第42話 ドウシュウコジ

 リビングにいくと、家に居座っている人間が全員、床で座禅を組んで瞑想していた。

 全部で八人いるから、リビングが人であふれかえって足の踏み場もない。


 間に合わなかったか。


 俺は玄関にボストンバッグを置いて、極力音をたてないようにリビングへ滑り込んだ。

 キッチンまでたどり着くと、食パンを袋から二枚ひっつかんで口の中に入れる。早急に咀嚼を終えると、コップに牛乳を注いで食パンを流し込んだ。

 そのあとはコップを洗わなければいけない。以前コップを流しに置いたまま家を出たら、「洗っておいたよ」と恩着せがましく何度も言われたから、どれだけ時間が押していても自分のことは自分でしなければならない。弱みは絶対に見せたくない。

 静かな空間に水音が響く。人の気配はするのに、聞こえるのは蛇口から出る水の音だけというのがとても不気味だった。

 今すぐ逃げ出したいのに、弱みを見せたくないから逃げられない。キッチンの配置上、瞑想している連中に背中を向けることになるのも嫌だった。

 きもちわるい。きもちわるい。

 視線を感じる。気配を感じる。

 はやくにげだしたい。

 急いでコップを拭いて、食器棚に戻す。


 振り返ると、瞑想を終えたらしい連中が全員こっちを向いていた。


「おはようございます! ドウシュウコジ!」


 八人分の声が鼓膜を引き裂くように迫ってくる。最悪だ。もっと早く起きていればこいつらが瞑想中にコップを洗って、とっとと家を出られたのに。そうすれば挨拶されないで済んだのに。

 俺が顔を顰めるのが気に入らなかったのだろう。八人のうちの一人が声を張り上げる。


「ドウシュウコジ! 毎日どういうつもりなんだ! 家族を無視して! みんながお前に挨拶してるじゃないか!」


「……それ、俺に言ってんのか?」


 昔、俺が父親だと認識していた生き物は、さも子供の監督責任を果たしているかのような顔をして俺を睨み付けている。

 その元の父親の背後で、他の連中は薄気味悪い笑顔を貼り付けていた。ハンコか金太郎飴みたいに均一化された笑顔に取り囲まれ、元父親の隣に女が近寄る。

 これは俺が昔母親だと認識していた生き物だ。元父親と同様、子供の監督責任を果たしているような顔で人語っぽい鳴き声を発する。


「ドウシュウコジ、ダメよ。挨拶されたらきちんと挨拶を返しなさい。それに黙って食事を持っていくのも良くないわ。みんなに申し訳ないと思わないの? 貴方はただでさえお布施を免除していただいている立場なのよ」


 長ぇ鳴き声だな。発情期の猫だってもうちょっと簡潔に鳴くだろうに。

 俺とコミュニケーションが取れていないことだけは野生の勘でわかったらしく、元母親の口調が少し強くなる。


「働きもしないのに、そんな態度でいるなんて恥ずかしい。もうすこし弁えなさい!」


「じゃあ縁切ってくれよ。そうしたら自分でなんとかするから」


 あ、しまった。つい返答しちまった。

 人語を操るからって人語を解しているワケではないのに、聞き覚えのある言語を喋られるとついコミュニケーションを取れるんじゃないかと思ってしまう。

 そしてそんな幻想を抱くのは相手方も同じらしく、元母親が非難がましい声をあげた。


「ドウシュウコジ! なんてこというの! この恩知らず!」

「恩知らずか? そんなに金が惜しいなら学費のかかる未成年を切り捨ててくれって言ってんだから、むしろ殊勝だと思うけどな」


 ああ腹が立つ。中途半端にこっちの言葉を解してるから余計に腹が立つ。

 俺が睨み付けると、元父親も元母親も、一瞬たじろいだ。

 人みてぇな顔すんな腹立つな。


「だいたい何がお布施だよ。クズ宗教に金吸われてるだけだろ。それに俺はドウシュウだかなんだかいうバカげた名前じゃない。ありがたい宗教ごっこは俺抜きでやってくれ」


「ドウシュウコジ!」


 だからそれは俺の名前じゃねぇっつってんだろ。

 元親父が声を荒げ、木製の靴べらをひっつかむ。それが合図かのように、後ろにいた笑顔の連中が俺にむかって手を伸ばしてきた。


「やめろ! 触んな!」


 消しゴムハンコ大量生産スマイルどもが、砂糖に群がる蟻のように俺へ押し寄せてきた。抵抗するために振り回した腕に、誰かが当たる。


「きゃあ!」


 尻餅をついたのは知らないババアだ。元母親と同い年くらいの女だった。もしかしたら朝挨拶されたかもしれないが、関わりたくないので顔なんか覚えてない。

 それでも女を突き飛ばしてしまったことに動揺して、俺の動きは一瞬止まった。


 いくら人間じゃないと思っていても、こいつらは幽霊じゃない。

 生きている奴を傷つけるのは抵抗があった。

 

 「大人しくしなさい、ドウシュウコジ!」

「ドウホウコジ、どうぞ!」


 隙を見せたのがよくなかったのだろう。

 おっさんふたりが俺に群がり、元母親も参戦して俺を床に押さえつける。元母親だけなら振り払えたが、いかんせん男2人が参戦すると事情が別だ。

 総勢3人に肩と腕を掴まれ、床に押しつけられる。体に力が入らないので満足に抵抗もできない。

 

 「ありがとうみなさん。放蕩息子のために、申し訳ない」


 さも悲しいですというわざとらしい顔をして、元父親が俺の背後に立った。靴べらが振り下ろされる。

 空気を来る音。

 肉を叩く音。

 視界が揺れて、口から声が出た。


「ぐぁああっ!」


「痛いかドウシュウコジ! 私はもっと痛いんだ! お前の躾けに協力してくれている皆さんも、お前よりもっと痛いんだぞ!」


「そういう台詞は自分の手で殴ってから言いやがれ!」


「減らず口を……!」


 バシンッ、と大きな音がした。

 叩かれた背中は痛みを通り越してビリビリと痺れているような感覚がする。熱くて痺れて、息が詰まる。


 ――くそっ、たれが……!


 昔は少なくとも、こんな体罰みたいなことをする人じゃなかった。

 もう人じゃなくなったからこんな事をしている。


 昔は普通の家族だったんだ。

 いつのまにか人間の皮を被ったケダモノばっかりになっちまったけど、俺の家だって、昔は普通だった。


 普通だったのに。


 なんだか無性に悔しくて悲しくて、俺は泣きたいのを必死に堪える。

 今泣いたら痛いからだと思われる。

 痛くなんかない。こんなもの。野良犬に噛まれたようなもんだ。

 俺の家族はとうの昔に全員死んだ。今目の前にいるのは家族の皮を被ったケダモノだ。野良犬が家にあがりこんでいるだけだ。


 だから屈してなるものかと、身を捩る。


 「どけオラこのクソが!」

 

 靴べらでの折檻が始まってしまえば、こいつらは油断して俺の拘束を緩めるのだ。あまり接近していたら自分が靴べらに当たりかねないので、距離をとっているのもある。

 折檻されている人間に抵抗する力はないと思っているのだろう。

 卑屈な野良犬と一緒にするな。俺は人間だから、殴られたら股ぐらに尻尾挟むお前ら獣とは違うんだ。


「テメェも調子乗って親父面してんじゃねぇぞ!」


 靴べらを持つと安心する性質があるらしい野良犬に、背中を叩かれた仕返しも込めて拳をお見舞いしてやった。


「ぎゃあ!」


 無様な悲鳴を上げて、元親父が床に転がる。

 痛いか? あいにく俺はあまり痛くないぞ。物と他人に頼って闘うお前と違って、殴り方を心得てるからな。


「てめぇらも殴られたくなかったらどけよ」


 睨み付けると、消しゴムハンコスマイルどもが俺から一歩距離を取った。その中に元母親も混じっている。デカい面してたのが嘘みてぇだな。ウケる。


「待て!」


 元親父がいつのまにか起き上がって、靴べらを握っていた。

 顔を真っ赤にして俺の背中を靴べらで叩いた。


「ぐっ……!」


 体がふらつく。床に少量の血が舞った。

 畜生、思いっきりぶん殴ったのになんでこんな元気なんだ。腹立つ。

 

「態度を改めなければこんなものでは済まないぞ、ドウシュウコジ!」


「うるせぇいっちょ前に人語喋るんじゃねぇよ!」


 怒りにまかせて回し蹴りをお見舞いしてやった。

 腹に直撃した踵に車のタイヤでも蹴ったような衝撃が残った。

 元親父の体が吹っ飛んで、冷蔵庫にぶつかる。

 轟音とともにリビングが揺れた。


 元親父は口元に手をあてたまま、俺を睨み付ける。

 嘘だろ腹蹴られて吹っ飛んだのにまだそんな元気あんの?

 俺、生き物に対してはまだ攻撃するのに遠慮があんのかな。それか幽霊ばっか相手にしてきたから肉殴るやり方がわかってねぇのかもしれない。


 ただ、顔真っ赤にして俺を睨み付けてくる元親父の必死さはなかなか面白かった。

 元気そうだが、立てないのだろう。冷蔵庫にすがりついているが、足がブルブル震えている。


「俺に言うこと聞かせたいなら、まずクソ宗教から足洗えよマヌケ」


 床に落ちた靴べらを蹴り飛ばし、生まれたての子鹿よりおぼつかないおっさんの膝を蹴り飛ばす。

 元親父が再び倒れ、消しゴムハンコスマイルどもが悲鳴をあげた。

 

 その隙に、俺は自分の全財産をつめこんだボストンバックを持って家を飛び出したのだった。




 

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