第5話

 長い時間、私と千秋は殴り合う様にお互いの主張をぶつけ合った。


 千秋は、伊吹くんは後継を嫌がっているのに、どうして籤浜に返す真似をしなくてはならない、と、私の、伊吹くんを呼び出せ、という命令を拒絶した。私にはそんなの関係ない。大志に誤解されたままなのは嫌だし、先によその家庭と会社の事に首を突っ込んだのは千秋の方だ。他人になぜそこまで執着する、と苛立った。同じリビングに妻がいなければ、お互い殴り合っていたであろう勢いで、私と千秋は言い争っていた。


 大体、伊吹くんも後継を嫌がるなんて何を考えているのか。そりゃあ、世の中には酷い親もいる。けれど、大志はそんな親ではない。私は、大志の親友としてそれを信じてる。その大志の思いを無視するなんて、なんて酷い息子なのだろうか、伊吹くんは。


 私が千秋にその事を告げると、千秋は更に瞳を燃え上がらせた。


「本妻の子と差別していた親が立派⁉︎ 随分と甘ったるい事を言うね、父さんは!」

「お前にあちらの家庭の何が分かる!」

「分かるさ! 何年、伊吹と付き合ってきたと思っているんだ! 金だけよこして、本妻の子のいじめに全く介入しなかったと、本人から聞いたよ!」


 そんな筈はない。

 そりゃあ、母親が違う息子同士の仲が良いなんて事はそうそうない。けれども、大志はそんな事しない。悩みがあるなら、私に、きっと、打ち明けて、


「大体、なんでそんなに父親を庇う! 今まで、本妻の子が亡くなった時すら何もしなかったくせに! 交流があったと聞いたのは今日が初めてだ! それなのに、何が信頼しているだふざけんな! あんた、白々しいんだよ!」

 

 私は、頭が真っ白になった。


 気付けば、手のひらが痛かった。

 見下ろせば、手のひらが真っ赤になっている。床を見れば、千秋が転がっている。頬を押さえて、呻いて、ゆっくりと起き上がっている。


 千秋は、昔から怜悧な子供だった。


 物分かりがよくて聞き分けがよくて、今まで手を上げた事がない。中学に上がるまでは、あまりの従順さと物分かりの良さに、結婚相手を自分で見つけられなさそうだな、と今のうちに婚約者を見つけようかとお節介を焼いた事があった。本人から断られたが。でも、長じてからも道理がわかる息子で、今までこんな、暴力を振るうなんて。息子は、もう働いていて、周りからの評判も、いいのに。


「この、」


 千秋の瞳は、未だ燃えている。


 私は、その瞳を見ながら、なぜ、と自分に問いかけていた。



 ――お前、籤浜の会社を支援しようとしているらしいな?

 


 いつだ。この言葉は、誰の言葉だ。


 ――馬鹿を言うな。大不況だぞ。うちはなんとか免れたが、他の会社を支援する余裕はない。止めてくれ、と他の役員から頼まれたよ。


 ――立場を考えろ、時次。


「立場を考えろ、千秋」

 

 父だ。昔、世界的大不況の最中、大志の会社が大変だと話を聞いて、会長であった亡き父に支援したいと訴えたのだ。


 ――大体、そんな関係のない会社を支援して何になる。ちゃんと、合理性を考えないと。人脈の紹介すらも必要ない。


「そんな関係ない人間を助けて何になる。合理性を考えろ」


 ――もう会社は大きくなった。でも、そのぶん敵も増える。そんな、不合理な事をしたら、お前の立場が危ない。


「お前は会社を継ぐ身なのだから、そんな不合理な事をするな。お前の立場が危ない」



 ああ、自分は、なんて言葉で心が折れたっけ。


 諦めたんだっけ。


 大志が大変な時に、大志から背を背けたんだっけ。



 ――周りを見ろ。そいつだけを見るな。


「周りをちゃんと見ろ、千秋。伊吹くんばかり、見るんじゃない」


 千秋。お前は頭がいいだろう。なら、分かるだろう。仕方がないんだよ。この世の中、そんな事ばかりなんだよ。いろんなもの取りこぼして、みんな生きていくんだよ。


 だからさ。


 誰か、言ってくれよ。

 私の決定は、大志を助けなかった、と言う過去は、仕方がないって、誰か言ってくれよ。


 誰か私が大志から背を背け続けていた事を、許してくれよ。大志が大変なの知っておきながら、何もしなかった事を、誰か、許してくれよ。


「とう、さん」


 千秋の瞳の炎は、まだ消えない。ああ、確か、あの時の父はこうして殴られてうずくまる私を立たせて、肩を叩いて立ち去ったんだ。その後、ほとぼりが覚めた頃、2人で父の行きつけの店に行って、父が取りこぼしてきたものの話を聞いたんだ。


 そうしよう。きっと分かってくれる。仕方がないって、言ってくれる。お前は俺の息子なのだから、俺と同じ風になる。お前は、俺の跡を継ぐんだから。


 だから、千秋、お前も、

 





「千秋がやるのが、駄目なのか」

 





 聞こえてきたその声に、千秋に差し伸べようとした手が、止まった。


「千秋には、立場があるから、伊吹を助けるのが駄目なのか」


 千秋は、驚いた様に振り返っている。同じ場にいた妻も、息子達と同じ色の瞳を見開いている。リビングの扉に立っていた、すっかりと伸びた背筋。帽子をかぶっていない、妻譲りの色素の薄い髪。真っ直ぐに、私に向けられた、深い、深い、深淵の様な瞳。


「なら、俺がやれば、文句はないな、父さん」


 いつの間にやらそこにいた刹那は――今まで、何も期待していなかった2人目の息子は、そうして、初めて、真っ直ぐに私を見つめていたのだった。

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