Home Sweet Home
碧
第1話
「おまえさあ、自分の立場わかってんの?」
でっぷり太った男が、威圧的な目線を向けながらそう言い放った。
ヘラ吉は思わず身を竦めた。
いつからだろう。この幼なじみの一挙一動に、反射的に身体を縮こまらせ、おびえるようになってしまったのは。
「ご、ごめん、怒らないでよ」
「いやさあ、怒ってるわけじゃないんだよ」
バファ朗がそう言いながら、不機嫌そうに首をひねる。その瞬間、頭部から伸びる彼のツノが、室内灯を反射してきらりと光った。
――ああ、これのせいだ、と、ヘラ吉は思った。
「ただ俺はさ、わきまえて欲しいっつってんの。君らアカヘラジカはさ、本当ならもう絶滅してるはずだった種なわけでしょ。それが、俺らバッファローの支援でかろうじて生き延びてるってわけ。なのに感謝もなしに、あの部屋はだめ、この部屋はだめって、わがまま言われるこっちの気持ちにもなって欲しいっつってんのよ」
「う、うん、わかってるよ、ごめんよ」
「俺もよ? じいちゃんに頼まれてこのバッファロー不動産に入社したばっかりで? 次期社長としてめっちゃ頼られてるわけで? 毎日めちゃくちゃ忙しいわけ。それをさ、休日返上で、幼なじみのよしみでさ? お前の部屋探しに付き合って、内見させてやってるわけじゃん?」
「うん、うん、ほ、本当に、感謝してるよ。ありがとう、バファ朗」
「わかってんだったらさあ」
もう一度、バファ朗が頭をひねる。毎日使用牛に磨き抜かせているというなだらかなカーブを描いたツノがまた、光った。目の前をかすりそうになったそれをさりげなくかわし、ヘラ吉は目を伏せる。
「もう、ここに決めてくんねえかな。早く売れって親父がうるさいんだよね」
「で、でも、」
震える声でヘラ吉は言った。バッファローとヘラジカ。そんなに体格差はないはずなのに、どうしてバファ朗はこんなに大きく見えるんだろう。
「この部屋、僕には狭いんだよ」
「ツノもないくせにさ」
遮るように吐き捨てられた言葉に、ヘラ吉は今度こそ声が出なくなる。
「狭いもくそもないでしょ。十分だよ、お前にはさ」
北極圏の春が終わりに近づいている。太陽の沈む時刻が日に日に遅くなっているのがわかる。
夏になれば、灼熱地獄の日々が続き、ヘラジカたちは空調のついた家屋から一歩も出られなくなるだろう。
今年成獣になるヘラ吉は、早く実家を出て一鹿暮らしを始めなければいけなかった。両親と幼い妹がいる実家はもはや手狭なのだ。
「はあ……」
家路への足取りは重い。結局バファ朗に強制的にサインさせられてしまった契約書のことを考えて、深いため息をつく。
バファ朗との関係は、かつてはこんないびつなものではなかったような気がする。
確かにヘラ吉は、貧しくか弱いヘラジカ一家の息子だ。対してバファ朗はこのタウンの地主一家の息子であり、バッファロー不動産の御曹司だ。本来なら混じり合い、肩を並べあうような立場ではないはずだった。
だが、少子化が進むこの小さなタウンの数少ない偶蹄目の同世代の子どもとして、幼い頃、二頭は無邪気に出歩き、語り合う仲だった。
いつからだったろう。なにがきっかけだっただろう。ヘラ吉は、なんだかぎゅっとなる腹を持て余しながら、過去に思いを馳せる。
いつからだったろう。気の置けない仲だと思っていたあの男に、威圧感を覚えるようになったのは。
すっかりスれた、おとなブったバファ朗の姿を思い浮かべる。そのとき、いつもヘラ吉の脳裏にはまず、バファ朗の大きなツノが思い浮かぶ。
それと同時に、自分の額の上の、もぞもぞとした違和感に意識がいく。
選ばれし種族であるバッファロー以外の者は、ツノを持つことは許されない。
そのため、ヘラ吉も、思春期に入る前にツノ成長抑制剤の服用を始め、それでも伸びてきたツノは定期的に美容院で削り落としていた。
それでも、バッファローと違って、ヘラジカは元々ツノが定期的に生え替わる種族なので、むくむくとツノが伸びてきてしまう。ツノの処理をするだけでも出費がかさみ、家計を圧迫している。
初めて美容院に行った時のことを、ヘラ吉は思い出す。
ツノのそぎ落としは、歯医者での虫歯の治療よりは痛くはなかった。だが心の中に、ぽっかりと穴があいてしまった気分だった。
こんなとき、それまでのヘラ吉は一も二もなくバファ朗に会いに行っていた。悲しいことや悔しいことがあっても、二頭で北極圏のサバンナを全力疾走すれば、無敵な気分になって、心がすっきりしたのだ。
だのに、その2日前、バファ朗はヘラ吉に言ったのだ。
「お前さあ、もう、俺に話しかけてくんなよ」
快活で明朗ないつものバファ朗はもうどこにもいなかった。
冷たい目で遠くを見るバファ朗に戸惑ったあのときの気持ちを、ヘラ吉は昨日のことのように思い出せる。
「どうしてだよ、バファ朗」
「皆まで言わせんなよ。俺は選ばれし「すべてを破壊しながら突き進むバッファローの群れ」の末裔なんだよ。お前みたいなアカヘラジカとなんかつるんでたら、格が下がるだろ」
ヘラ吉は声を失った。ああ、あのときからだ。バファ朗の前にいると何も言えなくなってしまうようになったのは。怖くて自分の気持ちを出せなくなってしまったのは。
ただ黙って立ち尽くすヘラ吉を、しばらく無表情に見つめた後、バファ朗は尻を向けて立ち去ろうとした。
「バ、バファ朗……」
小声でその名を呼ぶと、バファ朗は一瞬立ち止まった。それから、ぼそりと呟いた。
「俺、バッファロー不動産を継がなきゃなんねえんだ」
あれはまだ冬が終わりかけの、過ごしやすい程度の涼しい夕刻で、空が紫がかっていたのを覚えている。
不動産なんて継がないって言ってたじゃないか。
ヘラ吉は戸惑いながら、まだもっと子どもだった頃、バファ朗が語っていた壮大な夢を腹の内で反芻した。
「俺はいつか、東南アジアに行くんだ」
かつては凍土と呼ばれる場所だったらしい地面をほじくりながら、バファ朗は無邪気に言い放った。
「東南アジアって、赤道近くのところだろ?」
「そうさ。太陽が一番近くて、夏も冬もなくて、一年中、太陽がでている時間が同じなんだってさ」
「そんなところに行ってどうするのさ」
「俺は、俺の祖先がかつて生きてた場所を見に行ってみたいんだ」
そう語るバファ朗の目がきらきらしていて、なんだか眩しく感じたのを覚えている。
神話では、かつて地球は、ホモ・サピエンスという邪悪な二足歩行のほ乳類が支配していたという。かれらは惑星の気候を大幅に変化させ、一年中雪と氷に閉ざされていた北極圏すらサバンナに変えてしまった。
多くの種が滅亡すると思われたそのとき、宇宙から神託が下った。
曰く、
――選ばれしバッファローよ、群れをなし、突き進み、3分以内にすべてを破壊せよ。
その神託を受け取った選ばれしバッファローの群れは、地球最後のホモ・サピエンスを絶滅させ、代わりに、地球上のすべての生命の頂点に立った。
それがバファ朗たち一族の祖先だ。
悪しきホモ・サピエンスは消え去ったが、一度温暖化が進んだ地球の気候は元には戻らなかった。
ヘラ吉たちのような、もともと寒冷な気候の地にすんでいた生物たちは、相変わらず生命の危機に瀕していた。
そこで、神の神託を受け取った「すべてを破壊しながら突き進むバッファローの群れ」の子孫たちは、か弱いその他の生命達を保護するため、彼らに不動産を提供することとなったのだ。
「不動産屋なんて継がないよ」
バファ朗は無邪気に笑っていた。
「だいたい、バッファローがすべての生命の頂点だなんて、驕りも甚だしいんじゃね? 俺たちバッファローも、ヘラジカも、友だちだろ。遠い昔はみんな、ただそれぞれ地球上の生まれた地で、その生を全うしていただけで、優劣なんてなかったはずなのに」
「でも、でもさ、」
ヘラ吉はそのときの会話のことを、昨日のことのように思い出せる。
「赤道って、ここからめちゃくちゃ遠いんだろ? 僕たち、もう会えなくなっちゃうよ」
「お前も着いてくればいいじゃんか」
「だって、東南アジアって、めちゃくちゃ暑いんだろ? 僕には無理だよ」
「んー、じゃあさ」
にかっと、バファ朗は笑った。
「ヘラ吉もいけるように、クーラー付きの快適な移動車を、俺が発明するよ。それで、一緒に、東南アジアに……いや、いっそ、世界一周しようぜ!」
「世界一周!」
「おう、それがいい! 見てろよ、俺はヘルシンキの大学で発明を学んで、世界一周用の船と車を開発してやる! お前はそれまでにもっと身体を鍛えておけよな!」
「……うん!」
バファ朗の夢は壮大だった。最初はついていけないと思っていたヘラ吉も、一緒に話しているうちに、段々と、まだ見ぬ世界への憧れが腹の内にじんわりと広がっていくのを感じていた。
だがそれも、もうずっとずっと遠い昔のことだ。
急にすべての夢を捨てて家業を継ぐ選択をしたバファ朗も、金がなく健康不安はあるヘラ吉も、このちっぽけなちっぽけなタウンから一歩も出ることができやしない。
挙げ句の果てに、バファ朗がヘラ吉に売りつけるマンションの一室は、彼が父から押しつけられた不良物件で、横たわるのもやっとな狭さなのだ。
「ボロロロロロロロ……!」
急激な悔しさがこみ上げてきて、ヘラ吉は思わずうなり声をあげた。
それと同時に、また、無いはずのツノがむずむずして、とっさに草むらに頭を押しつけた。
夕暮れが近づいている。
地面から立ちこめる温もりが、夏の訪れを予感させる。
ヘラ吉たちを箱の中に閉じこめる、地獄のような季節の訪れを。
Home Sweet Home 碧 @madokanana
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