高田美緒の憂鬱

 あたしは高田美緒たかだみお。都立高校に通う高校二年生で、高校一年生の時に地方から都内に引っ越して来た。今は都心から少し離れた所に大学生の兄と二人で暮らしているの。母は私が中学生の時に病気で亡くなってしまって、父はその時に家を出て行ったわ。小学生の時、父は母や兄、あたしに暴力を振るうことが多くて、あたしは父が大嫌いだった。仕事をしない父のせいで母は昼も夜も働いていて、兄も中学生なのに新聞配達をして生活費を稼いでいたわ。母の死はとても悲しかったけど、母の死後に父が家を出て行ったのはすごく嬉しかった。その後は親戚中をたらい回しされて辛かったけど、兄がいつもあたしを守って励ましてくれたので頑張れたわ。兄はアルバイトしながら勉強も頑張って、都内の大学に特待生として進学して、そしてあたしを自分の手元に引き取ってくれたの。二人で暮らすようになってからは、親戚の家で疎まれていた頃と違って嫌な思いをすることがなくなったわ。今は幸せと言っていいかもね。

 兄は大学でも勉強を頑張っていて、二年目の今も成績優秀で学費を免除されてるわ。自慢の兄ね。そしてアルバイトで稼いだお金であたしを高校に通わせてくれている。あたしは高校になんか入らず働いても良かったのに、兄は高校には行きなさいって、今の高校に転入させてくれたの。こっちに引き取ってくれただけでも十分嬉しかったのに、本当に兄には感謝してもし足りないわ。

 あたしの目標は、早く高校を卒業して、自立して兄の負担を軽くしてあげること。兄は負担には思っていないって否定するけど、あたしが自活できれば、兄はもっとやりたいように生きていけると思うの。というか、兄には束縛なくもっともっと自由に生きて幸せになって欲しいわ。その時は兄と離れ離れになっちゃうかもしれないわね。それはそれで寂しいし嫌だけど……でも、今まで守ってくれた兄には必ず恩を返したいと思っているわ。だから、それまで、高校を卒業するまでは、二人きりの家族で暮らすことを楽しんでもいいよね。


 そんなある日、自宅の二駅先にあるアルバイト先のファミリーレストランからの帰り道、薄汚れた中年のおじさんに声をかけられた。

「お前、美緒じゃないか?」

 兄よりちょっと背が低く、頬がこけた細身の路上生活者ホームレスみたいな男だった。くたびれたしわと無精ひげに覆われた顔の中で、どこか見覚えある眼が光っていた。はじめ不審者に声をかけられたと思って無視したんだけど、次の言葉に動揺して足を止めちゃったんだよね。失敗したわ。

「俺は高田勲たかだいさおだ。覚えていないか?」

 高田勲――忘れたくても忘れられない恨めしい名前だったわ。そう、あたしの父。母を死に追いやり、あたしと兄を捨てた男の名前。あたしはさげすむようににらんだあと、無言で立ち去ろうとしたんだけど、その男はあたしの手をすがるように掴んできたの。

「待て。お前、高田美緒だろう? 俺だ、父だよ」

「知りません。放してください。人を呼びますよ」

 人を呼ばれると思ったのか、父を名乗る男は掴んでいたあたしの手を放したわ。

「すまん。でもお前、美緒だよな? 何でここにいるんだ?」

「人違いです。わたし急いでいるので……」

「待ってくれ。ちょっとでいいから俺の話を聞いてくれないか」

「本当に人を呼びますよ」

 その言葉に怯んだのか、男は次の句を飲み込んだようだった。その間にあたしは走ってその場を立ち去ったの。遠ざかるあたしの背に向かって男が舌打ちする音が聞こえた気がしたわ。

 帰宅した後、このことを兄に話すか悩んだけど、結局話さなかったわ。話せば兄は絶対心配するだろうし、あまり心配事の負担をかけたくなかったから。

 そんな事があってから数日後、あの男があたしの通う高校に訪ねて来たの。本当に最悪。急に職員室に呼び出されたから行ってみたら、先生にお父さんが訪ねて来られていますって言われて、面談室で会うことになっちゃった。この前呼び止められた時に着てたあたしの制服から通っている学校を特定されたみたいね。もうこうなると会わざるを得なくて、仕方なく面談室に行くことにしたわ。最初は先生も付き添ってくれたんだけど、途中で退室しちゃって、二人で話すことになっちゃった。

 父はこの前会った時よりいくらか綺麗な身なりだったけど、ところどころ汚れとしわが目立つくたびれた服を着ていたわね。無精ひげを剃って、ぼさぼさだった髪型もある程度整えてあるからか、路上生活者のような風体には見えないのが救いだったわ。この前のような格好の男が家族だと見られるのはさすがに恥ずかしいからね。父は先生が居た時は努めて丁寧な口調で話していたけど、先生が出て行ってあたしと二人になった途端、横柄な口調に変わったわ。

「この前はひでぇ態度だったな、美緒」

「……何しに来たんですか?」

「親が子供に会いに来ちゃ悪いのかよ」

「一方的に捨てておいて今更親を名乗られても迷惑なんだけど」

「ふん、どう思われようが、戸籍上はまだ俺の子供なんだよ」

 ろくに親の責任も果たさないで屁理屈ばかり並べる父にイラッとして、これ以上ないぐらい睨んでやったけど、この男にはあまり効果はなかったみたい。

「で、本当に何しに来たんですか?」

「ちょっと金が入り用でな。少し工面してくれないか」

「わけわかんない、あんたにあげるお金なんてないわよ」

「まぁそう言うなって。親子なんだしよ。こっちで生活してるってことはいくらか余裕もあるんだろ?」

「あたしは学生なのよ。余裕なんてないわ」

「圭祐と二人で暮らしてるんだろ? 圭祐は大学行ってて、お前が高校生ってことは、それなりに生活費稼いでるってことじゃねぇか」

「どうしてそんな事まで知ってるの⁉」

「さっき先生に聞いたんだよ。お前らの生活状況ってやつをな」

 父は狡猾そうにニヤリと笑った。

「お前らの住所も分かったからな。これから世話になってもいいんだが、まあ、それだとお前らも嫌だろう? だから、俺の生活費だけでも支援してもらいたいんだわ。これでも気を遣っているんだぜ」

 何をいけしゃあしゃあとふざけたことを言っているのか……あたしは腹が立って我慢できなかった。

「バカなこと言わないで! お兄ちゃんがどんだけ苦労して生活費稼いでいるか知らないくせに!」

「そうか、稼ぎ頭は圭祐か。んじゃ今度圭祐に相談しに行くわ」

「嫌っ! それは駄目っ! お兄ちゃんには会わないでっ!」

「んじゃあ、お前が工面してくれるのか?」

 墓穴を掘ったとはこのことね。まんまと父の煽りに乗せられて怒りに任せて余計なことを言ってしまったわ。ニヤニヤとほくそ笑んでいる父をぶん殴ってやりたい衝動に駆られながらも、あたしはどう対応するべきか迷った。

 父と兄を会わせるのはどうしても避けたい。あたし以上に父からの被害を受けて来た兄に、かつての悪夢のような心労をまた背負わせるのは絶対嫌だから。兄と父が会ってしまえば、兄はあたしを守るために今以上の無理をするに決まっている。あたしはもう兄の負担になりたくない。そして、兄と二人の今の幸せな生活を父に邪魔されるのも嫌だ。そのためには父との接点はあたしのところで断ち切らなきゃならない。一応あたしもアルバイトをしているのでちょっとだけ収入がある。兄はあたしが稼いだお金は全部お小遣いとして使っていいよと言ってくれているが、あたしは兄に気づかれないように一部を生活費に回してたまに夕食を奮発したりしてたんだよね。だから、あたしのお小遣い分と生活費の一部に回しているお金を父に渡せば、何とかできるかもしれない。今思えば、これが浅はかな考えだったんだけどね……。

「あたしがバイトしてる分ならいいわ……。その代わり、お兄ちゃんには会わないで。ウチにも来ないで」

 父はちょっとだけ考えるような顔をした後、

「ふん、ま、いいだろう」

 わずかに不満そうだったけど何とか妥協してくれたみたい。あたしは少しだけホッとしたわ。これで最低限、兄とあたしの生活は守られたかな……って。

 その時はあたしの財布に入ってた手持ちの一万円を渡して、父には帰ってもらったの。帰り際にまた来るとか不快な言葉を残して行ったけど、もう学校には来ないで欲しいわね。本当に最悪な日だったわ。


 次の日、アルバイトの帰り道で待ち構えていたような父に会った。

 そこであたしがアルバイトで稼いで貯金していた十万円を渡したの。バイト代三ヶ月分ぐらいから捻出して貯金していた額ね。これで当分は父もお金をたかりには来ないだろうと思っていたんだけど、あたしの読みは甘かったわ。

「これっぽっちじゃ、一ヶ月分にもならんな」

「何言ってるの? あたしのバイト代三ヶ月分ぐらいなんだけど」

「もっと稼げるとこで働けよ」

「あんたこそ、ちゃんと働きなさいよ。いい大人なんだから」

「うるせーな。子供のくせに俺に指図すんじゃねーよ。なくなったらまた来るからな。その時までしっかり金用意しておけよ」

「だからそれが三ヶ月分だって言ってるでしょ! 三ヶ月経たなきゃそんなお金無理なのよ」

「知るかボケ。バイト増やすなりして次来るまでに金稼いでおけや」

「無理よ……」

「ふん、お前がダメだったら、圭祐のとこに行くだけだ」

「それは駄目って約束したでしょ!」

「知ったことかよ。じゃあてめえで何とかしとけよ」

「……」

 言葉に詰まったあたしに興味を失ったのか、父は踵を返すと、片手を上げて去って行った。

 困ったな。十万円も渡せばそれを元手にして仕事でも見つけてくれるかと思っていたんだけど、父はどうやら自分で働いてお金を稼ぐとかまったく考えてないっぽい。渡したお金を使い果たしたら、確実にまたあたしにお金を無心しにやって来るだろう。今まで母と兄に守られて父からの被害が少なかったあたしはいささか父の本性を甘く見ていたようね。確かに大嫌いな人だったが、父に対してはあまり興味がなかったこともあって、その人間性と危険性を深く考えていなかったのね。そして、この時あたしは父という人間をはっきりと理解したの。本当にろくでもない大人なんだ……と。

 ただ、思い悩んでばかりいても仕方がないので、何とか対策を考えないと。その日は帰宅してからも悶々として気分が落ち込んでいて、兄に少し心配されてしまった。兄に心配かけないように気をつけないと駄目ね。


 父に会った日の翌日、私は学校で生徒指導室に呼び出された。

 どうやら、昨日父と金銭のやり取りをしているところを同じ学校の生徒に見られていたらしいわね。あたしが援助交際をしているのではないかという疑惑が教師に伝わり、それを問いただすために呼び出されたわけ。まったく言いがかりもはなはだしいわ。あたしは会っていたのはこの前学校に来た自分の父親だということを説明して、教師たちへの疑念は晴らしたんだけど、その後も同級生の中ではまだ疑惑がくすぶっている感じね。あたしが見えていないと思っているところでよくコソコソ噂話してるし、あたしを見るみんなの目も今までとあきらかに違うのよね。ちょっと学校生活が息苦しくなったけど、そんなに学校の生活に関心がないんで特に気に病むことはないのが救いかな。とはいえ、弱り目に祟り目とはこのことだわ。

 すべては父と再会してしまったのが不運の始まりね。あいつさえいなければ、何の苦労もなく兄と二人で穏やかに暮らせていたのに。本当、あのダメな父親にはできれば死んでほしいわ。

 そんな物騒なことを考えている時に、ふと以前兄が言っていた『殺意認証』サイトのことを思い出したの。何となく心に引っかかるものがあって、あたしはスマートフォンで『殺意認証』サイトにアクセスしてみたわ。

 真っ黒な背景のページで、見出しには『あなたの殺意を認証します』と書かれている。見出しの下には『殺意の対象者』とラベルが添えられた入力欄と、同じように『あなたのお名前』のラベルの入力欄が縦に並んでいる。改めて殺意って文字を突き付けられて、ここに入力するのにはちょっと勇気がいるなぁ……と、少しだけ弱気になっちゃった。でもまあ、どうせネタサイトなんだし、ここで認証したいぐらい大嫌いなやつなんだからいいよね。あたしは意を決して、対象者の欄に『高田勲』と入力したわ。あとは自分の名前ね……ちょっと本名を入力するのは嫌だなぁ。ここでも怯んだあたしは、カタカナで『ミオ』とだけ入力してみた。

 次にその下を見ると、チェックする欄がある。その脇の説明文には『対象者への殺意が実行された場合に認証者の名前が一覧として公表されることに同意します』と書いてある。これって、もしも父が死んだら認証したあたしの名前が公表されるってことかな……ん? でもこのサイトってどうやって父が死んだことを確認するんだろ? 総理大臣みたいな有名人ならともかく、父みたいに社会の底辺にいるような人が死んでも確認しようがないんじゃない? まあでも、公表されたとしても『ミオ』だけだし、誰だかわからないでしょ。あたしは同意項目にチェックを入れたわ。

 そしてその下にある灰色の『認証する』ボタンをタップしてみるが、反応はなかった。あれ? ボタン押せないな。あ、『あなたのお名前』の入力欄が赤く囲まれてる。これって、『ミオ』だけじゃダメってことかな? うーん、仕方ないなぁ……。名前欄を『タカダミオ』に修正してみた。あ、ボタンの色が青色になった。これはなんか押せそうな感じだ。あたしは青色に変化した『認証する』ボタンをタップしてみた。

『あなたの殺意は認証されました』

 スマホのスクリーンにポップアップが表示された。おー、これが殺意認証かぁ……なんか思ってたよりもあっさりしてるのね。そう思っていると、自動的にページが切り替わり、名前の一覧が並んでいる画面が表示された。そして、一覧はすごい速さで勝手に下にスクロールして行き、1つだけ枠の色が黄色になっているところで止まった。枠の中には『高田勲』の名前と2の数字が表示されている。これって、どういうこと? あたしの他にも父に対して殺意認証した人がいるってことなのかな? この世の中であいつに対して殺意を抱く人って……もしかして、お兄ちゃん? うーん気になるけど、お兄ちゃんには聞けないなぁ……もしお兄ちゃんじゃなかったら無駄にあいつのこと思い出させて気分悪くさせちゃうだろうし、万が一にもあたしがあいつに接触してることがバレたりしたら気まずいうえに心配されちゃうからね。

 それでも何だかちょっと気が楽になった感じがする。あたしの殺意が認証されたことで、あいつに嫌がらせできたみたいでちょっと気が晴れたのかもね。でも実際には困りごとは何も解決していないんだよなぁ……次にあいつがお金を無心してくるまでには、何とかしないとな……。

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