第3話

 刹那くんから告げられた言葉に、千秋くんは眉間に皺を寄せた。そして、その手を刹那くんに出した。


「おい、伊吹に渡してる金額確認させろ」

「うん」


 刹那くんには、素直に頷いて、自分のスマホを操作して千秋くんに渡す。それを眉間に皺を寄せて千秋くんは見つめていた。


「……多いぐらいだな」

「伊吹は、金の問題じゃないって」


 刹那くんは、会議室の椅子に座って、腕を組んで机に突っ伏した。千秋くんは、その突っ伏した横に、刹那くんの黒いスマホを置いた。


「なんか、1人でいると色々考えるんだって。だから、体を動かして働いてる方が楽だって」

「うちで働けって言え」

「言った。だが、スキルもないし、パソコンも使えないし、周りが困るから、コネ入社はダメだと」

  

 千秋くんは、ため息をついた。


 千秋くんは、その話を聞いている私にその薄い茶色の、刹那くんよりも奥様と色が近い瞳を向けた。


「加賀美さんは、どう思う」

「どう、といいますと」

「伊吹。……確かにさ、あいつ、勉強は得意だったし、新卒入社した会社もいい所だったけど、でも、一年も働いたかどうか、なんだよ。後は、せいぜいバイトばっかり。そんな男がコネ入社。どう思う?」

 

 私は、途端に困ってしまって、眉間に皺を寄せてしまった。答えられない。でも、それが答えだ。千秋くんは、私の様子に、また、重いため息をついた。小さな声で、「クソ父が」と、千秋くんは籤浜大志に憎々しく毒付いた。


「私は、彼が素直に、真面目に努力をするのなら、仕事はきちんと教えます」


 私は、慌てて口を開いた。

 籤浜の会社が終わる事は、もう半ば決まっている様な物だった。情報が、既にあちらこちらに出回っている。きっと、大変な思いを籤浜大志はしているはずだ。だから、たとえこの場に籤浜大志がいなかったとしても、これ以上、彼を悪く言う言葉は、聞きたくなかったのだ。白々しい、と、私は私自身を、確かにそう思うけども。


「で、でも、千秋。伊吹は、英語の本も買ってた。部屋にあった」


 机から上半身を起き上がらせて刹那くんが、千秋くんの顔を見て言った。


「英語?」

「うん。聞いたら、磨けるスキルは磨いた方がいいって」


 へえ、と、千秋くんの片眉が上がる。


「伊吹さん、英語は得意なんですか?」

「勉強は、国語以外は俺より上。国語も、平均点は超えてた」


 千秋くんの言葉に、私は感心して、「それはそれは」と目を見開いた。


 昔、千秋くんの成績表を奥様に見せてもらった事がある。奥様は珍しく機嫌が良くて、「見てみる? 本人には内緒にしてちょうだい」と言われて。


 その時の定期試験の千秋くんの総合順位は、学年で一桁台に入っていたのだ。でも、それよりも伊吹くんは順位が上、という事か。千秋くんの通っていた学校は、中高一貫校といえど、きちんと勉強をしなければ高等部への進学を認められない生徒もいたぐらい、勉強は大変だったのに。


「それは、凄いですね」

「伊吹、大学の講義も俺より理解が早かったから、よく教えてもらった」


 刹那くんが言い添える。


「安心しました。それなら、仕事への理解は問題なさそうですね」


 後は、本人の性格が素直かどうか、だ。

 例え能力があっても、素直でなくて自分のやり方に固執したり、他人に合わせる事ができなかったり、前職のやり方ばかり、だったらもう教える方は大変でしかない。英語などのスキルがあったらそれはありがたいが、でも、素直さがなく、会社という集団に馴染もうとしないのならば、途端に宝の持ち腐れとなってしまうのだ。そういう人は、プライドが高くて、でも周囲の評価と自己評価が合わない事に耐えきれず、必ず面倒な問題を起こす。ちゃんと、その見合わないプライドを折って現実を突きつけるのも上司の仕事だが、でも、それはやりたい仕事かと言われると、そうではない。


「刹那、病院の検査は」

「痩せすぎって事は指摘されたが、他はそこまで。でも、医者も今はゆっくりさせて、夏頃を目安に社会復帰したらどうですか、と」

「ですが、今、日雇いバイトとはいえ肉体労働をしていたら、意味がないのでは……」


 私の言葉に、千秋くんと刹那くんは同じ様なため息をついた。

 医者の検査だって、伊吹くんはかなり渋々だったという。大丈夫だから、と何度も何度も言っていて、結局、千秋くんも出ていって病院に引きずっていったと。何を、そんなに遠慮しているのか。


「千秋、俺、伊吹の様子、昼間も見に行っていいか」


 刹那くんは、じっと千秋くんを見つめる。


「ちゃんと、見てないと。またどこかに行きそうで嫌だ」


 刹那くんの、千秋くんよりも濃い色の瞳が、沈んでいる。


「どこかって、どこですか」

「分からない。でも、伊吹は1人でいる事に、慣れすぎている気がする」

 

 刹那くんは、考えながら話している。


「俺たちから離れた時も、伊吹は何も相談がなかった。一言だけメッセージを残して、慌てて部屋に戻ったら、もうもぬけの殻で」

 

 千秋くんの眉間にもシワがより、そして、そっと自分の右頬を撫ぜる。


「だから、ちゃんと見ておきたい。仕事は残業してもちゃんとするから」

「残業して、またその分伊吹から目を離したら意味がないだろ、愚弟」


 千秋くんは頬に触れていた手をスラックスのポケットに入れて、呆れた様に軽く首を降った。


「まあ、でも。それは許可するよ。流石に他のメンバー巻き込めないから、仕事は俺が代わりにする」

「いいんですか、社長」

「仕方がない。伊吹が入社するまでだ」


 千秋くんは、目を伏せながらいう。


「何か異変があったら俺に報告しろ、刹那。包み隠さずな」


 千秋くんの言葉に、刹那くんは素直に、うん、と頷いたのだった。


「あ、そういえば」

「なんだ」

「千秋、伊吹がな!」

 

 刹那くんは途端に上機嫌になって、椅子ごと体を動かして、千秋くんの方を向いた。


「俺たちの事、感謝してるって!」

「……へえ」

 

 千秋くんは、にやり、と笑った。


「俺たちの為に頑張りたい、とも言っていた!」

「それは……」


 嬉しいだろうな、と思う、千秋くんと刹那くんは。千秋くんの方を見ると、目を見開いて、こちらもまた、嬉しそうに笑っていた。


「なんだよ。あいつ、そんな素直なこと言ってたのか」

「良かったですね、2人とも」

「ま、当然だけど。あいつは俺の右腕になるんだから、頑張るなんて当然だけどね」


 千秋くんは、そんな素直ではない言葉を胸を張りながらいう。まるで、千秋くんが中高生に戻ったような態度だ。私は、純粋に千秋くんの久々のそんな姿を見て、嬉しくなる。


「しかも、しかもさ、千秋!」


 刹那くんは、両手で口を覆い、クスクス笑いながら言った。


「伊吹、キス、させてくれた」


 ……。


 私は、とりあえず、刹那くんに微笑んだ。


「昨日の夜、一緒に寝てくれて。寝るだけだったけど、俺の腕の中にいてくれて。キス、させてくれた」


 刹那くんは、頬を薔薇色に染めて笑っている。


「朝も、キスさせてくれた」


 刹那くんは、見た目もあって、西洋画の少年のように無邪気に、伊吹くんとの昨夜と朝の思い出を語っている。頬に手を当てて、笑っている。ぽやぽやと、幸せオーラが出ている。ちょっと、私もそばで見ていて、照れてくる。


「不意打ちだろ」


 千秋くんがため息交じりに言った。


「でも、させてくれた。帰ったらまたねだる」

「……あー、はいはい。分かった分かった」


 千秋くんは、弟のおそらく初めてのキスの話を呆れたように相槌を打っている。私は、ちょっと何も言えない。


「言っておくけど、本番はもう少し待てよ。不意打ちはやめとけ」

「分かってる。俺も伊吹に求められたいし」


 私は何も言えず、誤魔化すようにスケジュール帳をチェックしていた。ちらりとスケジュール帳から隠れ見る刹那くんは、本当に幸せそうで、嬉しそうで。


 私も、その微笑ましい様子に小さく笑って、その笑みをまた、スケジュール帳で隠すのだった。

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