バベルとドラマツルギーⅣ【C.C1795.02.23】
「なんですか、これは」
「口伝によれば、バベルと呼ばれていたそうだ」
「バベル?」
頷く。そして膝の上に肘を突いて、前のめりにルイは語り始めた。
「彼らは新社会の成立、反乱、革命……あらゆる時代の転換期に現れるのだと、集落では言っていたよ。彼らはそれを忘れ去られた主の天啓と疑わず、敬意をもってこれを口伝していたわけだが……そんな彼らも、謎のリビルド災害を受けたのを見るに、『これ』はリビルドや天球都市の成り立ちに関わるすべての記録を抹消している節すらもあるだろう。集落の者たちは天啓を受け取る際、神を降ろしたかのような変貌を遂げるとも――」
ここまで話して、難しい表情をするラヴァルに気付いたルイは、顔を上げて愛想笑いをした。
「いや、すまない。ついつい熱くなってしまったな」
「いえ……。それより、その話とさっきの話に、なんか関係が?」
「時代の転換期には、必ず争いが生じ、そしてそれを先導する者たちが存在する。先導者……革命家とは、ざっくり言ってしまえば思想の体現者だ。バベルはその素養を人に与えて、旧体制の焼却を条件に力を与える」
「力……?」
「思いは力さ。エス構造群仮説によれば、感情は人類が自発する受動的エネルギーだからね」
ラヴァルはすぐさま、十日革命の言葉を連想させた。
神は死に、故に我ら神を殺すこと能わず。
今の企業連合は、当時は各天球都市の航空管制を担当する航空局の共同体だった。その代表である七つの局長は、コフィンを開発し、それによって七つの天球都市を支配するに至っている。そして王権を否定するこの言葉とともに、神の化身たる王を完全に否定することで神秘を否定に成功した。
「彼らは個人のエス構造群を操り、革命家をデザインしているんだよ」
魂を改変し、革命家をデザインする。
その静謐さに秘めた暴力的な文脈を察し、ラヴァルは閉口する。
「じゃあ、今天球都市を統治している七つの企業は……?」
「バベルと接触したのかもしれないね」
と言っても。と、ルイは小さく肩をすくめると、隣のクリスもまた、諦観めいたため息をついた。
「これにはなんの根拠もない。ただバベルの実在……それにデザインされた、革命家の素養を持つ人間を証明できれば、人の魂に影響を与える存在として、付属的にエス構造群の存在証明に繋がるはずだと、私は考えている」
ラヴァルは、考える。
もし、ジェニスが望みのままにその魂を変質できるとして、それにはやはりバベルという得体のしれない存在が関わっているのだろうか。
だとしたら、ジェニスはこの社会を破壊し、文化の発展を抑制する役目が課せられているはずだ。
ジェニスの穏やかな笑顔を……眩暈を起こしそうな微笑みを、思い浮かべる。
キミのため。キミの望むなら。
ルイの語る『革命家』の実態と、その疑いのあるジェニスの性格が、ラヴァルの中で符合しない。彼女はどう考えても自分の思想では動いておらず、むしろ他人と同調することこそを自身の本懐としている節がある。
ラヴァルは、一年前にジェニスが一人の女子生徒に呼び出されたことを思い出した。授業の終わりを待ち伏せされて、中庭まで呼び出された彼(この時はまだ『彼』だった)は、女子から渡された手紙を一通り読んだ後に、困惑してラヴァルに助けを求めたことがあったのだ。
当然、そんな態度を取った時点で女子生徒の幻滅を買い、彼女との関係はそれっきりなのだが、ラヴァルはその時に言われた言葉を思い出していた。
――彼女、どうしてほしかったのかな。
ラヴァルは思い返して、奥歯で苦虫を噛む。あの時から、今のジェニスの片鱗があった。
実のところ、自分はそこまで、ジェニスに偏見の眼差しを向けていたということだ。
ラヴァルの自虐は、コンコンと控えめに鳴ったドアの音で一旦遮られた。
「おや、珍しい」と、ルイはノックされたドアを見やるのを、隣のクリスが代わりに向かう。
来客の応対をするクリスの背中を眺めていたラヴァルは、彼の輪郭からはみ出た菫色の髪を見つけて勢いよく立ち上がった。
「ヨリィ……!」
入口で顔を伏せるヨランドに、クリスと交代する形で近づく。
なんでここに来たんだ。
訊こうとしたラヴァルの動いた左頬に、小さな拳が突き刺さった。
書類の海に身を投げ、うつぶせに倒れる。波打った飛沫のようにレポートが舞い上がる。
ヨランドは状況の理解の追いつかない彼の胸倉を掴んで引き起こし、無理やり立たせると、呆然と口を開けたルイとクリスを置き去りにして部屋を出た。
襟で首を絞められたまま引きずられたラヴァルは、研究室から大分離れたところで乱暴に彼女の手を引きはがす。
「な……っにしやが――!」
怒号を上げようとしたその口が、ヨランドを見据えて止まる。
ヨランドは、唇を震わせまいと固く結び、そのせいで鼻息を荒げながら、眼鏡のフレーム越しの潤んだ瞳で、ラヴァルを睨み返していた。
「ついてきて」
今にも泣きそうな表情に気圧されている間に、ヨランドは身を翻してそそくさと廊下を歩く。ラヴァルは慌てて彼女の怒りに揺れる後ろ髪を追った。
ラヴァルは先のやり取りを思い出す。心配してくれた彼女に対して、理不尽に激昂した自分を思い出して、胸中に嫌悪感と罪悪感が占めると、立ち止まってその背中に頭を下げた。
「悪かった、本当に。ついカッとなって……言い過ぎたよ」
「あんたのことなんて関係ない」
「嘘つけ」顔を上げて。
「俺が言ったこと、気にしてんだろ」
「関係ないって言ってんの! 黙ってついてくることもできないの!? クソアホボケラヴァル!」
振り向きざまの怒鳴り声に思わず上体を逸らす。廊下を震わせたその絶叫は、通りがかるか生徒たちをたじろがせるには十分だった。
それを憚らず、ヨランドはラヴァルに詰め寄った。
「ジェニスが眠ってたときからそう! 自分が一番不幸のどん底にいるんだって言いたげな顔して! そのくせ勝手に結論出して勝手に決めて……!」
「ヨリィ……」
「なにも知らないなんてあたりまえじゃない! なんにも言わないくせに、隠すのも下手くそなくせに! せめてちゃんと話しなさいよ!」
潤んだ瞳が、ラヴァルを射抜く。
ラヴァルは、自分のバカさ加減を悟り、頭を振った。
「あたしたち、そんなに冷めた関係じゃないでしょ……?」
「……悪い、本当に」
「悪いと思ってるんなら」深呼吸を挟んで、身を翻すヨランド。
「全部話して。なにがあったのか」
いじけたようにも思えるその背中に、ラヴァルは観念して鼻から息を吐く。
「あまりにもくだらなくても殴らねぇか?」
「話次第よ」
振り返ったヨランドが握り拳を作ってはっきりと言うと、ラヴァルは苦笑を漏らして、ヨランドが部屋に来るまでのこと、研究室でルイ老教師の語ったバベルの話をした。
バベルやそのエージェントについて誰かに話されることは、想定内だ。元より万人に受け入れられる話ではないし、これによって人類が真理に近づこうが、こちらの知ったことではない。
結果より過程なのだ。
ラヴァルは話し終えると、ヨランドは何事もなかったかのように歩き出す。
「じゃあ、なに? ジェニスはあんたのせいで、あんなに弱ってるって言うの?」
「ジェナの言うことと……ルイ教授の言うバベルの言うことが、全部正しいなら」と仮定してから。
「っていうか、信じるのか? さっきの話、聞いた俺でも信じられねぇような話なんだが」
驚愕にも似た表情でラヴァルが尋ねると、うーんと眼鏡のつるを指を当てながら。
「まぁ、実際ジェニスは男から女になってるし……正直、肯定材料よりも否定材料が足りないから納得するしかないっていうか……」
そう答えた後で、ヨランドは「ん?」と首をかしげた。
「その、ジェニスの言うことがもし本当なら、あんたがジェニスに求めている形を表しているわけよね?」
「そう、だな……」
「なんで、それで女になるの?」
「さぁ……?」
言われてみれば、とラヴァルは口元に手を当てて考える。
対してヨランドは、そんなラヴァルから半歩、横へズレた。
「なんだよ」
「いや、あんた……まさかジェニスのこと……前からそんな目で……?」
おそるおそる言葉をこぼすヨランドは、顔に両手を置き、頬を赤く染める。
彼女の勘繰りに気付いたラヴァルは、「ばっ!」と声を荒げようとするも、「待って!」と先を越されてしまう。
「そ、そりゃあ五、六年くらいの付き合いだもの! それにほら、女になる前のジェニスも結構かわいい顔立ちしてたし……! あんたの気持ち、まぁわからなくもないっていうか……!」
「変な勘違いして変なフォローすんじゃねぇ! 俺とジェナはそんな関係じゃねぇっての!」
「それじゃあなんで女の子になってるのよ! おかしいじゃない!」
「俺が知るかよ!」
息を切らせながら、ラヴァルは仕切り直す。
「で、どこに行く気だよ」
「さっきの話が本当だとしたら、あたしたちにはどうすることもできない。でも今、この状況でしかできないことはある」
「なんだよ、今しかできないことって……?」
ヨランドは豪奢な扉の立ち止まり、顔を上げる。
「ジェニスの成績を、戻してもらう」
そこには竜のシンボルとともに『理事長室』と書かれていた表札があった。
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