう残したい財産はない。ああ、車は移動手段で必要かもしれないが、でも、それくらいだ。


 だから、私は犀陵時次の金で人を納得させよう、なんて私を舐めた提案を断った。


 そして、席を立つ。

 

 犀陵時次は、私の会社を潰した理由をまともに話す気がないのだ。なら、もうそれで十分だった。つまりは、私の事がなんでか気に食わなかった。だから、息子達を使って潰した。子供がちっぽけな虫を潰すみたいに。それで、もういい。どうせ死ぬ身なんだから、元同級生が今更私にどう思おうが、どうでもいい。

 

 私は犀陵時次から背を向けて、玄関へと続く扉に向かった。振り返らぬまま、礼だけは言っておく。


「奥様にお伝えください。ごちそうさまでした、とても美味しくいただきました、と」


 扉の取っ手に手をかけて扉を開く。そして、


「美味しかった、と言ってくれるのは、嬉しいわね」


 久々だったから、少し不安だったのよ、なんて、言って。


 扉のすぐ向こうで、犀陵時次の妻、犀陵玲奈が真顔で佇んでいた。


 ひっ、と、思わず情けない声が漏れて、扉の取っ手から手を離す。目の前の犀陵玲奈は、確かに美人だ。でも、真顔で、笑顔もなくて、気配もなくて、というかなんでそこにいるのか分からなくて、私は、本気で驚いて後ずさった。


 見た限り、犀陵玲奈も部屋に入ろうとしてタイミングが悪く、とかそういう感じでもなかった。明らかに、部屋を出ようとする私を待ち構えていた。


「あなた、やはり失敗したわね」

「まだだ。まだ失敗じゃない」

「そういう、諦めが悪くてしつこいところ、本当に子供達と似てるわ」


 私越しで夫妻は会話をする。いや、その。私はどくから、帰るから、夫婦2人で向かい合って話してください、としかいいようがない。


「瀬川くん曰く、私は見た目も中身も息子達と似ていないそうだ」

「まだ付き合いが浅いからよ。本当に息子達は貴方似よ」

 

 瀬川、という名につい反応しそうになる。そういえば、犀陵時次は、傍聴席でも私が帰る時もなんでか彰の隣にいた、気がする。彰しか見てなかったから、自信がない。彰にも、情けない姿を見せてしまったな、と暗い気分になったが、いや、とりあえず帰らないと。死ぬまでにしなければならない事はたくさんある。


「奥様、申し訳ないですが、退いてください。私は、帰りますので」

「…………」


 犀陵玲奈は、じ、と私の顔を見つめた。


 肌が綺麗だと思う。思うけども綺麗すぎて作り物染みてて逆に怖い。そんな真顔でこんな至近距離で結婚している女性が旦那以外の男を見つめるべきではないと思う。女性だから、迂闊に触れられない。


「籤浜さん」

「は、はい」

「この人ね、浮気がすごいの」

「…………はい?」


 私は、思わず聞き返した。


「私は、あまり癒される女ではないというのは自覚しているから、ある程度は我慢しようと思っていたわ。歳取れば落ち着くと思っていたし」

「は、はあ」


 できた女性だな、と思う。私の元妻は、長男を産んでから夜の生活を拒絶していたくせに、伊吹の事を知った時はなぜか烈火の如く怒っていた。このエピソードは、女性から見てどう捉えるか知らないが、男からしたら理不尽極まりないと思う。あいつが求めるものは預貯金だけなのが分かっていれば、あの時離婚してもよかったのに。


「でも、今でも女がいるみたいなの」

「……」


 これは、犀陵玲奈に同情すればいいのだろうか。それとも、あれだけ稼いでいるのだから我慢しろ、と犀陵玲奈を諭すべきだろうか。どちらも藪蛇、泥沼にしかならない気がする。黙っておこう。


「息子達は、1人は一途すぎて未経験拗らせてたし、もう1人は同姓の親友ばっかり追い回していたから、ある意味で安心しているわ」


 うん。だから? 

 後、前者の息子はそっとしておいてやってほしい。同じ男として思う。男とは結構繊細なのだから。後、同姓の親友ばっかり追い回している、か。いたのか、親友なんて。意外と純なところがあるものだ。

 

 とはいえ、どっちがどっちの事を指しているのだろう。あのスマートすぎて可愛げのない兄の方が未経験拗らせの方だったら、なんかエグくて嫌だ。弟の方がマシだ、未経験拗らせなんて。一途に思われてる相手、きっと物凄く大変そうだが。いや、兄に追い回されている親友も大変そうだからどっちもどっちか。


「まあ、という訳で長年この人の浮気癖に悩まされていたのだけれど」


 犀陵玲奈の、ほっそりとした白い指が、私の胸に触れた。そうそういないレベルの美人な女性に触れられてドキドキする、というよりは、色んな事が分からなくて何が起こるか分からなくて、恐怖にドキドキした。


「この人がね、約束してくれたの」

「な、何をです」

「貴方への援助を了承させる手伝いをしたら、なんでも願いを叶えるって」

「……はい?」


 とん、と、胸を押された。一歩下がる。そして、瞬間、ばたんと扉を閉められた。そして聞こえる、がちゃん、という、音。


「浮気、一切やめてちょうだい、あなた」

「……ふむ。分かったよ、玲奈」


 え? 何? …………え?

 鍵、掛けられ、た?


「大志」


 足音が聞こえる。私は、ゆっくりと振り向いた。


「ちょっと、話し合おうか」


 私は、近付いてきた犀陵時次のその笑みに、直感した。今から始まるのは、話し合いではない。私が折れるまで続く、私への無限の無心の場、だと。

 


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