後悔はラムネの泡の如く 犀陵時次

第1話 後悔はラムネの泡の如く

 靴べらを使って、靴を履く。


 すっかりと履き込んだ革靴は、元々の出来の良さと毎日ちゃんと磨いているのもあって履き心地がよい。買った時はどうだっただろうか。馴染みの靴屋にオーダーメイドで頼んだ革靴だった。

 出来上がった、と連絡を受けて試着しに行った時、その場にいた靴職人は、ニコニコと愛想よく「これからもお仕事頑張ってくださいね」と声をかけてくれた。それに、気分を良くしたものだった。結局、その仕事はそれから2年ほどで息子に譲ることになったが。

 次男が入社したと同時に長男が社長に就任して程なく、またその店から手紙が来た。会長職就任の祝いの言葉と、『息子さん達も是非』なんて書かれていて商売上手だな、と思ったものだ。店の付き合いもあるから、息子のどちらかを連れて行きたいが、どちらも気軽に付き合ってくれる感じはない。何か、いい誘い文句は無いものか。


「あなた」


 声をかけられて振り向くと、妻が手提げの黒い紙袋を持って佇んでいた。紙袋は、妻が長年愛用している化粧品店の店の袋だった。はい、と紙袋を差し出される。受け取って中を覗くと、数日前に妻に頼んだ通り、ラムネが入ったビンが2本、入っていた。


「この辺には売ってなくて、探すのに苦労したわ。それでいいのね」

「……うん、これだ。パッケージは変わっているが」

「それは変わるに決まっているでしょう」


 妻の呆れ交じりの言葉をよそに、私はじっと、手の中の瓶を見つめる。そして、ラムネの瓶を紙袋に戻す。


「ありがとう、行ってくるよ」


 そう声をかけて、扉を開ける。だが、外にあると思っていた、妻が呼んでいた筈の運転手付きの送迎車がない。おかしい、と思って妻を振り返る。


「行かないの」

「その」

「何よ」


 妻は美容にも気を遣っているのもあって、成人した息子が2人もいるが、それを思わせないほど美人だ。けれども、美人すぎて真顔が怖い。息子達の前では絶対に言えない。父親の矜持がある。


「その、車は」


 妻は、「はあ?」と言った様子で、自分を見下してきた。やめてほしい、その顔。昔、浮気相手が家に押しかけてきた時、それを追い払った後、自分を理詰めで追求してきた時と同じ顔をしている。妻はある程度の火遊びは許すのだが、家に押しかけてきたり、こっちは「押せばいけるかな」と、少し……少しだけ強引に女性に迫っているのを見つけた時は、わざわざフローリングに正座をさせて叱ってくる。昔、その姿を息子達に見られた時の、扉の隅から覗いていた息子達2人の目が忘れられない。この家の絶対権力者が誰なのか、察した顔をしていた。それまでは私が絶対権力者だったのに。


 思えば、結婚してからほぼ毎日、「私はなんでこの女にプロポーズしてしまったんだろう」と思っている気がする。


「あなた、昔は、送り迎えなんてあったの」


 その言葉に、自分は目を見開いた。


「2人で、自分たちで、帰ってきなさい。その頃には料理もできるから」


 正直、毎日、なんで自分はこの女にプロポーズしてしまったんだろう、と思っている。


 けれども、偶に、一年に一回ぐらいの頻度で、心の底から「妻と結婚して良かった」と思う日がある。どうやら、今日がその日らしかった。


「行ってきます」


 そう言って、自分は妻に見送られて家を出て、明るい陽気の中、歩いて行った。

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