匂いが移る
伊藤行李
匂いが移る
足を止めると、視界に白と青が映っていた。白は縒れた絨毯のように敷かれていて、青は世界に蓋をするかのように頭上を覆っている。
私は歩いていた。足裏に何かを踏んでいる感覚はないが、それでも前に進んでいることは何となくわかった。私は何故歩いているんだろう。
足といっても実際にあるわけではない。下を向いても見えないからだ。ただ歩いているという感覚があった。または前に進んでいるという意識があった。
私は身体を持っていなかった。幽霊のような輪郭はなく、この空間を吹き抜ける風とも言えない、空気中を漂う何かだった。
ふと、自分が別の場所にいることに気付いた。辺りを見回すと私以外にも人がいた。
ベンチで仰向けに横たわり昼寝をする老人、水切りをして競う兄弟、その様子をレジャーシートに座って見守る夫婦、犬の散歩をする小柄な少女。遠くの橋の上では車が列を成していた。
ここはいつか住んでいたアパート近くの河川敷だった。
よくここを散歩したものだ、と懐かしい記憶を漁っていると、目の前の木製ベンチに一組の男女が並んで座っていることに気付いた。ベンチはこれまでも沢山使われているらしく、足下の地面が踏み固められて土が見えていた。
女性はハーフアップの長髪がよく似合っていて、ワンピースに刺繍された花は春をより一層感じさせた。対してもう一人は裾が解れたスキニーと年季の入ったアウターを着ていて、だらしない男だと思った。だが少しパーマがかかった髪の間から目が見えて、私は彼が自分自身であることを悟った。二人は何かを話している。
声は聞こえないが、代わりに匂いがする。土の匂い、芝生の匂い、川の匂い、化粧の匂い。心が天日干しされた布団に包まれるように安らいでいた。
心地よい春風が鼻先を擽る。
一呼吸すると、白と青の世界に戻っていた。
また白の上を歩いた。さっきまで自分が何をしていたか思い出せなかった。ただ瞬きをしただけで、実際は何処にも行っていないのかもしれない。
しかし何故だか匂いがした。目の前に川が流れていて、隣に誰かがいるような気がした。匂いを辿っているうちに、別の場所に辿り着いた。
私は部屋の中にいた。
鉄筋コンクリート造のアパートで、部屋からはライトアップされた鉄塔が見えていた。緑、青、黄色、赤、橙、白とライトの色はコロコロ変わっていて、まるで鉄塔が気まぐれに服を着替えているようだった。
部屋の家具は少なく、冬は炬燵にできるテーブルと敷き布団が一式、それからアップライトピアノが窓際に置かれていた。あまりに殺風景で、ここが私の部屋だとすぐにわかった。
大人になってから、私の一日はこの部屋と職場を往復するだけだった。そのうちゴミ袋は放置されたまま床に転がり、一つ前の季節の服はテーブルの下に残されたままになっていた。
窓からささる月光が、赤いチェック柄の布を照らしていた。布はアップライトピアノの鍵盤を覆っていた。
ふと手を伸ばす。布をずらして指を鍵盤の上に並べる。親指で鍵盤を押す。次に中指で押す。小指で押す。黒、黒、白と繰り返す。音が間隔を伴って空中に飛び出てくる。音が連なり、やがて一つの曲として紡がれる。そして風に吹かれた糸のように部屋の中を漂う。何故かこの手は弾き方を覚えていた。
音楽と記憶は強い結びを作る。嫌悪感が糸でつり上げられて脳裏に浮かぶ。
背中にのし掛かる重く冷たい視線。いつまで経っても拭えない劣等感。頭を下げてばかりの仕事。己の未熟さをを努力不足と非難する世間。思えば私の人生はそんなものばかりだった。嫌なことがあるとその度にピアノを弾いた。社会から逃げるように、ただひたすら弾いた。
壁を乗り越えるという言葉がある。大抵の人間はそれを登って超える。賢い奴はドアを作って通り抜ける。私の場合は壁沿いに進み、端があればそこを通り、無かったら諦めて引き返すような人間だった。そんな自分も嫌いだった。
嫌悪感を押し潰したくて、腕に力を入れ鍵盤を強く叩いた。一際大きな音が響くと、また白と青の世界に戻った。
やはり何をしていたかは思い出せなかった。
匂いに次いで、手が一定のリズムを取るようになった。指先が足を叩いている。無いはずの指に感触を覚える。手の動きに規則性があると気付いた時、私は自分の指先が少し冷えていることに気付いた。
私は電車を待っていた。雪がちらつき、寒風が私の頭をマフラーに押し込む。さっきまでいた空間と違い、体の芯が凍えるような寒さだった。私がため息をつくと、息はまるで魂のように白んで大気に混ざった。
「あ、やっぱり。」と、隣に並んだ人間から声をかけられた。河川敷で見た女性だった。彼女は髪を纏めていて、スーツの上に分厚いコートを着ていた。
「君は電車を待つ時、必ず手先で太ももを叩いてるからわかりやすいのよね。」と、彼女は手を前に出してピアノを弾くような仕草をして見せた。
私たちはこうして、同じ電車を同じ乗り口で待つことがあった。彼女は私の癖を把握しているらしく、時々私を見つけては話しかけてきた。電車がホームに着いた。
彼女とは色々なことを話した。仕事の愚痴、共通の趣味、最近読んだ本、未来のこと、神様を信じるかどうか。他の人とは話さないような話題も多かった。私はそれらを通して価値観を擦り合わせていく時間がたまらなく好きだった。私は彼女を知り、彼女は私を理解する。空想の話にだけは花が咲いた。
そうしているうちに彼女の最寄り駅が近づく。ふと彼女は「毎日こんなに寒いと、電車を待つのも億劫だね」、と呟いた。
「二人で待つ時間も好きだよ」、と答える。
彼女は少し意外そうな顔をした後に微笑みながら「じゃあ、明日も待っていてね」、と言い電車を降りていった。ドアが閉じる。私はその一つ隣の駅で降りた。
降りた先は白と青の世界だった。さっきから直前の記憶がない。一冊だけ抜き取られた本棚のように、頭の中に穴が空いている。
今度は誰かを待たせているような感覚があった。私はそのために何処かに行かなければならないと、急くような想いに駆られた。
私は歩き続けた。はやる気持ちが抑えられず段々と小走りになる。持久力が無いので簡単に息が上がる。足がもつれて手をついてしまった。
息を整えながら、これまでのことを考えた。結局歩いている理由はわからなかった。いつの間にか体に染み着いているこの匂いや手癖、焦燥感は一体私の何なのだろう。いや、気付かなかっただけで元々あったのかもしれない。
彼女は私の癖で私を認めていた。ならばこの匂いも、ピアノを弾く癖も、焦燥感も、全て私に染み着いていたものだ。肉体が無ければ記憶は保持できない。だからわからなかった。今の私は身体を捨てた魂だ。
ふと目の前に黒い影が現れているに気付いた。見えない筈の手が段々と質量を帯びてきている。手先に温もりを感じる。
見上げると白と青が散らばっていた。桜の花弁がそれらに向かって小躍りでもしているかのように宙を舞っている。
軽やかで柔らかい、春の匂いがした。
匂いが移る 伊藤行李 @tanbogi0504
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