第2話


 秋の空は、高く澄んでいて美しい。少し、晴れやかな気分で歩く。


 裁判所に着くと、懐かしい、と思える背中が見えた。似ている、と率直に思う。けれども、記憶の中の姿とは別人なのは分かっているから、咳払いをしてから私は声をかけた。


「瀬川くん」


 その背中はゆっくりと振り向く。やはり、似ていた。瀬川彰は、彼の兄である籤浜大志とよく似ている。半分しか血が繋がっていないのが、信じられないほどだった。


犀陵時次さいりょうときじさん」


 瀬川は、驚いた顔をした後穏やかに微笑みつつ自分に丁寧に一礼をしてくれた。礼儀と感謝と。その2つがしっかりと込められた、見ていると気持ちが良くなる礼だった。 


 瀬川とは、こうして2人で話すのは初めてだが、きっと真っ当な人なのだと思う。それに、大志と比べて素直だ。そりゃあ、大志の子供である、籤浜伊吹くんも実の父親をさしおいて慕うわけだ。その事に、少しちりりと胸がざわめいた。


「犀陵さんも、足を運ぶとは以外でした」


 2人で裁判所の中に入る。まだ時間はあるから、並んで建物の中のベンチに座った。


「……籤浜大志とは、学友でね」

「え? ああ、そういえば同い年でしたね」

「ああ。良くしてくれたんだ」


 心からの言葉だが、きっと瀬川は信じないだろう。そう思っていたのに、瀬川彰は、何か思い当たった顔で俯いている。


「どうかしたのかい」

「……いえ。昔を思い出して」


 瀬川は、拳を膝の上に握った。


「私が中学に上がる時、母が急死して。そこから本家に住むようになったんです」

「……」


 瀬川は、大志の父の愛人の子なのだという。それは、知っていた。複雑な育ちだ。


「父はもう病床でしたから、いじめられました。食事はわざと忘れられたり、些細な事で家を締め出されたり、母の形見を壊されたり。……高校に上がる時に私は本家を出ましたが、でも、辛い3年間でした」


 先ほどの実直な瞳とは打って変わって、今の瀬川の目は澱んでいる。それに、何も言わず話を聞く。


「でも、兄さんは――大志、は、唯一、優しくしてくれました。俺とは血は半分しか繋がってないのに、何も食べていない事を知ると、こっそりと外でラーメンを食べさせてくれたり、鍵を開けてくれたり、壊されたくない大切な物を預かってくれたり。……アパートの家賃も、周りに内緒で払ってくれて」


 瀬川彰は、もう30も過ぎて、結婚もしていて、子供もいる年齢だ。きっと職場でも成果を上げて、頼りにされているだろうに、今私の隣に座る瀬川は、本当に、中学生ぐらいの、子供に見えた。見た目だって、年齢相応に老けているのに。


「結婚する時も、娘が生まれた時も、他の親族は無視していたのに、式に出てくれたり、祝議を、弾んでくれたり」


 瀬川は、膝の上の手に力を入れている。


「なんで、兄さんは父が亡くなってから、伊吹を無視したんでしょうか。本妻の子から、庇わなかったんでしょうか。俺には、それが、不思議で、悔しくて……」

 

 私は、何も言えずに腕を組む。


 おそらく、瀬川も答えを求めたい訳ではないのだろう。ただ、誰かに話を聞いてもらいたかった。その相手に、私が選ばれたのは、嬉しく思う。多額の粉飾をした無能な経営者、という世間からの評価ではなく、実際の大志の事を、ちゃんと見てくれていた人がいたと、分かったから。

 きっと、大志も瀬川の事は、大事だったんじゃないか。そうでなければ、式に出たり祝儀をはずんだりしないだろう。それを思うと、少しだけ彼に嫉妬じみた感情を抱いた。


「ああ、遅くなって申し訳ありません、犀陵さん」


 記憶の中から戻ってきた瀬川は、改めて自分に向き合うと、もう一度深々と礼をした。


「ありがとうございました。私への補償を約束してくれて」

 

 息子達と彼の甥っ子である籤浜伊吹くんが中心となった騒動の終わりがけ、私の元秘書で、現在は長男の千秋の秘書を任せている加賀美奈津から急な連絡があった。妻から「2人揃って何かしでかしてるらしいわ」と伝えられ、加賀美が家に来るのを妻と2人で待っていたのだ。そして加賀美が一緒に連れてきたのが、瀬川彰だった。


 最初に瀬川を見た時、驚きのあまり席を立った。大志が来てくれた、と思ったから。けれども、よく見れば大志よりも若過ぎるし、顔立ちも少し違ったから、別人だと分かったのだ。


 瀬川は、ずっと大志から逃げていた伊吹くんの協力者だったのだという。そして、伊吹くんが次男の刹那と暮らしてから、伊吹くんが海外に逃げる為の金銭や手続きなどのサポートをし続けていた。しかし、それが、千秋と刹那にバレて、どうやら既に伊吹くんは刹那の方に捕まってしまったのだ、と語った。そして、刹那は、伊吹くんに、恋愛感情を抱いていると。千秋もそれを知って、刹那と密に協力していた、と。


 昨今の風潮もあるし、同性愛には理解がある人間でいたいと思っている。けれども、実際に息子がそうだ、と告げられれば動揺は抑えられない。妻は、女の勘なのか、「そうだろうとは思っていたわ」と冷静な態度だったが。


 加賀美は、伊吹くんの身を案じて顔を真っ青にしていた。私がちゃんと忠告をしていれば、と頭を下げられた。「刹那くんが未経験なの私も察していたのに」とぐしゃぐしゃな顔で加賀美は刹那が既に犯しているだろう罪と、これから千秋も犯すであろう罪と、それに巻き込まれる伊吹くんの事を非常に心配していた。良識的で常識的な女なのだ。己の進退すらも覚悟している加賀美の謝罪を見て、瀬川は安心したようにスマホを取り出した。


「伊吹から、連絡がありました。隙を見て、私にメールを送ってくれたのです」


 はあ、と、瀬川はため息交じりで表示したインターネット上からアクセスできるメールの画面を表示した。


「私は止めましたし、ご両親の前で言うのもなんですが、あの2人は信用ができません。けれども、伊吹は、なんでか『腹を括った』と」


 刹那に隠れてメールを打っていたからか、誤字や脱字もあった。けれども、見せられたスマホの文章は、伊吹くんの頭の良さと回転の速さがよく現れていた。


「でも、こんな事をしでかした以上、何か代わりに差し出さないと、2人は納得しないと。だから、一計を案じる、と。その為の舞台を整える手伝いを皆さんに――いや、加賀美さんにしていただきたいのです」


 その一計の内容に、妻は珍しく顔を顰め、加賀美は目を見開いていた。けれども、「千秋が気にいっているのが分かるな」と私は正直思ってしまう内容だった。

 

「私は、人質になります」


 瀬川は、はっきりと述べた。





 



 人質――ようは、伊吹くんが背負う千秋からの貸付金の連帯保証人だ。海外の大学費用は、瀬川の援助と伊吹くん自身で貯めたらしいが、さすがにその後通うビジネススクールの金額には届かなかった。だから、その分を千秋に貸し付けてもらい、賄おうと言うのだ。しかし、もしも、また伊吹くんが千秋と刹那から逃げた場合、その貸付金の返済義務は瀬川彰にのし掛かる。伊吹くんが瀬川を大切に思っている事は既に2人に知られている。だから、自分が人質に一番、という理屈だ。


 とはいえ、家族にも黙って多額の債務の連帯保証人になる、なんて正気の沙汰ではない。家族に愛情はないのか、離婚となっても構わないのか、伊吹くんは何を考えているのか、と聞きたいくらいだ。

 

 だから、私はその場で約束した。ちゃんと後に書面にしてサインもした。「もしも伊吹くんがまた逃げて、千秋から債務の返済を迫られたら、私のポケットマネーからその分を瀬川彰に渡す」と、私は瀬川と契約を結んだのだ。



  








「伊吹も安心していましたよ。ありがとうございます」


 微笑みながらの瀬川の言葉に、私はなんて返せばいいか分からず、一先ず愛想笑いをした。


「……まあ私もまだ体は動くからね。息子達の不始末は、まだ拭える」

「そうですね。でも、なぜこんなに早く社長を息子さんに? 見たところ、お元気そうですが」


 確かに、息子である千秋に社長職を譲る、と宣言した時は、千秋も驚いていたし、社内外から色々と言われた。もしかしたら何か重い病気をしてるのでは、と探りを入れられたり、せめて千秋が結婚するまでは、なんて説得をされたりした。私だって、5年前の自分にこの事を告げたら、「馬鹿いうな」と一蹴されていただろう。


 でも、今の私は昔の私にこうも言える。「横を見てみろ」と。


 そこには誰がいるんだ、と聞ける。その横には、誰もいなかった。それを誤魔化し続けていた自分に気づいた。だから、辞めた。妻にだけ、打ち明けられた話だった。


「……君には、娘さんが1人、だったね」


 明らかな話題逸らしだが、瀬川は特に不審がらずに「ええ」と頷いた。一個人の健康状態に関する返答は、最初から戻ってくるとは期待していなかったのかもしれない。


「女の子だからなのか、あの子の個性なのかは分かりませんが、なかなか勘のいい子ですよ。でも、妻は色々と気づき過ぎて、自分を抑え込まないかが心配みたいです」

「優しい子なんだね」

「そうですね。ああ、でも最近妻に甘えん坊で。よく妻のお腹に耳を当てて笑ってるんです。何でしょうか、あれ」

「へえ。うちは、男ばかりだから、あまり、妻に甘えたり、というのはなかった気がするが」


 瀬川の微笑みが一瞬強張った。なんだ、と尋ねると、慌てたように、いえ、と真顔で勢いよく首を振った。


「何でも。何でもありません。伊吹に対して弟の方が甘えまくってるのはなんなんだ、とは思ってません」

「…………」


 これは、わざとではないな、天然で口走ったな、と気付いたが、何も言わなかった。言えなかった、ともいう。そうか、伊吹くんに甘えまくっているのか、刹那は。別に聞きたくなかったな。そういえば、加賀美に未経験なのを察せられてた、というのも男親として結構キたな。妻は真顔で加賀美の慟哭を聞いていたが。その時の内心はちょっと聞けないな。


「私には男しかいないから女の子はどうか分からない。でもね、息子達にいつか譲らなければいけない、そのタイミングはいつか、となった時」


 あの時の、息子達を思い出す。

 燃える様な瞳は、まだ覚悟をしていた。けれども、あの子があんな深い瞳だったのだと知ったのは、あの時が初めてだった。あんなに真っ直ぐに私を見たのは、あの時が初めてだった。燃える炎と、深い深淵に、私は膝を屈したのだ。


「負けた、と認めた時。それも、あるんだよ」


 瀬川は、分かった様な、分かっていない様な、もしかしたら認めたくなさそうな様子だった。最後が一番ありうるのかもしれないな、と思う。大志はそんな顔しないな、と私は笑ってしまった。


 腕時計を見ると、そろそろ時間だった。


 それを示すと、瀬川は気を取り直した様に居住まいを正して自分のカバンを握る。立ち上がった時、つい靴を見てしまうが、履き慣れたような黒のビジネススニーカーだった。靴に興味があるのかないのか分からない。馴染みの店は物はいいのだがどうしても値段が高くついてしまうし、興味があるのか分からない人間に迂闊に紹介はできないな、と私は少し残念に思う。


 そんな事を思いながら、私と瀬川は揃って、法廷に向かったのだった。

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