ここにします。

土蛇 尚

困る。男ってやつは。

「おはようございます。それでは行きましょうか」


 その不動産屋さんの人は若い頃の夫に少し似ている気がした。

 

 最初見た時少しそう思ったけれど、候補の家を回る車中の運転はお世辞にも上手とは言えず、やはり夫とは違うのだと当然の事実に気づいた。夫は車の運転が上手かった。


 私は人生の末に一人で住む家を探している。夫は私をおいて先に死んでしまったから。男って早く死ぬのよ。気をつけなさい。私はそう若い女の子達に心の中でアドバイスした。気をつけるってどう気をつけたら良いのかは分からないけど。

 

 彼はお酒もタバコもしなかったし、金曜日の夕方は二人で公園を歩いてちゃんと運動してた。それでも先に死んじゃうのだから困る。そのせいで金曜日が少し嫌いになった。


 別に元いた家も住めなくなったわけじゃない。ただその家にいたら困るのだ。あまりに多くの思い出が私を押し潰そうとする。男って先に死んじゃうから迷惑よね。

 家の近くの公園は行く気にならないから散歩もする気にならないしどんどん運動不足になる。

 



 二人で住んでた家は扉だけでも思い出が大変。変な言い方だけど大変なのだ。


 一緒に家に帰った時、いつも扉をすっと開けてくれたこと。

 

 なぜか偶に押して開けようとすること。それを何も言ってないのに言い訳をしだすとこ。職場は押すんだよとか言う。


 雨の日一つの傘に入って家まで帰ったこと。私を迎えにくるために来たのに、私の分の傘をすっかり忘れてしまって、家に入ったらその傘があるのがおかしくて。


「ごめん。傘忘れちゃった。まず迎えに行かないとって頭がいっぱいで、それで忘れちゃった」


「分かったから」


 そんな思い出。分かってくれる?大変なのよ。賢いのにちょっとバカ。私がいないとたぶん生活できない人。彼の人生は最後まで私との生活だった。とてもずるい。


 ドアも窓も天井も家具も。彼との思い出がある。だから引っ越すことにした。友達の話を聞くと案外みんな私ほど大変じゃないらしいのよね。でも私の男は先に死んじゃった。それが私にとって大きなこと。


「ここにします」


 私はそう夫にはまるで似てない不動産屋の人に言った。この部屋は二人の家とは全然似てない気がしたから。


 おわり。

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ここにします。 土蛇 尚 @tutihebi_nao

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