バベルとドラマツルギーⅢ【C.C1795.02.23】

     ◆


 ラヴァル! 遠くで響く声に、ラヴァルの肩が跳ねる。


 病院の入口で、バロを携えたヨランドは彼を見つけて声をかけた。

 しかしラヴァルは、そんな彼女に目もくれずに歩く。

 ちょっと! と呼び止めようとするヨランドは、しかし幽鬼に憑かれたような青ざめた表情に、息を呑んだ。


「な、なにがあったのよ……! ねぇ! バカラヴァル!」

 そのまま通り過ぎようとしたラヴァルの手首を、袖ごと掴む。


 ――逃げてるだけでしょ?


 ――今になって怖くなったんでしょ!


 体温と、反響する罵声にも似た声が、ラヴァルを胸中を、無性に掻き毟った。


「るせぇ、なんもねぇ」

「なんもないわけないでしょう! そんな顔して!」

「なんもねぇって言ってんだろっ! てめぇになにがわかるってんだっ!」


 怒鳴るラヴァルに固まるヨランド。

 ハッとなったラヴァルは気まずそうに腕を振りほどいて、逃げるようにその場を離れた。


 行く当てなど、どこにもなかった。


 走り出す気力すらなく、彼女のそばからできるだけ離れようという衝動だけが、彼の足を緩慢に動かした。


 ジェニス・ギールという人間の本性。


 漫然と明かされた、変貌する相棒の正体。


 その全てが、彼の世界を大きく揺り動かすのに十分な質量を持っていた。

 立ち止まった先、足元の石畳が、グラグラと歪んでいる。


 足がおぼつかないのではなく、ここで立っている地面が揺らいでいるのではないか。そんな錯覚に吐き気を覚えて、ラヴァルは膝を突く。


 通り過ぎる緑の制服は、彼の存在を不安そうに眺めながらも、無視して通り過ぎていく。ここでラヴァルは初めて、自分は無意識に一番街学園に向かって歩いていたことに気付いた。


 少し、刺激が強すぎたのかもしれない。

 彼のなかには、非現実感と疑念が渦巻いていた。


「きみ、大丈夫か?」


 そんな時、一人の老教師が、声をかけてきた。


 前庭の真ん中で倒れているラヴァルを、白髭を蓄えた顔が覗き込む。傍らには無口の助手の生徒が、彼に肩を貸そうと手を伸ばしていた。

 しばらく、差し出された手を凝視すると、ようやくそれが現実であることをラヴァルは感知して、その手を取った。


「すみません。なんでも、ねぇですから……」

「そんなことはないだろう。あんなに取り乱して、顔色も悪い……」


 クリス、医務室は? という問いに、クリスは小さく首を振ると、ふむと顎を撫でて思案する。


「私の研究室のほうが近いか……少し休んできたまえ」

「俺は」


 断ろうとして、ラヴァルの言葉が止まる。

 この老教師は、以前にエス構造群についての講義を行っていた。


 他の人間よりは、一般化された基礎理論に関して懐疑的な視点を持っているかもしれない。なし崩し的な人選であるが、今のラヴァルにとっては、なりふり構ってはいられない状況だった。


 クリスの肩を借りながら、研究室へと入る。


 そこは教員一人一人に当てられた小さな個室だった。二人一組の寮の部屋より一回り小さく、さらにあたりに積まれた紙媒体の資料が埋め尽くし、スペースを圧迫している。


 部屋の荒れ様にドアの前で膠着したまま表札に目をやると、そこで初めて、ラヴァルはこの老教師の名前がルイ・エドワードであることを知った。


「いやはや、すまない。機械を扱えないと資料がかさばってな」

 謝りながらも、ルイは朗らかに笑って部屋に促す。クリスの無言の案内で中央を陣取るソファに座れせられると、ほどなくしてハーブティを出された。


「あの……前の講義について、聞きてぇんですけど」

「この前?」ラヴァルを見つめしばらく考え込むと。

「きみは……ああ、ジェニス・ギールくんの隣にいた……」

「ラヴァル・ギールです」

「彼……いや、彼女というべきか……最近の活躍は耳に入っているよ」


 社交辞令めいた慰めに胸を騒がせながら、ラヴァルは出されたハーブティーに口をつける。


「して、聞きたいこととは、ジェニスくんに関わることかな」


 笑み交じりで訊き返されたラヴァルは、さっきの話をしようと口を開くも、なにから喋ればいいかわからずしばらく固まる。


「エス構造群が、もしあるんなら……っとちげぇな……そういうことを言いたいんじゃなくて……もし、エス構造群が、それを操作することって……できるんですか。いや、それを動かしたら……えっと、いやこれもなんか違う……」


 とりとめのなさを羅列するだけの言葉を、しかしルイはふむふむと熱心に聞き入っている。隣で立つクリスは書記官のように、無言のまま自前らしいタブレットに情報を打ち込んでいた。


「すみません、俺もちょっと混乱してるっぽくて……」

「よいよい。話さなければまとまらないこともある。ゆっくり考えて、話してみたまえ。なにせエス構造群について意見を求めようとする人間は、クリスと合わせてきみが二人目だ」


 そう言って、ルイはクリスにあれを持ってきてくれと促す。『あれ』と言われただけで意図を読み取り、クリスは研究室の棚から古い丁装の本を何冊かと、レポートのような紙束を持ってくる。


 以心伝心する彼らの動きに、ラヴァルは違和感のようなものを覚えた。


 自分とジェニスに、こんな連携があっただろうか。

 自分はいったい、ジェニスのなにを知って、相棒などと言っていたのだろうか。


 その考えを、しかしラヴァルは気付いてもなお膨らみ続ける違和感に、小さな唸りを漏らした。


 違う。自分とジェニスは、こんな関係でありたいわけではない。

 兄弟。家族。相棒。姫と騎士。

 振り返って考えてみれば、今まで二人の間を回していた歯車の名前が、ラヴァルにはひとつとして噛み合わなかった。


「つらいなら、このソファで寝ても構わないよ」

「いえ」ルイの気遣いを手で制しながら。

「人の望み……というか、願いで、エス構造群が変質するって考えは……おかしいですかね」


 それは彼にとって、突拍子もない仮定だった。


 神秘主義を捨て去っている――正確には神を幻想しないよう、調整の一環として神秘主義を陳腐化させている――今日の天球都市世界では、個人の特定は外見と、社会的な地位に左右されている。


 しかしラヴァルは、女へと変身したジェニスをジェニスとして認識することができた。


 エス構造群が、個人を個人たらしめる最後の砦であるという仮説を真とするなら、それ以外を変質させるという仮定の仮定を、彼が話すことに不備も不都合もない。


 それでも自信なさげなラヴァルに、ルイはほうと感心めいた息をついた。


「とんでもない」あご髭を撫でつけて。

「それこそがエス構造群の持つ特徴的な情報強度だよ」

「情報強度、ですか……」

「エス構造群は、錬成釜で分解される際には消失してしまうが、物質の変質には柔軟に対応するのだよ。まぁ、これが実証の難しさに拍車をかけているのだがね。しかし、独学でそこまで考えつくとは……」


 褒められて、ラヴァルは「ああいや、はぁ」と曖昧に謙遜すると。


「このエス構造群を維持したまま、ビットを再構築できる仕組みがあるとしたら……それを使えば、望みのままに、自分を改造して、好きにできるってことになりませんか」


 遠回しに、ジェニスの言ったことをルイに示唆する。


 ラヴァルは口に出して初めて、相棒の喋った直感の荒唐無稽さを思い知った。


 彼女が言っていたことはすなわち、他人や自己の認識や解釈で、魂が容易に変わってしまうということだ。こんな曖昧なものが、自分を自分たらしめている要素だとのたまうのなら、エス構造群仮説がこの天球都市世界で認められないのも頷ける。

 しかし内心の皮肉に反して、ルイは虚を突かれたように目を見開いた。


「驚いたよ」と、感嘆して。

「きみ、卒業後はどこに?」

「え、ああ……商会の警備部か、狩猟競技のプロリーグに……」

「そうか、残念だ。きみのような発想力の人間には、ぜひ研究室に来て欲しいのだが」


 クリス、という神妙な口調で助手に呼びかけると、クリスは手にしたタブレットを軽快に叩き、一つの絵画の画像をラヴァルに見せつけてきた。


 それは太古、天球都市の建設が途上の段階に、柱守たちが昇降柱に記録として残したものだった。

 画像には、多くの人型らしい希望が、一人の人間を取り囲むように円陣を組んでいる。中心の人間は威光を放っているかのように、ジグザクした模様の内側に描かれていた。


 そんな人間のそばには、『なにか』があった。


 そう、少なくともこれを覗き見るラヴァルには『なにか』としか形容しようがない。彼の目には、それは規則性のある文字情報でもあり、不規則な線の波のようでもあり、人型の記号を繋ぎ合わせた歪な環のようでもあった。


「柱守の一族が口伝しているという伝承をもとにした太古の事件を、実際に絵画で再現したものだ。これを描いた後、里はリビルドの例外的な襲撃を受けたとされている」


 目を細めながら、胡散臭い表情を見せるも、ルイの真剣な表情を前に無言のまま続きを促す。


「新社会成立に伴い、過去の記録を焼却するしきたりを、きみは知っているかね?」

「十日革命のときにもあった……」

「ああ。それが天球都市設立以後……いや、過去のあらゆる社会の成立が起こるたびに、災害によって記録が失われていることは」

「ええ、知ってます」


 図書館の日々を思い出しながら、ラヴァルは答える。


「そのすべてに」ルイはタブレットの『なにか』に指差し。

「これが関わっていると、私は見ている」

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