第二章

 人間は時計を失うとかえって規則正しい生活になる、と誰かが言っていた。今日も影は昨日までと同じ角度で伸びていた。既に目覚めた街が頭上を震わせている。

 テントから這い出し、早々にそれを片付ける。高架橋の下。目の前には大きな川が流れる。こんなところで一人テントを張っているのを誰かに見られるのはテント泊そのものよりも屈辱的だ。

 俺はこんな所にいて良いような人間じゃない。大した能力もないくせにヘラヘラするのか得意なだけの連中が幅を利かせている今の世の中がおかしいのだ。優秀な俺が馬鹿どもの上に立てば日本は多少良くなるはずなのだ。


 気温が上がって一斗缶の焚き火も必要なくなってきていたが、タバコを吸うためにライターを出したついでに枯れ木を焚べる。燃料の在庫はまだあった。

 煙を吐き出すと共に消えていくのは自身の存在のような気も、やり場のない怒りのような気もした。あるいはそれらは同じものなのかもしれない。


 三本目のタバコに火をつけたあたりで、奴が来た。コツコツと石畳を鳴らしながら軽快に歩いていく。

 日陰でも艶を放つ磨き上げられた革靴。しなやかでしかし、くたびれていない暗いシルバーのスーツ。やや長い髪の毛も美しくセットされていて不潔感を感じさせない。

 一駅歩く、というやつだろうか。スッと伸びた背筋にそういった方の意識の高さも感じる。

 ここを通る人間は多くないが何人かああいった連中がいる。中でも奴は特別容姿に気を配っているように見える。

 はっきりいって気に食わない人種だ。ああいう見た目だけのハリボテが優秀だと持て囃され金を受け取り、俺のいるべきポジションを薄汚いやり方で占拠していて、そのプライドを捨ててでも金を追求する品性の下劣さを恥じてもいない。

 忌々しい着飾ったハイエナを毎日のように見るのは不愉快だったが、この先の公園で自堕落な連中と段ボールとビニールシートをを分け合って暮らすよりはマシだった。

 その時指先にピリッと痺れるような痛みが走った。煙草の灰が指に落ちたのだ。うっと声を漏らし払いのける。

 なぜ俺がこんな目に合わなければならないのだ。

 神が正しい存在なら奴に灰を落とすべきだ。しかしそんなことは起こり得ない。この世に神など存在しないのだ。

 ならばいっそ俺が神の代わりに奴に灰を……いや、もっと激しい業火で天罰を与えてやろうか。いやそうすべきだ。奴がいるのは本来俺が立つべき場所なのだから。




 軽自動車の後部座席で芳之は森脇を待っていた。白い車体に不動産屋のロゴがラッピングされている。ツルツルとした座面は座っていて何だか落ち着かない。

 車内は当然の静けさで外の空気よりも更にひんやりとして感じられた。

 ややあってミラー越しに森脇がこちらに向かってくるのが見える。傍に大きなファイルの入った鞄を抱えていた。

 勢いよく運転席のドアが開き、閉まる。森脇が乗りこんだ衝撃で小さな車体はゆさゆさと揺れた。

 森脇はどさりと鞄を助手席に下ろすと

「お待たせしました。では出発しましょう」

 と言って芳之の方を一瞥してエンジンをかけた。ガタガタッと車体が震え、軽自動車は裏路地の細い道を慣れたハンドル捌きで軽快に走り始める。


 森脇がミラー越しにチラリと芳之を見る。同じくミラー越しに森脇を見ていた芳之と目が合う。その何となく鋭く、何となく不気味な視線に森脇は背筋が少しゾクリとした。

 こいつは一体何なんだ?

 そんな言葉が森脇の脳裏に一瞬だけよぎった。

 視線を正面に戻す。


「しかし珍しいですね、お客さん。事故物件がみたいだなんて。気味悪がる人がほとんどなのに」

「そうですかね。気にならないので安くて助かるんですが。不動産屋さん的には案内したくないものなんですか?」


 芳之の視線はミラーに向けられている。


「まあ個人的に。ほら何か出たら嫌だっていうか……いやあり得ないってわかってはいるんですがね、そういうものですよ人間。お店的には一度誰かが入居してくれれば事故物件として扱わなくてよくなるのでむしろ歓迎ですね」


 平日の昼間の地方都市は交通量も少なく、車はすいすいと目的地に進んでいった。

 辺鄙な場所にある古いアパート。近づくにつれて交通量は更に減っていく。


 そのまま三十分ほど走り目的地もそろそろという時、芳之が久しぶりに口を開く。


「自殺だったんですか?」


「えっ?」


「死因というか死の状況というか。どうやって亡くなった方が住んでたんですか?」


 森脇は何でそんなことを聞くのだ、と訝しんだが淡々と答える。


「えっと……煙草の不始末が原因だって聞きましたよ。だから事故ですかね。布団にくるまってたせいか全身丸焦げになってたようで……あ、すみません何だか余計なことまで」


「いえ、良いんです。ありがとうございます」


 芳之が窓の外に目を向ける。

 森脇は何故か胸を撫で下ろすような気分がしていた。


「しかしこうは考えられませんか?ここなら誰にも見られずに人を殺せる。そう考えた狂人が事故に見せかけて殺した、とは」


 冷たいものが森脇の背を伝った。


「……あり得ませんよ。やだなお客さん。怖がらせないでください。第一殺したいなら刺すでも首を絞めるでももっと楽な方法があるでしょう。それに目撃者の心配もないならわざわざ事故に見せかけて殺さなくて良いじゃないですか」


「わざと苦痛を味合わせる方法を選んだのかも。何か怨みがあって」


「そんな奴世の中に滅多にいませんよ。漫画の世界じゃあるまいし」


「……さあどうでしょう。意外と近くにいたりして」


 道の舗装が荒れだし揺れが激しくなり始めた頃、目的地のアパートは姿を現した。

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