第17話 きっとこいつは、大丈夫だ

 翌日は最悪のコンディションだった。朝は寝坊しかけて朝飯を食いっぱぐれるし、授業中は眠くて完全に意識が飛んでいた。今度誰かに頼んでノートを見せて貰うなりなんなりの救済措置が必要だと思う。今日の分は念入りに復習しないとマズいな……。

 

「せ、先輩……神田先輩……お疲れ様です……」

「お、おう、上野……いくか……」


 殆ど意識を飛ばした状態で昼間のタスクを終え、俺と同様フラフラになった上野と放課後合流する。まずは上野宅と廃墟間のルート確認と、移動時間の計測だ。


「廃墟は歩いて三〇分くらいです。自転車なら一〇分くらいですかね。多分ですけど、あのお化けって廃墟から僕の家に来てると思うんですよね。それで、三〇分くらいかけて廃墟から僕の家にたどり着く」

「話を聞く限り接点は廃墟だ。移動時間もだいたい合ってるし、化け物どもはセオリー通りに動く奴が多い。それを前提にして動こう。どうせ足音が三〇分間聞こえてくるのは間違いないんだ。どこから来ようと最大限引きつけて、足止めしておくに越したことはない。そのほうがアクシデントも避けられる」


 まず上野の家に行って、そこから廃墟へのルートを確認した。昨晩の公園を通り抜けて、駅の少し手前で曲がる。駅まで追いかけてきたことを考えると上野を最優先で追ってくるだろうから、ギリギリまで引きつけて鏡の破壊に向かったほうがいいだろう。

 

「昨日、トカゲ野郎に酒が効くのは確認済みだ。昨日の公園あたりで待ち伏せして、酒をぶっかけて足止めする。その間に鏡を壊すぞ。獲物を見つけた後の移動速度がネックではあるが、道に適宜酒を吹きかけることで障害物にする。半人前と素人のコンビだが、一応道具の準備に関しては合格を貰ってる。鏡を破壊するまでの時間稼ぎにはなるはずだ」

「さすが先輩……手慣れてますね……! 暴力沙汰になると水を得た魚のようです!」

「お前に酒は効かないが、かわりに酒瓶をお見舞いしてやってもいいんだぞ」

「ひぇ……」


 眠気でテンションがおかしいのか、上野に緊張感は見られない。強がっている可能性もあるが、どうだろうな。

 

「あ、先輩、アレです、アレ」


 上野が指さした廃墟は、俺がニュースで見ていた頃より老朽化が進んでいた。年数を考えれば順当だろう。やはりニュースで見たときより背丈の伸びた、枯れた草むらの中にぽつんと灰色の建物が鎮座している。扉はガラス押戸だが、鍵も扉も破壊されているので入りたい放題だ。廃墟になる前は小さな会社だったらしいが、なんの会社かは誰も覚えていない。ガラスこそ周囲に散乱しているし、厳密に言うと崩壊の危険性もあるので小学生なんかは口を酸っぱくして近寄るなと言われるのだが、子供の冒険心を満たすのに非常におあつらえ向きの作りをしていた。フェンスとかで囲ったほうが良いと思うが、それすら惜しいのだろう。敷地を囲う黄色い鎖と立ち入り禁止の看板は、やんちゃしたい子供が入れ食いになる優秀な釣り餌だった。昼から夕方くらいは小中学生が木の棒を振り回して走り回るのだが、夜になると高校生から大学生あたりの連中が煙をまき散らすので、周囲の家は不審火を警戒してピリピリしているというわけだ。流石に例の殺人事件以降は曰く付き物件扱いなので、多少人足が遠のいたと聞いている。ただし誤差の範囲だ。しかも足が遠のいたのは木の棒を振り回す平和なタイプの連中が大半で、不審火の原因になりそうな奴らは気にせず寄ってくるというから地域住民はさぞ頭が痛いだろう。

 

「俺が先に見てくるから、お前は外で待ってろ」

「は、はい」


 見たかぎり妙な気配はないが、トカゲの化け物と上野がここで鉢合わせなんて事態は避けたいからな。割れたガラス扉を跨いで中に入ると、スニーカーがガラスの破片を踏んでジャリッ、という音がした。

 人の気配はない。放課後ここで遊んでたクソガキはもう家に帰ったのかもしれない。社会の不良債権がたむろするのは日が落ちてからだしな。かといって今日たむろされるのも邪魔だな。さすがに十二時になったらどっかに寝に帰るだろうか。というか前々から疑問だったんだが、こういう場所にたむろする不良債権はどこから来て何時頃どこに消えるのだろう。

 

「あれが鏡か」


 ケガをしないように慎重に扉を跨いで顔をあげると、すぐに鏡を見つけることができた。壁に埋め込まれた大きな鏡で、掠れているものの、右下に社名のようなものが入っている。杜撰な環境に置かれているにもかかわらず、ドアと違ってヒビひとつ入っていないのが不気味だった。見かけはなんの変哲もない鏡なのに、鳥肌が立つほど悍ましい気配が漂っている。トカゲの本体はこいつで間違いなさそうだ。

 化け物の姿は見当たらない。じゃあ昼間はどこにいるんだという話になるのだが、化け物なんてそんなものだ。連中は物理法則が通用しないので、つねに質量を保存しているとは限らない。上野の左肩にいる糞虫も千手観音モードになるのはテーブルターニングやってる時だけだしな。トカゲ野郎も上野にお百度参りする時以外はそもそも出現してすらしていないんだろう。ターゲットに目を付けたら餌に食いつく時以外どこ探してもいないとか、自己中心的で現実に唾吐きかけるような怪異連中にはよくある話だ。舐め腐りやがって。

 

「先輩なんでちょっと怒ってるんですか?」

「ちょっと考え事してたら腹立ってただけだ。トカゲ野郎はいないからお前も入っていいぞ」

「めちゃくちゃ血の気が多い……」


 上野もビクビクしながら建物の中に入ってきた。ガラス扉を跨ぐ仕草が俺より手慣れてるので多分常習犯だ。所作に反社会的な臭いが染みついている。

 

「先輩、今凄く失礼なこと考えませんでした?」

「気のせいだろ」

「そうかなぁ……」


 上野が仕切りに首を傾げている。俺は話題を変えることにした。

 

「しかし、思ったよりデカいし保存状態もやけに良いな。金槌で壊せるのか? コレ」


「一応金槌二本持ってきましたけど、試してみます?」


「いや、ここで壊して、化け物を退治する手段がなくなったら最悪だ。ぶっつけ本番でいく」


「手違いがあったら困りますもんね……」


 必要な道具は俺が全部リュックにまとめて持ち歩くことにして、ひとまず解散した。次は上野宅前に十一時集合だ。俺も酒と札を持って行くために一旦家に帰らないといけない。清める酒は恵比寿商店で融通してくれる手筈になっていた。清めも札作りもそこでやらせてもらえる。修行の一環なんだそうだ。今までずっとそうして世話になっていたから、出世払いでもなんでも、いつか店に金を落とさないとな。

 道具の準備ができたらまた出かける。面倒くせぇな。荷物まとめたらゲーセンで暇つぶしでもしようかな。

 

(しかし……上野の奴、昨日の今日で大丈夫かね)


 昨日はトカゲ野郎の正体を知って参っていたようだった。よりによって懐いてたメンヘラとその彼氏の合体事故ってオチだからな。精神的ダメージはかなり大きい筈だが、俺が見る限り落ち込んでいる様子は見られない。それこそ会ったばかりの俺の所感なんぞなんの役にも立ちはしないのだが、無理をしているんじゃなかろうか。

 今日の作戦も、自分で言い出しておいてなんだが、かなり綱渡りだし、不確定要素が多い。そもそも情報提供者が悪意ある糞腕虫なのが最大の不安要素だ。あえて情報にミスリードを含ませている可能性は多分にある。そのための事前確認ではあるし、事前にセンセイにも相談しているが……嫌な予感がする。昨日からずっと不安が拭いきれない。

 除霊の真似事を何度かやってる俺でさえこれなんだ。当事者である上野の不安はどれほどだろうか。

 俺も霊障で悩んでいた時期があるから、今のあいつを他人とは思えない。化け物に殺されそうになってるなんて、普通誰にも相談できないからな。俺はセンセイに助けてもらった。今度は俺が助ける番だ。

 どんなに不安だろうと、やるしかない。

 

 俺は準備のため恵比寿商店に向かい、そしてその足でゲーセンに向かった。

 備え付けのベンチでぼーっとするか、メダルゲームで時間潰すかの二択になりがちなんだが、ベンチでぼーっとしてると浮くから、何回かはメダルゲームをやることにしてる。メダルゲーム、メダルあればタダだし、時間が無限に消えるからな。ゲームやってると余計なこと考えなくてすむし、リラックスできる。今夜は失敗が許されないので、いつも通りに過ごして、なるべく肩の力を抜いておきたい。

 

 結局一〇時ギリギリまでゲーセンで時間を潰して、家から持ってきた食パンを腹に詰め込みながら上野の家へ向かった。

 上野が家から出てきたのは、一〇時五五分。玄関に鍵をかけてから俺に小さく頭を下げた。

 

「こんばんは、先輩」


「ああ、よろしく」


 やっぱりどこか緊張しているようだ。まあ、そうだよな。こいつにとっては生きるか死ぬかだもんな。

 俺は視線を上野の顔から左肩に移した。相変わらず腐れ腕ゴミが鎮座していたので、見えるかどうかはわからないが思い切り睨み付けてやる。

 

「妙なことしやがったらぶっ殺すからな」


 もう死んでたとしても殺すし、死ななくても殺す。

 決意を込めて吐き捨てるとなぜか上野まで怯えていた。お前には言ってねぇよ。


「廃墟までは自転車で大丈夫ですか?」

「歩いてたら追いつかれるだろうからな。二ケツ頼むぞ。俺酒撒かないといけねぇから」

「うぅ……体力勝負だ……」


昨日話を聞くのに使った公園へ向かう。あそこなら待ち伏せするのにちょうど良いからな。三〇分ほど余裕があるので、再度段取りと荷物の再確認、自転車の点検をして待つ。清めた一五〇ミリの酒瓶が四本と、札が三〇枚。全部恵比寿商店で融通してもらって、恵比寿商店で作業させてもらったから、本当に頭が上がらない。


「先輩それ買ってくれたんですか!? すいません、後でお金払いますね……!」

「いや、恵比寿商店で融通してもらってんだよ。今までもお世話になってる。俺の訓練の一環だからお前は気にするな」

「いや、でもこんな危ないことしてもらって申し訳ないんで! 何かお礼させてください!」

「……なら後でなんか飯奢れよ」

「もちろん喜んで! お金ないんでサイゼでいいですか!?」

「順当に一番安いやつ選ぶじゃん。いいよ、後でサイゼな」

「感謝の気持ちを込めてサイドメニューおつけしますね!」

「店員かな?」


 札をズボンやらシャツのポケットに突っ込んでいると、上野が「ゴーストスイーパーですね!」と喜んだ。呑気なのか呑気に見せかけているのか、付き合いの浅い俺ではわからない。気がつけば時計は十一時三〇分を示し、遠くから裸足の足音が聞こえてきた。


 ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた

 ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た

 ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た


 音がどんどん近づいてくる。これを三〇分間聴き続けるのはなかなかにキツい。今日だけでもキツいのに、上野はこれを何日も聞き続けているのだから恐れ入る。しかもあいつの場合、これは自分の命を狙う足音だ。

 

 ぺ   た   ぺ   た   ぺ   た   ぺ   た   ぺ   た   ぺ   た   ぺ   た   ぺ   た   ぺ   た


 曲がり角、地面から二〇センチほどの位置に影が現れた。ぬるり、と嫌悪感を煽る滑らかな動きで顔を出した化け物は、やはり腐った肉の塊に、人間の手足をとってつけたような形をしている。出来が悪い上に悪趣味な、いいところが一つも見受けられないトカゲのオブジェだ。そいつは二本の足と二本の手で大地を踏み締め、溶けたチーズみたいな赤黒い糸を引きながらこちらに近づいてくる。


「きょおすけくーん、こっちだよー。いっしょにあそぼうー」


 は?


 今こいつ喋ったか?

 生意気にも人語を喋りやがったのか? 女のものらしいちょっと色のついた口がパクパクと動いている。そこからでた声が、バケモノとは思えないくらい流暢な人語だった。


「あ……お、お姉さ……」


 おそらく上野が懐いていたメンヘラ女の声なのだろう。上野が明らかに動揺している。感情というものが介在しない、恐ろしいほどの棒読みなのに、あいつは知り合いの声だというだけで酷く動揺してしまった。

 ゴミトカゲもそれが狙いなのだろう。どうやったかは知らないが、小賢しい真似をしやがる。ふざけやがって、何様のつもりだ? なんだお前。何考えてんだ。

 

 はぁ?

 

 はぁ????


「調子こいてんじゃねぇぞこのクソトカゲ野郎が!」


 バリン――!


 俺は怒りに任せて、酒瓶で化け物の頭をぶん殴ってしまった。お前のせいで俺の酒が一五〇ミリほど無駄になったぞゴミ野郎が。


「ギャ、蛾ャ亞痾ァアアァアァ婀痾ァアアァ痾亞婀鈳錏ァアア――!」


 男と女の声が混ざったような、聞き苦しい悲鳴が聞こえた。頭に直撃してガラス瓶が割れたのに血のひとつも出やがらねぇが、酒を浴びて苦しいんでるようだ。これで人語を真似る余裕なんざなくなっただろう。化け物は化け物らしくうめき声だけ出してりゃいいんだクソが。


「行くぞ上野!」

「あっ、あ、あの、でも……」

「時間がねぇんだ早くしろ!」


 上野の背中を押して、自転車に乗せる。俺は荷台に飛び乗って次の酒瓶を取り出した。一本クソトカゲのせいで無駄にしちまったからな。公害野郎め。すぐに落し前つけさせてやる。泣き喚きながら地獄に堕ちるとこ見て指さしてゲラゲラ笑ってやるからな。ぶっ殺してやる。絶対にだ。


「蛾ャ亞痾ァアアァアァ婀痾ァアアァ痾亞婀鈳錏ァアア――!」

 

 化け物はまだ苦しんでいた。まだ苦しみ方が足りねぇ。もっと苦しめ。そんで死ね。

 吠える化け物をチラチラと気にしつつ、自転車に跨った上野はぐずぐずと鼻を鳴らしていた。


「せ、先輩っ、そのお酒……お、お姉さんが、辛いみたいなんです……! なるべくかけないであげてください……!」

「あ゙ぁ゙⁉︎」


 どうやら上野はあの声にすっかり騙されてしまったらしい。俺がひと睨みするとノロノロと自転車を漕ぎ始めたが、いつまでも化け物の方を気にしている。クソッタレが。無理して平気な顔してるからだ。一気にガタガタじゃねぇか。

 ただ、目を覚まさなければ、こいつが死んでしまう。


「あいつはもう死んでる! ただの化け物だ!」


 化け物がこちらを見た。動き始めたものの、先ほどより鈍い。生きてる人間を騙して追い詰める化け物。こいつのせいで生きてる人間が苦しんでいるし泣いている。クソ野郎が。

 絶対こいつの思い通りになんてさせてたまるか。

 

「ここにいるのは化け物だけだ! お前の大切な人も、お前が殺した男もいない!」


 自転車の後輪を足で叩いて、走るように促す。やっと上野が動き始めた。けれど、まだ鼻を鳴らしている。涙を袖で乱暴に拭うのが見えた。指摘するほど鬼じゃない。


「何を言われようと、どんな声だろうと耳を貸すな!」


 こいつは徹頭徹尾、誰かに騙されていただけだ。あの廃墟でお姉さんとやらと出会ってから、ずっとだ。

 上野は悪くない。悪くあってたまるか。

 悪いのは、世間知らずのガキを、心の弱い奴を、自分のために都合よく利用しようとする奴だ。唾棄すべき害虫。生きてる人間を利用しようとする寄生虫ども。死んだくせに現世にしがみつくガムのゴミみてぇな連中が全部悪い。ゴミならゴミらしく焼却処分されてりゃいいものを道端にへばりつきやがって。

 とっとと消え失せろ公害爬虫類め……!

 俺は酒瓶の蓋を外して、あいつと俺たちの間に酒で境界線を作る。ただでさえ弱っているんだ。こんな簡単な結界でも、乗り越えるのは辛いだろう。害虫め。せいぜい無様にのたうち回って苦しみやがれ。

 上野の目が揺れていた。けれど、足は止まらない。きちんと自転車のペダルを漕いでる。前に進んでいる。


「きょうすけくぅ――ン! きょおすけくんまでぇ――! おねえさんのこコロそうとしてるのぉおぉお⁉︎ いたい――! いたいよぉ――! いたいよおぉオォああァアアァァあぁああぁあああたスけて、たすけてよぉおおぉおお――!」


「死ね」


 ほぼ無意識だった。俺は無意識に酒を撒く。投げつけると言ったほうが正しいか。俺のを手を離れた酒が真っ直ぐな軌道を描いて腐肉の顔部分に当たる。


「虚許境キョ傴スケ苦ゥン――! キョウスケ栩ンマデェエェ――! ォオ悪峯ネねネォ姉サン篦ノノコトコココ蠱髏蠱髏タスタスタス咫咫咫咫咫――!」


 腹が立ちすぎると人間思考を放棄するんだな。良い経験になった。今後に活かそうと思う。腹立って雑魚を踏み潰しても、記憶がなかったら全然スッキリしないもんな。


「おい上野急げ! なるべく引き離すぞ!」

「うっ……はっ、はいっ……!」


 自転車のスピードが上がる。俺はまた酒を撒いて、道路に化け物避けの境界線を引いた。案の定、トカゲ野郎はオウムより下手くそな人語のモノマネで何ごとか叫びながらのたうち回っている。

 自転車なら廃墟までは一〇分程度だ。その一〇分が、化け物に追われながらだととても長く感じる。道路に撒かれた酒に当たる度、トカゲ野郎が足止めされるのでそれなりに引き離したとは思う。

 幸い、今日は廃墟に不良どもはいなかった。それかもう帰ったのかもしれない。時間は十二時を回っていた。

 上野が自転車を道路脇に乗り捨て廃墟へと入って行った。俺も後を追う。リュックから金槌を二本取り出して、片方を上野に押し付けた。事前に酒を吹きかけておいた金槌だ。ついでに三本目の酒瓶を取り出し、直接廃墟の入り口に酒を撒く。


「これで少しは時間を稼げる! 早く鏡をぶっ壊すぞ!」


 鏡は相変わらず廃墟にそぐわないほど小綺麗で、夜中に見るとより一層不気味に思えた。

 まず上野が金槌を振りかぶり、鏡に叩きつける。


 ガキンッ!


「うわっ!」


 甲高い音と共に、上野が弾き飛ばされた。清めた酒をかけた金槌でもダメか。長期戦になりそうだな。札もダメだろうか?

 試しに俺の金槌に札を巻きつけてみる。どうにかなる気は全くしなかった。


 ガキンッ!


「くそっ!」


 やはり結果は同じだ。ふたり同時にやっても結果は変わらない。悲鳴のような金属音が響き渡るだけで、鏡にはヒビ一つ入らなかった。


「なるほど、こういう妨害か……!」


 本当に小賢しい真似しやがる。こいつさえ壊してしまえば勝てるってのに……!


「なんとしてでも壊すぞ上野!」

「はっ、はい……!」


 おそらく廃墟の入り口まで来たであろう化け物の、うめく声が聞こえてくる。男の喚き声と女の叫び声が混ざって、聞くに耐えない騒音だ。


「ナンで无ン出喃デナンデェェエェエェェ穢獲ェ! 軟デ堕列ダレだれモまゆヲあいして吼レ薙違ナイナイナイナンデダレモまゆヲアイシテクレナイ薙違ィィ違ィ! ミンナニミンナニ瞰ンナ瓊ヤサ易埜左ヤサ四苦叔使駆シテ窶埜ニミンナニヤサシクシテルノ二ィイィ威萎ィィイィィ! 意地悪萎璽倭嚠イジワルいじわるぅウゥゥウ傴膿ゥ! 怪麕啓皹ケークン埜箏ハナサナイハナサナイ離サ薙ィ骸カラカラカラ骸骸骸ケークンハサナナイカラァ痾ァ!」

「屍ネ錙褹死ネシネ死褹錙祢苦疎怨勿苦疎怨勿クソオンナ負眞穢オマエお前ノセイデォ前篦醒セイセイ棲シネクソ女オ前ノセイデェ穢ェェエェェ!」


 呻き声が口論の様相を呈してきた。やはり生前から自己中だったらしいな。上野は、お姉さんとやらのクズな部分は見た事がなかったらしく、心底驚いているようだ。


「上野! 手を止めるな!」

「はっ、はいっ!」


 しかし何度金槌を打ちつけても鏡はびくともしない。このまま続けていても埒が明かないんじゃないか? 他の方法を考えた方がいい。

 だけど、これ以上何をすればいいんだ……?


 廃墟の入り口あたりでウロウロしているトカゲは撒いてある酒に触れる度暴れ回っていて、水もないのに腐った水のような臭いがここにまで充満してきていた。奴が好き勝手なことを叫んで暴れる度に、ビチャビチャグチャグチャと水気を多分に含んだ音が鳴り響いている。あの腐った肉が、清めた酒の影響でさらに腐食しているのかもしれない。


「羌キョウキョウ況キョウきょうすけくんなんでいうことがきけないのおおお! わるいこ! わるいこぉっ! だいっきらい! だいっきらいィっ! これだからがきなんかだいっきらあああああァいっ!」


「このっ……!」


 こっちが鏡から手が離せねぇと思って調子に乗りやがって、また上野に揺さぶりかけるつもりか性悪クソゴミトカゲめ。どうやって痛めつけてやればマトモな感覚を身につけやがるんだ歩く公害野郎が。


「おい上野、お前しばらくひとりで鏡殴ってられるか?」


 上野にこれ以上あの化け物のヒトマネを聞かせないほうがいいだろう。多少タイムロスだが、多めに酒をかけてオウム以下の猿真似なんぞする余裕を奪ってやる。リュックから酒瓶を取り出して上野に尋ねた。が、返事がない。

 もしやそんなに余裕がないのか? 俺の想像以上に、精神にダメージがいったのかもしれない。今心が折れたら命が危ない。その時は殴ってでも正気に戻さなければ。

 

「おい……!」

 

 上野の方を見ると、金槌を持ったまま目を瞑っている。

 余裕がない、というのとは少し違う気がした。雰囲気が凪いでいる。奴は一度深呼吸をして、金槌を握り締め、そして俺の方に視線を向けた。


「先輩、大丈夫です。僕、なんとか鏡を割ってみます」


 まっすぐな目だ。揺れていないし、涙も引っ込んでいる。さっきまで半泣きだったのが嘘のようだ。


「僕がもたついたせいで時間がないです。先輩――危険ですけど、あの化け物を、足止めしてくれますか?」


 トカゲ野郎が顔見知りの幽霊だと知ってから、上野は奴を化け物とは呼んでいなかったように思う。

 きっと、踏ん切りがついたのだろう。あのトカゲを、化け物として切り捨てることにした。半泣きで俺に言われるまま自転車を漕いでいた時とは違う、明確な意思と決意がそこにあった。

 綺麗な思い出は砕け散っただろうが、でも、もう心配いらないだろう。


「方法はあるのか?」


 俺が尋ねると、上野が一〇円玉を取り出してにっこりと笑った。こんな満面の笑みを見たのは、こいつに会ってから初めてな気がする。


「先輩に教えてもらった通り、僕もやってみます。本当のテーブルターニング」


 きっとこいつは、大丈夫だ。

 

「任せたぞ」

「はい!」


 力強い返答を背に受けて走り出す。なにか策があるのだろう。俺もちょうどゲロトカゲをぶん殴ってやりたかったところだ。持っていた酒瓶の中身を口に含んで、握った拳に吹きかける。これで殴ると化け物どもによく効くんだ。どうしても始末したいけど図太いクソ野郎がいた場合、俺はこうやって直接ぶん殴ることにしている。今まで失敗したことはない。失敗したら今頃生きてないからな。


「テメェは絶対殺す」

 

 酒の境界線を飛び越えて、化け物の目の前に踏み込む。

 腰を思い切り捻って上半身だけ横を向く。首から上は獲物からそらさない。肘は直角に曲げたまま、斜め下に照準。

 

 この化け物、なんにもいいところがないと思ってたが、頭が下にあるのは長所だな。思い切り殴りやすい。

 

「死ねッ! 肥溜めハ虫類ッ!」


 体重をかけて殴りつける。昨日からの恨みつらみを全部拳に込めて振り下ろした。酒に触ってのたうち回っている腐肉に拳をめり込ませる。

 見かけ通り腐っているらしい肉は、俺が殴った途端ブシュリと音を立てて赤黒い水が周囲に飛び散った。感触もブヨブヨのゴムを殴ったようで気持ちが悪い。

 

「繧ョ繝」繧「繧。繧「繧「繧。繧「逞帙ッ!! >逞帙>逞帙>逞帙>逞帙>逞帙>繧」繧、繧」繧!!」


「徹頭徹尾見苦しい野郎だなテメェは」


 トカゲのまき散らした汚水は、生ゴミのような臭いがする上にドロッとしている。油の塊のような粘度だ。触りたくない。あの汚水の詰まった腐肉も出来れば触りたくないが、殴ったほうがダメージは与えられるんだから我慢するしかないか。境界線に触れたときはまだ人語を真似しようとする余裕があったのに、今は理解不明な雄叫びを上げるばかりなのが少しいい気味だった。

 

「縺ヲ繧√繧医繧ゅd縺」縺ヲ縺上l縺溘! 谿コ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺ョコ!」


「ははっ! なに言ってっかわかんねぇよバァーカ!」


 ゴツい指輪をつけた前足(手)が俺に掴みかかってくる。姿勢が低いので必然俺の足を狙った攻撃だ。バックステップで"結界"の中に避難する。腕だけなら酒の境界線を越えられるようだ。酒に触れなければ大丈夫ってことなんだろうか。

 下の腕で無理なことがわかると、今度は背中に生えていた生白い手が顔側面まで移動してきて、俺の首に掴みかかってきた。

 

「気色悪ぃんだよ、触んな!」

 

 両拳で腕を挟み込むように殴りつける。何度か繰り返すと、パキッと音がしてトカゲが後退した。生っ白い腕がブラブラ揺れているので、骨が折れたんだろう。

 

「生前のリスカが骨までイッちまってんのか? 枯れ枝折った時のほうがまだマシな音するぞ!」


「菴輔h繧ッ繧ス繧ャ繧ュ險ア縺輔↑縺險ア縺輔↑縺險ア縺輔↑縺! 谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺驍ェ鬲斐繧九↑!!」


「五月蠅ぇわめくな大人しく死ねッ!」


 頭であろう部分を殴ると、また赤黒い汚水が飛び散って俺の服を汚す。生ゴミの臭いが酷くなった。汚れも臭いも残ったらどうしてくれんだクソッタレハ虫類め。クリーニング代と慰謝料寄こせ。

 

「谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺谿コ縺!」


 化け物が怒り狂ったように暴れて、床に撒かれた酒に触れる度、腐肉が煙を立てている。焼けてんのか? なんで? 奴がもがく度ビチャビチャグチョグチョと嫌な音がする。全身から赤黒い液体とチーズみたいな糸が飛び散り、生ゴミと腐った水の臭いがどんどん強くなっていく。

 冗談抜きで吐き気がしてきた。

 

(そういやこいつ、どうやって酒の境界線越えたんだ?)


 今のところ、多めに酒を撒いた境界線を化け物が越える様子はない。奴は廃墟の入り口付近をウロウロして、体液を周囲にまき散らしているだけだ。境界を越えようとする度に藻掻いてうめき声をあげ、その度体液をまき散らしている。

 

(もしかしてわざとか? アレ)

 

 酒が撒かれて色の変わった地面の上に、奴の汚物がぶちまけられる。赤黒い色に変わった場所は、あいつが触れても変化がないようだった。


「クソ野郎が……!」

 

 結界を不浄で上書きしてやがる。

 つまりこのあたりが奴の体液塗れになれば、境界線を乗り越えられるわけだ。今までの境界もそうして乗り越えてきたんだろう。ということは、道はこいつの汚物だらけか。

 

「マジで気色悪ぃなテメェ。ゲロ吐きながら歩くんじゃねぇよ公害トカゲ」

「驍ェ鬲斐繧九↑驍ェ鬲斐繧九↑驍ェ鬲斐繧九↑驍ェ鬲斐繧九↑驍ェ鬲斐繧九↑驍ェ鬲斐繧九↑驍ェ鬲斐繧九↑!」


 汚物の上に酒をかけてやると、ハ虫類が怒り狂ったように身もだえる。汚物からは白い煙が立ち上っていて、それがあまりにも臭かった。ドロドロのゲロが臭いだけならまだ我慢できるんだが、気体になって周囲に充満するのはマジで気持ち悪い。酸素が薄くなったような気分だ。息苦しくて変な汗が出てくる。目眩がしてきた。穢れが充満しているせいだ。こいつの汚物が――

 

「繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ!」


 化け物が呻く。呻く? 違うな。見間違いでなければ、口が二つとも笑っている。歯を見せて下品に声を上げて笑っているのだ。

 もう一発殴ってやろうと思って足を踏み出し、俺は自分の体が大きく傾くのを自覚した。

 

「あ?」


 片膝を地面に突く。目が回る。吐き気がする。

 ヤバい。なんで早く気づかなかったんだ。こんな化け物の撒き散らす体液も煙もマトモなわけがない。穢れの塊だ。人間が触っていいもんじゃない。

 あいつの汚物が酒で蒸発する時気体になって、希釈された代わりにこっちまで流れてきたんだろう。臭いも体液も穢れだ。吸い込むのも服にかかるのもダメに決まってる。

 クソ野郎が、一丁前に罠なんざはりやがって……!

 

(いや、本体じゃないからって舐めてたんだ。俺のミスだ)


 半人前の俺ではあるが、酒も札もセンセイには合格を貰ってる。それでも俺自身はまだ修行中の身だし、一応お祓いの真似事ができるってだけだ。敵わないと思ったら逃げなきゃいけないし、よっぽどの雑魚でもない限り、何か行動を起こす時はセンセイに相談するように言われている。


 俺は半人前だから。本来なら人の命を預かるような真似はしちゃいけないし、少しでも危ないと判断したら化け物に喧嘩を売っちゃいけない。

 

 だからってごめんなさい俺が間違ってましたとはならねぇけど。

 

「繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ繧イ繝ゥ!」


 化け物が笑い声なんだか鳴き声なんだかわからねぇ雄叫びを上げた。身震いした腐肉から赤黒い吐瀉物がまき散らされて、糸を引きながら地面に落ちる。そのネバついたゲロの上を、トカゲ野郎が歩いてきた。酒の境界線を乗り越えてくる。

 俺はまだ上手く動けない。

 それどころか、さっきのゲロが腕にかかって焼けるように痛かった。酸でも被ったみてぇだ。くそ野郎が。諦めてたまるか。人間舐めんな。目に物見せてやる。


「汚物トカゲが……」


 三本目の酒瓶をひっくり返して、俺の背後に酒を撒く。酒はあと一本だ。その酒瓶を逆さに持って握りしめる。札の方はまだまだあるからな。酒はここで使い切っても問題ない。

 

「縺弱c縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺!」

「うるせぇ死ねっ!」


 バリンッ――!


 襲いかかってくる化け物を酒瓶で殴り飛ばしてやった。酒とガラスが飛び散り、悲鳴を上げたクソトカゲがのたうちまわる。臭ぇな、呼吸するんじゃねぇよ。息してんのか知らねぇけど。


「このクソがっ!」


 割れた酒瓶の尖った部分をトカゲの顔に振り下ろしてやる。体液が撒き散らされて鬱陶しいし眩暈がするが、構ってられるか。絶対殺してやる。今ここでこのトカゲを仕留めてやる。逃してたまるか。後悔させてやる。泣いて謝っても許してやらねぇ。死ね。今ここで死ね。


 何度も酒瓶を振り下ろすうちに、奴の顔面から体液がとめどなく溢れ出して止まらなくなった。背中に生えた腕がビクビクと痙攣している。口がふたつとも金魚みてぇにぱくぱく動いた。無様な野郎だ。なんでまだ動いてんだ。もう酒瓶は穢れの体液まみれでシュウシュウと煙をたたている。トカゲの顔は色の悪いミンチみてぇになっていた。まだ足りねぇな。もう一息か?

 酒瓶を奴の顔に突き刺すと、だいぶ柔らかくなっていたおかげで深く刺さって抜けなくなった。投げ捨てるのも危ないし勿体無かったのでちょうどいい。これは褒めてやってもいいな。


「テメェみてぇな化け物でも首絞められたら苦しいのか?」

 

 馬乗りになって腐肉の首を掴む。絞め殺すつもりで力を込めると、奴のゴツい方の手も俺の首を掴んだ。

 面白れぇ。確かに俺は半人前だが、ミンチトカゲに殺されるほど弱いつもりはねぇぞ。

 

「良い度胸だクソトカゲ野郎! 絞め殺してやるよ! 覚悟しろコラァッ!」

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