第6話
呼吸が、できない。
「……それ、必要?」
ぎし、と、わずかに開けた扉の向こうで何かが軋む音がした。
「もうそいつと会う事もないんだし、いちいち君に言ってやる必要ある?」
何を、話しているの。
「ないよね? 君はこれから行方不明になるんだし、もう逃げる必要はないんだし、もうそいつ、いらないよね?」
行方不明? どういうこと?
いらない? 誰のこと?
電話の向こうが何を言っているのか分からない。でも、千秋くんの瞳はごうごうと燃えている。冷たくて怖いほどの、上っ面な笑みが、消えない。
「へえ、お前もたまには素直になるんだ」
千秋くんが、笑っている。
「生意気だな、本当に。誰がGPS付きのネックレスの手配してやったと思ってるんだよ」
GPSを仕込むのは駄目だって、言ったでしょう。
「白々しくて可愛い弟め」
なにを。
なにを、話しているの、2人は。
「ああ、そろそろ時間だ。そうだ、ちゃんと伊吹にこんな事しでかした理由を聞いておいてくれよ」
伊吹くんは、海外にいるという。
刹那くんも、伊吹くんを追って、海外にいて、伊吹くんは、もう、捕まってしまった、と。
「だって、どんな笑える言い訳をするか、気になるじゃないか。なあ?」
じゃあまた、と言って、千秋くんは電話を切った。そして立ち上がる。私は慌てて、物陰に隠れた。千秋くんの電話を盗み聞いていたのを、知られてはならない、と、直感したから。
千秋くんは、社長室のある最上階の、奥まった空き部屋から出ていく。私は、それを見送ると、そっと物陰から出て、両手で頭を抱えてしまった。
伊吹くんが、千秋くんと刹那くんの元から、逃げたのだ。
でも、事前にGPSを仕込んでおいた、伊吹くんへの誕生日プレゼントのネックレスがあったから、確保できた、と。
2人は、とても怒っていた。当然だ。裏切られるなんて、思ってもみなかっただろう。特に、刹那くんには、初めて恋した相手なのだ。関係も順調で、裏切られた、なんて、ショックだっただろう。伊吹くんは、なぜ、そんな事を…………あれ?
あれ?
ちょっと、待って。
伊吹くんって、刹那くんの事、好きなの?
私は、それに気がつくと、立っていられなくなり、廊下の壁に背をつけて、そのままへたり込んでしまった。顔が真っ青になっているのがわかる。呼吸が浅い。頭がクラクラする。体温が一気に下がった。
馬鹿だ私は!!
私は、思い切り自分の頭を両手で殴った。
伊吹くんの立場になって考えてみろ!
親友とその弟が、なぜかいきなり、自分の為とはいえ、父親の会社を潰すような真似をして!
そのまま、なし崩しに弟と同居する事になって!
弟は、自分に、キスしたり、抱きしめてきたり、熱のある目で見つめてきたり!
親友は、それを応援するような真似をして!
そんなの、誰だって恐ろしいに決まってる!
男女間に置き換えてみれば、すぐ分かるだろう! しかも、刹那くんと伊吹くんは、男同士だ。親友の弟が、そんな思いを自分に抱いていた、なんて、再会した時は思ってもみなかっただろうに。
自分が望んでいない相手からの、強すぎて、重すぎて、熱のある好意が、どんなに恐ろしいか、女の私ならすぐに想像できただろう!!
なんで、それに気が付かなかったのか。刹那くんが未経験なのは、私だって察していたのだから、ちゃんと、人生の先達として、アドバイスすべきだったのに!!
なぜ、と自分に問いかける。
しかし、浮かんできたのは、奥様似の、綺麗な琥珀色の、4つの瞳だった。私は、また、自分自身に呆れて、頭を抱えてしまった。
呑まれていた。
あの2人に、呑まれていて、一般常識とか、良識を、忘れていた。
本当に馬鹿だ! 何がお目付役だ。こんな、2人が伊吹くんに酷い事をするのを、私は止められなかったのに。
私だって、2人のことを大切に思っているのに。
伊吹くんの事を、籤浜大志のようにならないよう、サポートをしよう、と思っていたのに。
私は、籤浜大志の事を思い出す。そして、自分の頬を思い切り強く叩いた。
籤浜大志の、あの痩せた、でも、育ちの良さを思わせる、姿勢のいい背中を思い出す。それにそっくりだった、伊吹くんの背中を思い出す。
私は、ふらつきながらもゆっくりと立ち上がった。そして、先ほどまで千秋くんがいた空室に入り、鍵をかける。私はゆっくりと、スカートのポケットから、スマホを取り出した。
もう、私では2人を止められない。2人を止めるには——伊吹くんを、助けるには、あのおふたりを頼るしかない。私の今まで積み上げたキャリアを投げ打ってでも、せめて、伊吹くんは助け出さなければ。
そして、電話帳から、「奥様」と書かれた名前をタップする。
耳に当てる。呼び出し音がする。
一度、二度。三度。早く、早く出てください……!
ガチャ、という、音がした。
『——もしもし?』
「先輩!!」
私は、久しく呼んでいない、かつての奥様の呼び名——かつて、奥様が社長秘書で、私に仕事を教えてくれて、指導してくださった時の呼び名が、反射的に出てしまった。
電話の向こうの奥様は、驚いた様に息を呑む。そして、昔と変わらない、落ち着いた声と深みがある、色気のある声で、『どうしたの、加賀美』と声をかけた。
『何か、緊急事態があったようね』
「はい、はい! 大変なんです! 社長と、刹那さんが、大変な事を……!」
『子供達が? 貴方でも、止められなかったというの』
「はい……」
私は、悔しさに視界を滲ませながら、頷いた。
「申し訳ありません、奥様。私はいかなる処分も覚悟しています、と会長にお伝えください。でも、急がないと、伊吹さんが……!!」
私の縋る様な声に、奥様はため息をついた。そして、昔と変わらない、頼りになる声で、『分かったわ』と言ってくれた。
『主人も必要な様ね。主人は20時ごろ戻ると言っていたけれど、早く戻るように伝えておくわ。仕事が終わったらうちに来てちょうだい。会社では、千秋と刹那の目があるでしょう』
「お願いします……!」
『息子達に見つからない様にね』
「はい」
奥様との電話を終わると、私は呼吸を整えてから部屋から出た。そして、緊張しつつ、でも、普段通りを意識して、空室から出て、社長室に戻る。
社長室に戻ると、いつもの光景が広がっていた。千秋くんと私で選んだ、優秀で、口も硬く、籤浜の事も尽力してくれた部下達が仕事をしている。私は、彼らの仕事を、いつも通り、上司としてチェックしながら自分の席に戻る。
刹那くんの席は誰もいない。刹那くんは、今日は急用で休み、という事になっている。その為、増えた仕事を酒井が嫌そうにやっていて、刹那くんのデスクの上に、自分の資料や荷物を置いて当てつけをしている。
私は、衝立を見る。その向こうに、千秋くんのデスクがあり、千秋くんが仕事をしているはずだ。いっその事、睨んでやりたいが、そんな露骨なことは不審だからできない。
すると、衝立の向こうから音がした。心臓が跳ねそうになるが、落ち着け、と自分にいい聞かせて、平静を装う。
「加賀美さん」
衝立の向こうから現れたのは、やはり千秋くんだった。
一見普通だ。普通すぎるほど——腹が立ちそうなほど、普通だった。
「明日、俺午前だけ出社するよ。その分の仕事は今日残業するけど。後、明後日は客を呼ぶけど、君は対応しなくていい。俺が対応するから」
「分かりました。お客様はどなたですか」
「ファンドの人。投資信託を任せていてね。俺の個人資産に関わる話だから、加賀美さんにも立ち会ってほしくなくて」
嘘だな、と私はすぐにわかった。
きっと、伊吹くんに関わる人だ。もしかしたら、伊吹くんを日本に連れ戻す為の——伊吹くんを、行方不明にできるような、悪どい手段を持つような人間と打ち合わせをするのかもしれない。
これは、本当に早くしなければ。伊吹くんを、助け出す為に。
「そういえば、刹那さんは本日急用という事ですが、何か連絡取れましたか?」
「ああ、カタが付くまで少し日数が掛かるかもしれないんだ。仕事は調整するけど、調整できるまで、ちょっと皆、仕事頼むね」
社長室メンバーに千秋くんは声をかける。それぞれ、仕事の手を止めず、会釈をしたり、分かりました、と言っている。
私の隣の席の小山由香里は、そんな千秋くんを、不思議そうに見つめていた。自分の上司の事を、何か、勘付いているのかもしれない。変わらず勘がいい。だから、千秋くんの彼女に、なんて思っていたが、今は全く薦めようと思えない。伊吹くんにしている事を思えば、部下に千秋くんをお勧めなんて、到底できなかった。
そして、千秋くんは衝立の向こうに戻って行った。私は、一瞬、千秋くんの背を睨みそうになるが、そんな事は露骨なので、耐える。
今日の私の仕事の量では、残念ながら残業になりそうだ。本当は、定時になったら直ぐに会長の家に向かいたいが、会長も戻るのは20時ごろだし、私も仕事が途中なのに帰る、という千秋くんに怪しまれるような動きはできない。
私は、伊吹くんの身を案じながら、千秋くんに怪しまれないよう、ひとまず仕事をするしかなかった。
長い、1日だった。
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