バベルとドラマツルギーⅡ【C.C1795.02.23】

 鞄に入れた手が、ピタリと固まる。


 卒業したら。もう。


 ジェニスを見やると、彼女もまた失言をした自覚があるらしく、毛布に体を埋めたまま頭を反対に傾けていた。


「いつから?」


 短くそう質問すると、おずおずとジェニスは答えた。


「前の狩猟競技のとき……。キミとヨリィが言い合っていたのを、ドア越しに……」

「聞いてたのかよ、やっぱ……」

「すまない。打ち明ける機会がなくて」

「いや」頭を振りながら立ち上がると、気まずそうな視線でジェニスを見下ろす。

「謝んのは俺のほうだ。お前にはちゃんと話さなきゃいけなかったのに、なぁなぁにしちまって」

「いいさ。ボクがこんな状態だからこそ、混乱させたくなかったんだろう?」


 ベッドから起き上がって、穏やかに笑む彼女を正視できず、棚の天球時計に逃げる。


「キミの気遣いがわかりにくいのは、今に始まったことじゃないしね」

「けど」

「けど?」


 オウム返しの質問に、ラヴァルが言葉を詰まらせた。


 けど、お前はそれでいいのかよ。


 喉の奥でせき止められた疑問を、唇を噛んでなんとか押しとどめる。

 それでいいってなんだ。自分は己の意思で、この天才から離れようとしてるのに、そんな質問をして、引き留められでもしたらどうするつもりなんだ。


 それとも。


「ああ……もしかして、引き留めて欲しいのかい?」


 ドクリ、と。


 見透かされた心臓が、跳ね起きる。


「なんだ。それならそうと言ってくれればいいのに」

「は……」間抜けな声を漏らすラヴァル。

「なに言ってんだよ、お前」

「なに、って?」

「お前、どうしたいんだよ。俺に残って欲しいのか……そうじゃ、ないのか」

「どちらでもないさ。キミが望むなら、ボクはそれに従うよ」


 真剣に、ジェニスは答える。

 まるで、質問の意味が分からないといった、不可解な表情で。


「だって……ボクはキミのために、ここにいるんだからね」


 再び、酩酊がラヴァルを襲った。

 キミが望むなら。キミのために。

 自意識に欠けたこの言動を、しかし彼の胸にはどこか安心めいた落ち着いた心地がよぎった。

 目を見開き、焦点の合わない瞳を覗くと、ふいにジェニスはラヴァルの手を取った。

 細く小さな指が、冷たいラヴァルの指と絡んで、じんわりと熱が広がる。


「この手も、この指も……」


 いとおしそうに、ラヴァルの指の形を確かめるように撫でる。

 そしておもむろに、それを自分の胸に引き込んだ。


「この胸も……おそらく。キミのために、こうなったんだと、思う」

 手のひらに広がる柔らかな感触に、ラヴァルの思考が止まる。ジェニスは混乱するラヴァルをよそに、小さく吐息を漏らしながら、押し込んだ腕を抱く。


「理屈じゃないけど……なんとなく、わかるんだ。人工妖精が人のお願いを聞き入れるみたいに……ボクの体は、キミのためなら、どんなものにだってなれるって」

「っ……やめ、ろっ!」


 反射的に、手を払いのける。


「うぁ、っと」


 バランスを崩して、マットレスに手をついたジェニスから離れ、窓に背をつける。


 ジェニスはベッドから降りて、おぼつかない足取りで、ゆっくりとこちらへ近づく。


 ヒタ、ヒタ。と、裸足が床に吸い付いた冷たい音を立てるのを、ラヴァルは茫然と聞いている。


 彼女はさっき、なんて言った?


 ボクの体は、キミのためなら、どんなものにだってなれる。


 あり得ない、現実的でない。否定する言葉の数々を、一つの記憶が屹然と立ちはだかる。


 狩猟競技での殺劇。

 オーレアンナのスペックを無視した、あの挙動はどうして起こったのか。


 ――それで、いいんだな。

 ――ボクは、それでいいんだな、ラヴァ。


 ラヴァルはジェニスに、いつもの彼女であることを望み、それに応えた。

 中性的な顔立ちにぱっちりとした目元。

 口元に笑みを宿し、純真さと溌溂さを放つ表情。

 明朗さを表したような赤い髪は、今はその輝きをなくしている。


「は」と息を吐いて。


 しかし揺るぎようのない確信が、ラヴァルを揺さぶる。

 自分が、この変わり果てた相棒を、ジェニス・ギールと信じられるのは。

 他でもない自分が、そう望んだからではないか。

 ラヴァルは、尻もちをつくように崩れ落ちる。


「ラヴァ」


 浅い呼吸を繰り返すラヴァルの顔を、ジェニスは覗き込む。


「心配しないでくれ、ボクは大丈夫だから……」


 そのまっすぐな瞳を、ラヴァルは凝視する。

 瞳の中にいる自分の姿を――目を見開き、怯える姿を――見つめる。


「お前は、誰だ」


 ポツリとこぼれた言葉に、ジェニスは笑顔を向けた。


「ボクはジェニスだよ。キミが、ボクを相棒と呼び続ける限り、ボクはジェニス・ギールだ」


 は。と、吐息を一つ。


「そう、かよ……」


 ラヴァルは、辛うじてそう言い返し、弾かれたように飛び起きると、そのまま病室を出た。

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