ビットとエス構造群Ⅰ【C.C1795.01.30】


     ◆


 朝食を終えたラヴァルとジェニスは、講義のために校舎へと赴いた。


 朝も早い一番街学園前の広場では、二人と同じ緑の制服を着たまばらな男女が、それぞれのグループに分かれて雑談をしている。一月の後半。卒業や進級試験を控えたこの時期では、誰もが張り詰めた雰囲気を漂わせていた。


「あれ、工学・運用科のギール兄弟……?」「バカ、兄弟じゃねぇよ。同じ孤児院育ちの特待生ってだけで」「この前の試合で大ポカやらかしたって聞いたけど」「いや、相方違くね? 女じゃなかっただろ」「女だろ、あの青髪、昨日喧嘩してたの廊下で見たぞ」「あれって違うやつだろ、ほら……ヨランドってあの会長の――」「じゃあ、隣の誰だよ」「さぁ……?」


 口々に噂する声が届く中で、ジェニスは不服そうに唇を尖らせた。


「ボクが女になったら、そんなにわからないものか……?」

「普通は男が女になったりしねぇからな」

「キミは気付いてくれたのにな……」


 そうだな、と。ラヴァルは立ち止まる。


 胸の奥から鼻を通して息を吐くと、エントランスの正面に置かれた創立者……正確には、創立『社』の『ドラゴン商会』の、竜の頭をあしらった企業ロゴを見上げた。


 フェーヴ……ひいては天球都市世界では、二十年前の王権打倒に伴って、政治の主体を企業連合の代表が引き継いでいる。王制を継承した資本主義的競争社会の序列を覆すには、政権を運営する企業に入社し、その実力で企業に貢献する必要があった。そのために教養は必須であり、学園に通う生徒たちの大半はフェーヴを代表するドラゴン商会の社員を親に持っている。彼らにとって卒業は義務であり儀礼であり、躓くことは許されなかった。


「お前さ」

「うん?」

「女になって、どうよ。健康とは言ってたけどよ……本当に違和感とかあったりしねぇか?」

「んー? まぁ、体の違いはよく感じることではあるけど」


 そう言いながら、胸元や腰回りに手を当てて、キョロキョロと見渡す。


「なんだろう……不思議の馴染みがあるというか……収まりがいいんだ、とても。自分でもなんでこんなにしっくりくるかはわからないんだが……」

「そうか……」


 要領を得ない言葉に、諦観混じりの相槌を打つ。落胆を隠せないラヴァルの様子からなにを感づいたのか、ジェニスは口の端をゆっくりと持ち上げてにやけた。


「なんだその顔」

「ラヴァ……もしかしてキミも、女になりたいのかい?」

「バカ言ってんじゃねぇよ」鼻を鳴らしながら。

「俺はお前のナイト様がお似合いだよ、お姫様」


 与太話をばっさり切り捨てて講堂に入ると、数名の生徒たちが、二人に向かって振り向いた。


 奇異。好奇。煩瑣はんさ。様々な視線を一斉に突き刺されたラヴァルは、苛立たしそうに頬を引きつらせる。

 よくわからないままに手を振り返しているジェニスを席に促して促してしばらくすると、授業開始を告げる監視塔の鐘が鳴り、白髭を蓄えた老教師が、助手の生徒を携えてゆったりと入室した。


 教師は入ってくるなり名簿を広げて出席を取る。点呼もない。人数を確認して、合っていればそのまま全員出席とする算段なのだろう。卒業を間近に控えてなお講義に出る生徒というのは、お世辞にも座学の成績や就学態度が良いとはいえない者ばかりだが、彼にはそれらを振るい落とそうとする気概も、生徒への興味も薄い。


 しかし、老教師がジェニスへ向けられると、無関心な瞳が少しだけ輝いたようだった。


「おお、もしやきみが噂の……」


 しばらくの無言のあと、髭を蓄えた老教師が中央の教壇から両手を広げて迎えた。

「へぇ、ボクの噂ってなんだい?」

「君の同一性についてだよ。ふむ……出席を確認すればあとは自習にしようとも思ったが、ちょうどいい。クリス、今朝の問題を出してくれたまえ」


 そう言って、助手の男子生徒にスクリーンの起動を命じる。クリスと呼ばれた助手は無言で手にしたシリンダを起動して黒板に触れると、黒板が微光を放ちスクリーンが呼び出された。


 天球暦一七七五年。七つの企業による連合社会の始まりとなった、革命運動の名前を答えよ。


 スクリーンには問題文と合わせて、ラヴァルが昨日見たような、革命当時の戦闘映像のスライドショーを映し出した。


「これは入学当時、君が出席した授業で君に出した問題だ。あまり常識的な問題に対して面白い回答をしたものだから、私は覚えているのだが……きみはどうかな?」

「えっと……」


 ジェニスは口ごもり窮するも、すぐ答えに気付き、大きな目を見開く。


「いや、そう……問題は覚えている。ああ、そういえば……ふふ」


 思い出しながらクスクスと喉を鳴らし始める。ラヴァルもまた当時の記憶を思い出して、頬杖を突きながらフンと鼻を鳴らした。


「『十年革命だ!』」

「『十日だ、十年もするわけねぇだろ』」


 勢い良くスクリーンを指差して、ジェニスははっきりと答えるジェニスに、ラヴァルが訂正する。


 目を合わせ、ニヤリと笑い合う二人に「いやはや、正解だ」教師は柔らかく口調で言いながら頭に手を回した。


「ジェニス君。君は自分の体が女性になってしまっても、自分が『ジェニス・ギール』であると言えるのは、その記憶があるからだね?」


 ジェニスは、一度顎を引いてから考え込み、頷く。満足のいく反応をもらい、老教師は他の生徒たちに向き直った。


「このように、だ。私は個人の同一性を確かめる上で、記憶というものは重要な要素になると考えている。人にどう見えるか、自分が何者であるかという証明には、改変されない要素……エス構造群と呼ばれるもの一番の証明が記憶だ……と、いうのが私の意見だが、もちろんこれに対する反論もあるだろう。君たちもどうか考えてほしい……」


 ここまで言って、閃いた老教師は白髭を撫でて付け加えた。


「ふむ……課題のレポートはこれにしようか。エス構造の同一性に関する意見をまとめて、来月末まで提出するように。以上だ」


 講堂に、盛り上がった土のような悲鳴が上がる。悲鳴の主である老教師は、興味のある生徒へ話したことで今日の役目を終えたようで、無口な助手を引き連れてそそくさと教壇を離れて生徒席の間を抜けていく。


 教師のいなくなった教室では、生徒たちが次々に席を立っていく。出席だけで単位が取れるという評判を聞きつけた大半の生徒は、突如として噴出した課題に対する嘆きの声を上げていた。


「エス構造群の同一性……ねぇ」

「なぁ、ラヴァ……エス構造群ってなんだ?」

「有り体に言うと、魂のことだよ」

「たま、しい……? って、なんだ?」


 オウムそのもののように首を傾げ言葉を返すジェニス。

 ああそっからか。とラヴァルは肘を置いて額に手を当てた。


「えっと……この世界の物質は、ビットっつう始原物質で構成されてる。お前が朝使った食料錬成釜プリンタあるだろ? あれは適当な物質を突っ込んでビットに変換してから、食材や料理に変換する技術なんだ。どんな物質でも、レシピさえ開発できればなんでも作れるってんで、プリンタが登場してから生産業は大幅に飛躍したんだけど……ここで問題なのが、実は、変換前と変換後で物質の総量……ビット硬貨に換算した時の値段が、減ってるってことなんだよ」

「減ってる?」

「変換エネルギーとして消費されてるってのが有力な仮説なんだけど、それでもビットの総量とつじつまの合わねぇ場合がある……その補完として語られてんのが、エス構造群仮説。変換の際に、物質を物質たらしめるビット群が消失してるんじゃねぇかって説なんだよ」

「物質を物質……」


 ここまで聞いて合点がいったのか、「ああそうか」ジェニスは目を丸くしながら手を叩く。


「つまりあの先生は……ボクがボクの記憶というエス構造群を保持しているなら、女になってもボクはボクだってことか!」

「そういうこった」


 地頭はいいんはずだけどな。と心中で感心しながらラヴァルは考える。


 このエス構造群は仮説であって、今日の天球都市世界で実体を観測できた例はない。そのため宗教で語られる『魂』という観念に引っ張られた神秘主義の残党の戯言だという批判もある。


 しかし、自分がジェニスをジェニスだと直感した根拠としては、この上ないほどの説であることは間違いない。


 だからこそ、彼は困惑していた。


 ジェニス・ギールは、彼が三年前に孤児院へ入る前から知り合った男だ。元々中性的な顔立ち、男らしさとは違った魅力を放つ少年であったが、それでも一目見ただけでは彼女がジェニス本人であると断定するのは難しい。


 それをどうして、自分は女になったジェニスを『ジェニス・ギールという男』だと認識しているんだろうか。


 自分が、相棒の魂の色でも感じ取ったとでもいうのだろうか。

 何によって?

 友情?


 咄嗟に湧き出た言葉を、はっ、とほくそ笑んだ時。


「茶番だな」


 突如、愚痴がボソボソと渦巻く場に、太く低い声が突き刺さった。

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