第29話 越境
**
懐中電灯は、深海魚の目のごとく暗闇を走査する。白地の海底は、永遠と滑らかに続いており、生命の気配はない。ここは月の光すらも届かぬ夜の底。旅館でもらったカイロは、すでに死んで冷たくなっている。
「雪、止んでるな」
長谷川は、塗りつぶされた空を見上げた。旅館を出た時には、すでに降雪はなかったのだ。夜空は無音といった趣だ。
「本当だな」
宿から歩いて二十五分。ようやく例の柵が見えてきた。柵、この山との境界に沿って歩き、聖域の看板を見つける。看板は照らされると、白く発光するようだった。ここからさらに西に歩けば、聖域内部への抜け穴があるはずだ。彼らは、足を止めずに目的地を目指した。
「子供が嫌いなのか」
彼女の、雪の子に対する扱いが雑なのが気になった。学者といえば子供嫌いという偏見があるが、そうなのだろうか。
「いいや。別にそうでもないな」
ざくざくと雪を踏みしめる。
「怯えてたぜ」
「誰が」
「旅館に置いてきた子供さ」
彼女は両手をしまい込むように腕を組んだ。
「思い当たることがある。私の親は教育熱心で、幼いころから詰め込み教育だった。それで、その教育とやらは、ひどくはなかったがやや強引なやり方で、机にひもで固定されたりしたものだ。神経質だったから子供的奔放さに、まいってしまっていたのだろう。手をあげられたこともある」
「虐待じゃないか」
「虐待ではない。虐待といえるほどではなかった。お前が考えるほど、悲惨ではないな。あれは矯正だ。私が心底そう思うのだから、この一件について部外者であるお前は否定のしようがないだろう」
話者は、その話の間、目を合わせようとしなかった。黒井は、心を痛める。長谷川には、感情的、主観的といった心の防衛機構が備わっていないのかもしれない。彼女は、自分ですらも自身の味方ではないのである。
「同情されるのが嫌いなのか」
「勘違いするな。決して不幸ではなかったのだ。おかげで良い大学にいけたしな。世の中には、もっと悲劇がある。それにくらべれば、端数に過ぎない問題だ」
「不幸の深さは関係ない。幸福でないことが問題じゃないか」
彼女は、己に働きかけようとする彼に、言い返すことはしなかった。大切にされていることがうれしいというのは、彼女にとって意外な発見だった。
「お前は、幸せか」
「今回の件と、妹の一件の犯人が捕まるまでは、幸福になれない」
「なら、犯人が捕まれば、幸せになれるのか」
黒井は、どうだろう、と考える。神宮寺が逮捕されたからといって、失われた生活へ帰還するわけでなし。その向こうにあるのは、妹のいない日常のみ。しかし、彼との決着がつかねば、そこへも進めないのである。
そうこう考えているうちに、『聖域』の入り口にやってきた。
*
しゃがみこんで靴にスパイクを装備する。柵に開いた、小さな抜け穴。ここから先は霊域だ。雪と夜、禁域。普段立ち入ることのない、法と常識の機能しない、人間社会にある飛び地。ここから先は、別世界なのである。
「ここをくぐるのは、なぜだかいつも緊張する」
背後で長谷川が云った。鉄網と藪の狭間の土地である。
藪のトンネルは、なんだか童話の導入のようだ。行って帰ってくる童話には、帰れなくなる不安が漂う。漏斗の裏側、木々の模様は、竹かごを連想させた。
「俺もだよ」
穴を抜け、視界が開ける。
雪の森といのは幻想的だ。干ばつされているため、木々の感覚はそろっており、はっきりとした色彩は油絵じみている。
そして、例の遺跡へ向かうべく、二人は緩やかな斜面を登りはじめた。ここを登り詰めた平地にトーチカが鎮座している。そこに、少女の姉がいるらしい。
「生きてるだろうか」
黒井は、疑問を口にした。疑問すら、吐くなり白くなる、この寒さである。
「奴らは、双子だと言っていたな。同様の条件が死んでいるのだから、息絶えていても不思議はない」
「奇跡に期待しよう」
旅館の幽霊はどうしているだろうか。あの少女は、姉の無事を願って、震えているだろうか。
「おい、足跡だ。足跡がある」
彼は、雪に足を取られないよう大股で、痕跡へといそいだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます