第9話 このままじゃお前死ぬぞ
「ケケッ、ケ痂痂痂痂ッ」
「戯喇ゲら戯喇ゲ喇戯ラ偈喇」
階段の縁あたりに大小さまざまな口がずらりと並んでいる。歯を剥き出しにして下品に笑い声をあげているが、奴らの笑い声が聞こえるのは俺だけだ。
聞くだけで悪意があると分かる笑い声を響かせて、奴らは小走りに階段を降りる女子生徒の足に噛みついた。
「あっ」
階段の縁、つまり地面に口がついているのだから、そいつが人の足を噛むというのはつまり、足首までがすっぽり気色の悪い口の中に入るということだ。気の毒な女子生徒は階段を踏み外したような錯覚に囚われ、そのままバランスを崩して転げ落ちる筈だった。
俺が彼女の腕を掴んだので、女子生徒は体を傾けたまま、目を白黒させるに止まったが。
「新入生か? 気をつけろ。廊下は走るな」
「はっ、はい……ありがとうございます……あの、先輩ですよね……? お名前を、聞いてもいいですか?」
「二年の
「い、いえ! あの、神田先輩……ありがとうございました!」
女子生徒が俺に礼を言って頭を下げ、今度はソロソロと階段を降りていく。
足元で忌々しそうに歪んだ口が「チッ」と舌打ちをした。舌打ちしたいのはこっちだが、こんな人通りの多い場所で舌打ちしたら俺は白い目で見られてしまう。仕方がないので憎しみを込めて文字通りの口だけ野郎を靴底で思い切り踏みつけてやった。
「伽ッ! 伽ァァアあァァ吾ァ吾ッ!?」
口が叫ぶ。吸い殻の火を消すかの如くかかとで入念に踏みつけてやった。
「祓清祓清」
くたばれという俺の気持ちをブーケにして送りつけて窒息させてやろうと思ったら口だけ野郎が消えた。出会って数秒の出来事だ。さすが出会いと別れの季節だな。もう二度と会うこともないだろう。
今日は四月の初登校日だ。つまり高校一年の、今まで中坊だった連中が目をキラキラさせて校舎にやってくる。連中はやたらと浮き足立っているので、さっきみたいな事故は多い。大半は性悪幽霊の仕業だ。楽しそうにしている奴らがクズ幽霊のせいで怪我をするのも業腹なので、俺もできる限り偶然を装ったりして助けているというわけだ。
俺は帰宅部なのでそれ以外の用事は特にないが、部活に所属している奴はそうもいかない。学校のあちこちでは、放課後だというのに部活勧誘の連中が忙しそうに声を張り上げていた。
(いや、放課後だからこそか)
昼間に部活勧誘をする連中は殆どいない。四月は部活勧誘の最盛期だ。むしろここでの成果が今後一年の命運を分けると言ってもいいから、みんな必死なんだろう。俺はそんな奴らを尻目に悠々と校舎を後にする。今日もゲーセンにでも寄るか。
どこか羨ましげな同級生の視線を受け流し、校門を抜けようとして足を止める。
ゾ ワ ッ
背中に虫が這いずるような、全身の毛が逆立つような感触がしたのだ。
背中に違和感はない。ただ強烈な不快感が虫の這いずる様を連想させただけで、理由はハッキリしている。異様な気配の大元は背中のもっと先にある。
「ねぇねぇ、君、写真部入らない? 備品豊富だから、自費で機材用意しなくても大丈夫だよ!」
(とか言ってお前結局自費で買ってただろ)
クラスメイトが部活勧誘に勤しんでいた。全く同じ口説き文句に応じて写真部に入り、一年目の夏休みにバイトをアホほど入れて一眼レフカメラを買った女だ。つまりあいつの勧誘文句には全く説得力というものがないのだが、勧誘されている新入生にそんなことがわかるはずもない。
「い、いえ、あの、すいません、もう入りたい部活が決まっていて……」
俺の感じた異様な気配は、その新入生から発せられていた。正確には奴の左肩と、その奥か。
猫背でペコペコと頭を下げる男の顔からは生気が感じられない。あまりにも気色の悪い雰囲気に、自然と眉間に皺が寄ってしまった。
これは、ただことじゃない。
「なあ」
だから、今すぐにでも逃げ出しそうなそいつに声をかけた。
「あ、神田くん」
先に反応したのはクラスメイトの方だった。新入生の方は一度派手に肩を揺らし、俺の視線の先を確認する。話しかけられているのが自分の方だと察すると、途端に俺の方にもペコペコと頭を下げ始めた。
「えっとっ、すいません! 僕、あの、もう入りたい部活決まってるので! それじゃあ!」
「あ」
バタバタと騒がしい足音と共に新入生が去っていく。
「神田くん、部活入ってないのにね」
というクラスメイトに曖昧な返事をして、俺は一瞬追いかけるかどうか迷った。
人と話すのはあまり得意じゃない。周囲にはきっととっつきにくい人間だと思われているだろう。
けれど、あの男は。
一度意識してしまうと、遠目からでもおぞましい雰囲気を発しているのがわかる。
随分引き離されてしまったが、追いかけるのは簡単そうだ。
用事があるのは、良いことだし。
そう結論づけて、俺は今日初めて会った新入生の後を追うことにした。
新入生が向かったのはオカルト同好会の部室だ。この高校にオカルト名門校という不名誉な称号を与えた元凶。新入生は、俺が追いついた頃には部室内に一礼して部屋から出てくるところだった。おそらく入部届でも出していたんだろう。
ちょうど注意力散漫になっていたのを見計らい、腕を掴む。
男は目を見開いて、裏返った声を出した。
「えっ、な、なんで……!」
やっぱり生気が感じられない。心なしか顔色も悪いようだし、目の下に濃いクマがある。高校入学と同時にオカルト同好会へ入部するくらいだから自業自得の可能性は高いが、だからって放っておいて良いわけじゃない。
こいつは生きてる。死んでもこの世にしがみついてる、悪質なかまってちゃん連中とは違うんだ。
「このままじゃお前死ぬぞ。わかってんだろ」
男は目を見開いたまま固まって、しばらく俺の事を見つめていた。
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