第8話 今日も、近づいてきている

 夜の十二時を過ぎた。

 窓の外を見始めてから三〇分が経過している。そろそろつま先が冷えて痛くなってきた。左肩も痛い。

 窓の向こうはすっかり闇に沈んでいた。青い街灯の灯りだけがポツポツと道に浮かんでいて、火の玉みたいだ。部屋が二階にあるから、火の玉の行列がよく見えた。


 今日も、近づいてきている。


 ペタペタと裸足でフローリングを歩いているような妙な音が、窓の外から聞こえてくる。

 僕、上野恭介は三日前から怪異に悩まされていた。毎晩十一時三〇分を過ぎると、外からペタペタと音が聞こえてくる。それはどんどん近づいてきて、日に日に聞こえる時間が長くなっている――つまり、日に日に僕に近づいてきている。

 昨日は、家の近くまで来ていた。今日はどこまで近づいてくるんだろう。

 

 原因ははっきりしている。引越し当日、お化けが出るという噂の廃墟へ遊びに行ったせいだ。僕はもともとこの家で生まれて、小さい頃からその廃墟で遊んでいたから、懐かしくなって顔を出した。僕の家族は、小学二年頃から隣の県にある祖母の家で二世帯同居をしていたんだけど、祖母が亡くなって、さらに僕の入学する高校が生家に近かったので、また戻ってくることになったのだ。こっちの方が父の職場も近いし、ちょうど良いらしい。

 それで、今や幽霊が出るとか、入ると一週間以内に死ぬとか、僕が知っているのよりグレードアップした噂を引っ提げた廃墟に顔を出してから、この怪奇現象がずっと続いているのだった。

 

 ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた


 ああ、近づいてくる。妙な音。家の前まで来て、それから音が壁を這って、登って、窓のすぐそばまで……窓、まで。


 ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た


 今までは不思議と音だけで、姿は見えなかった。なのに今日は、近づいてくるにつれて姿が見えるようになってくる。

 ぼんやりとした像が、僕の部屋に近づいてくるにつれてハッキリとしてきた。

 窓の端に張り付いたソレが、僕の目にははっきりと見える。


  ベ タ ッ


 嫌な音を立てて窓の端に現れたのは、人の手だ。

 傷だらけでボロボロの、汚い手。爪は赤黒く変色していて、中指にゴツゴツとした指輪がついていた。肩の付け根あたりが腐ったみたいにドロドロで、かろうじてくっついているように見える。

 

 見覚えのある手だった。

 あの男の手。あの男がつけていた指輪。


「……」


 僕が声も出ないくらい驚いてグロテスクな手を凝視している間に、そいつは窓の端からさらに上に行こうと動き始める。張り付いていた手が赤黒い糸を引いて窓から離れ、元の位置より少し高い場所に張り付いた。別の手も溶けるチーズみたいな糸を引いて、ベタッと窓に張り付く。

 下からもう一つ、同じくらい汚い手が現れて、窓の端に取り付いた。何本あるんだろう、手。

 あんな汚くてドロドロの手に張り付かれたら窓が汚れそうなのに、不思議と何事もなかったみたいに綺麗だ。

 それからそいつはゆっくりと手を動かし、粘つく糸をひきなが体をくねらせ、窓を這い上ってくる。


 ベ タ ッ  ベ タ ッ  ベ タ ッ


 嫌な音がする。バケモノの全容があらわになり、そいつのせいで月明かりが遮られ、僕の部屋は真っ暗になった。

 窓いっぱいに張り付いたのは、人間のパーツで作ったトカゲみたいな、気色の悪いものだった。胴体のあたりは人間のパーツかすら怪しい。ただの肉の塊というか、ぐちゃぐちゃになった人間の胴体がさらに腐り落ちているような感じで、見間違いでなければ、それは微かに脈打っているというか、微動して、表面が波打っているように見えた。

 その波に合わせて、顔だろうあたりの肉塊が不自然に捩れ、目玉が一つこっちを覗き込んでくる。


 ガタガタガタッ ガタガタッ


 バンッ バンッ バンッ


 窓に張り付いている三本の腕とは別の、でも間違いなく人間の手が窓を乱暴に叩く。叩く度に赤黒い糸が、ガムのゴミみたいに窓と手の間をふわふわと舞っていた。

 敵意なのか殺意なのか、憎々しげに僕を睨みつける一つ目を、僕も睨み返すことしかできない。


 なんとかしないと、明日には部屋に入ってくるかもしれなかった。

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