在りしキミと出会うⅡ【C.C1795.02.24】

 余談だが、展望台に怒号と悲鳴が響き、新聞の一面を飾るのは、それから十数時間後のこと。

 それを気にする余地もないジェニスは風を切る頬を感触を楽しみながら、体を捻って仰向けになる。猛スピードで雲海の白に埋もれていく地平環の非現実感に、ポンチョを脱ぎ捨てながらあっははと狂ったような笑いを上げた。


 実際、狂ったのかもしれない。


 天球都市の縁からの転落による死亡事故の年間記録の平均は、一〇人前後。その大半は、航空局で働く下層民の一瞬の気の迷いが起こした自殺衝動によるものだ。単身地表へと降り立とうとする人類は、この世界に夢も希望も持たず絶望を抱えて墜落せんとする者だけ。


 そんな狂女の意志を反射する人工妖精によって、傍らまで追従したコフィンが変形を始める。伸びたアームを掴むと、それを伝って展開した脚部に脚を差し込む。そのまま上部を羽織るようにインナースーツに接続しようとする。しかし肩パーツの一部が空気抵抗に押されて展開しきず、片腕だけの接続となってバランスを崩す。瞬間、孵化不全を起こした蝶のように、丸まったフォルムのまま、オーレアンナが回転を始めた。


 回転の慣性に身を揺らしながら、雲海を突き抜けると、巨大な黄金の輝きがジェニスの前に飛び込できた。

 時刻環。落下の角度を適当にしたせいで、彼女は時刻環に向かって回転しながら激突しようとしていた。


 あぁ、まずい。


 呑気に宣う心中のジェニスとは裏腹に、脳の防衛本能が走馬灯を呼び起こす。


 思い起こされたのは、最初にラヴァルと出会った時だった。


 彼は、複数の大きな体の子供たちに囲まれていた。一人が羽交い絞めにして、もう一人が動けない彼の顔を容赦なく殴りつける。おかしく笑う子供たちに対して不快感はなく、その痛々しい様に、ただ純粋な疑問だけがあった。


 彼は誰に言われて、今、傷ついているのだろう。


 痛みは嫌いだ、少なくとも好きになるほど狂わなかった。誰だって、誰かの願いでもなければ、痛みを背負いたくなどないはずだ。


 しかしラヴァルは違った。彼は誰かのために、自分が傷つくことを厭わなかった。

 キミは誰に言われて、あの無法者と戦っていたんだい?


 誰でもねぇよ。と、彼は答えた。

 誰も動けねぇなら、俺がやるしかねぇだろ。

 そう言った彼が、照れくさそうに頬を掻いたのを、ジェニスは今でも覚えている。


 彼には、誰かの願いを見出して、叶えようとする力がある。それはおとぎ話に現れる英雄のようで……その日、彼女はラヴァル・ギールという英雄になりたいと願った。


 そんなラヴァルが、自分のもとを去る。

 彼が望むなら、仕方ないことだと言った。


 だが、セラノ・ラウスと……他の棺持ちと一緒にいると聞かされ、心臓の管一つ一つに鉛を下げたような気分になった。


 自分ではダメで、彼女なら良いというのだろうか。

 事情があるというなら、自分は無視されていいのか。

 そんな都合のいい弱さまで、我慢しなくてはいけないんだろうか。


 ガコンと重い音で、現実に引き戻される。それが辛うじて展開された竜音の音だと気付いたジェニスは、レバーを無理やり起こして、竜音の起動を念じる。


 爆光が彼女を包み、垂直に舞い上がる。

 展開し損ねた肩部パーツが、竜音の衝撃と、上昇によって展開を終える。


 赤い流線型のボディ。腕部のブレード振動が、空を裂いて震える感覚が、彼女の帰還を歓迎してる。少なくともジェニスには、そう感じていた。


 ジェニスは上への慣性を失い落下する前に、素早く位置確認を済ませると、目標地点へ向けて竜音をブーストさせる。


 彼女は知る由もないだろうが。

 その瞳には、あるはずのない火があった。


 他者を羨み、しかし他者を理解せず、否定する瞳。

 嫉妬を宿して、流星は地へと駆けた。

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