第18話 お前、夢でも見てたのか?
上野恭助は鏡の前で跪いていた。
いつも使っているこっくりさんの用紙に、一〇円玉。硬貨は鳥居の位置ではなく、「はい」の上に置いて、人差し指で押さえている。
目を瞑って、深呼吸して、目を開く。
あまり時間は残されていないから、急がなくてはならない。失敗は許されない。そうなったら、おそらく神田も巻き込んでしまうから。
「こっくりさん、こっくりさん。いらっしゃいましたらお越し下さい」
一〇円玉は動かない。いつもなら、一度呼びかけたらすぐに来てくれるのに。さっきから左肩が痛かった。やめろと言われているようだった。
そうだろう。こっくりさんは上野の命が欲しいのだ。だから上野が生き延びようと足掻くのは面白くない。言うとおりになんかしてくれるはずがない。
でももう上野は知っていた。気持ちを強く持てば――負けないという意思があれば、彼が神様のように思っていたこっくりさんも、人間に従うのだと言うことを。
「こっくりさん、こっくりさん。お願いです。僕の言うことを聞いて下さい。お願いです、鏡を割るのをお手伝いしてください。これまで僕は貴方の言うことをたくさん聞いてきました。僕を助けるような口ぶりで、貴方が僕を良いように使っていただろうことはわかっています。昨日の貴方の言い分に、僕は言いたいことがあります。お姉さんの恋人を殺したのは僕だけじゃない。僕と貴方だ」
はい、と言わされた。そう思わなかった時が今までなかったわけではない。だけどそれは罪から逃げているような気がして、自分が選んだのだという責任から逃げているような気がして、深く考えることができなかった。それを一度してしまったら、こっくりさんが全て悪いと思ってしまう気がして――ずっと一緒にいてくれたこっくりさんに申し訳がなかったし、こっくりさんが悪いのだといって、こっくりさんを怒らせることも、話す相手がいなくなるのも恐かった。自分の罪を自分ひとりで背負うのが恐かったから、今まで目をそらしていた。
――もう、逃げない。
「僕と貴方は共犯者です! 対等の筈です! 貴方が僕を好きに操るだけでは対等ではありません! こっくりさんお願いです、たまには僕の言うことも聞いて下さい!」
一〇円玉が震えたような気がした。動こうとしているのを上から押さえつける。神田がやっていた事、彼が見よう見まねだと言ったそれを、さらに真似る。うまく出来ているかは自信がない。それでもやらなければ。
死にたくないし、死んで欲しくない。
こっくりさんに『ころしてあげようか』と訪ねられた時よりも明確に、鮮明に、強烈に、上野の心は今その二つの言葉しかないのだ。
彼は過去に類を見ないほど集中していた。時間がない。なんとしてでもこっくりさんに言うことを聞かせなければいけない。その一心だった。
だから、気づかない。彼の背後から黒ずんだ腕が山のように出てきて、体を触り始めても。
気づかない。押さえ込んだ一〇円玉が燃えるような熱を持ち、彼の肌を焼いていても。
気づかない。一〇円玉を睨み付ける彼の目が、徐々に変色していても。
気づかない。強膜が黒く染まり、瞳孔が白く変わっても。
気づかない。媚びたように彼に触れる腕が、引き留めるように絡みついてきても。
気づかずに――血を吐くように、懇願するように、あるいは、断罪するように、"命令"を下した。
「か が み を こ わ せ !!」
上野の肩に乗っていた死人の手が、一〇円玉を押さえていた上野の手に重なる。
そして死人の手が、上野の手を導くように引っ張った。
促されるまま、上野は指先を目の前の鏡へ伸ばす。一〇円玉を押さえていた時のまま、指先で鏡に触れる。
殴りつけるわけではない。ただ撫でただけだ。
それだけで、鏡に、ヒビが入った。
「あ」
と上野が声を上げる間に、彼の呼吸すらかき消すように、音がする。
聞いたことのない、けれど『なにかが壊れているのだ』とはっきり解る、ひび割れた音だった。
スチール缶をプレスする音に近いだろうか。一〇〇個くらいのスチール缶を、個人使用のプレス機で一気に壊したらこんな音がするのかもしれない。
鏡がヒビ割れる度にパキパキバキバキと、何重にも重なって破壊の音が鳴り響く。
先ほどまで上野の姿を映していた鏡が真っ白になった。曇ったのではなく、細かいヒビが幾重にも重なって、鏡としての役割を果たさなくなったのだ。
腕の群れが引いていき、真っ白になった鏡だけが残る。
「はい」の場所に鎮座した一〇円玉は熱を失い、そして腕も上野の左肩に乗るひとつだけになった。
「割れた……?」
上野が恐る恐るつぶやくと、声を合図にしたかのようにぱきん、と小枝の折れるような音がする。
途端、どれだけ金槌で殴っても割れなかった鏡は、砂のようにサラサラと、小さな粒子になってその場に小さな山を作った。どこかから吹いてくる隙間風が、砂のようになった鏡を吹き飛ばし、山が小さくなっていく。周囲にキラキラと光る塵が広がり、やがて目視すらできなくなっていく。
あまりにもあっけない終焉だった。
上野が呆然としている背後で、突然悲鳴が響く。
「縺弱c縺ゅ≠縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺ッ!」
獣じみた絶叫だった。命の危機を察した生き物の、悲鳴なのか怒号なのか、恨みなのか、あるいは全てがないまぜになったような音。
振り返ると、トカゲの化け物がのたうち回っている。その体が頭上からドロドロに溶け始め、腐った臭いが上野の方にまで漂ってきていた。
神田は化け物の横で咳き込んでいる。命は無事であるようだ。思わず胸を撫で下ろす。
これで終わった。やった。先輩も無事だ……。
上野が肩の力を抜いたのとほぼ同時に、風が吹く。
上野の方から化け物に向かって、突風のような、鋭い風が。
「え?」
上野にはよく見えなかった。そもそも彼には霊感がないからだ。その時起こった出来事を正確に把握していたのは神田だけだ。
上野の左肩に取り憑いていた死人の手が、化け物の首を掴んだ。
ドロドロに溶けて既に原型のないトカゲを振り回す。何度も床に叩きつけられた化け物は、ドロドロの体液を飛び散らせて体積を減らしていく。
耳を塞ぎたくなるような絶叫と共に取り出されたのは、女の霊だった。
「雖後d繧√騾」繧後陦後°縺ェ縺?蜉ゥ縺代繧?a縺ヲ隱ー縺句勧縺代‼︎」
悲鳴を上げた女の霊目掛けて、上野の背後から湧き出た腕の群れが飛んでいく。我先にと取り合っては女の体を力任せに引きずり、半透明で無防備な魂が千々に裂けた。
表情は苦痛と恐怖に歪み、助けを求めるように細い腕が神田と上野に向けて伸ばされる。
彼女の腕の内側には、カッターでつけたであろうリストカットの傷跡がいくつも走っていた。
「蜉ゥ縺代‼︎ 縺企。倥>、蜉ゥ縺代‼︎」
もはや人語の様相を呈していない悲鳴。懇願。それらを押さえ込むように、幾重にも腕が群れて、重なり、女の魂を絡め取る。
「雖後?√>繧?=‼︎ 縺?d縺√≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ=縺ゅ=縺――‼︎」
耳にも体にも突き刺さるような悲鳴を最後に、女は腕の群れに千切られ、刻まれ、轢き潰されて、かき消えた。
「――……」
そして、静寂。
神田も上野も、ただみていることしかできなかった。
「……こっくりさんが、お姉さんを……あの彼氏から、救ってくれたってことですか……?」
「………………お前、夢でも見てたのか?」
上野は霊感がないため正確に全容を把握できず、神田は体力気力ともに限界だった。さらに上野は、自分に憑いたこっくりさんを無理やり従わせている。
今ここで事実を説明すれば、さらに憔悴するだろう。
「……まあ、今度、機会があれば説明してやるよ」
結局神田は自分の体力も限界だったため、問題を先送りする選択肢をした。
いずれ話さなければいけないかもしれないが、もう十二分に傷つき疲れ果てた男に追い討ちをかけてしまうほど、鬼ではないのだ。
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