ラヴァルとジェニスⅡ【C.C1795.01.30】
◆
二つ並びのベッドの一角で、目を覚ましたラヴァルが最初に見たのは、朝日を浴びた健康的な肌色だった。
聖火のように煌めく赤髪。飄々さの中に無邪気さを隠した端麗な顔立ち。シャツは前が閉じておらず、鎖骨を超えた先にある双丘のまばゆい白と、雑な洗濯のせいでくすんだ白とでコントラストを生んでいる。
そしてその前で、革紐で吊るされたシリンダが振り子のように揺れていた。
「ラヴァ?」
寝ぼけ眼が怪訝そうに振り子を追いかけるも束の間。
「な……っ」
振り子の奥にあるものを理解したラヴァルは、それから逃げるように壁に這い寄った。
「な……ななな……!」
「珍しいな、キミがボクより起きるのが遅いだなんて」
慌てるラヴァルに、特に気にした様子でもないジェニスは、ラヴァルのベッドから離れて大きく伸びをする。
シャツ一枚と下着だけに包まれたしなやかで流麗な曲線が、肌寒さが馴染んだ朝の空気の中でひと際浮いていた。
「お、お前……っ! なんつー恰好してんだ! 早く服着ろバカ!」
「何をそんなに……朝はいつもこの格好じゃないか」
ラヴァルはブンブンと頭を振って、煩わしげに反論するジェニスを指差した。
「お前! 今! 女! 女が男の前でそんな恰好するなっての!」
「別にいいじゃないか。誰も見ているわけでもないし」
「俺の目に毒なんだよ!」
◆
「あぁくそ、朝っぱらから心臓に悪い……」
毒づくラヴァルは、窓枠へ寄り掛かかりたそがれ気味に窓を眺める。外では疲弊したラヴァルの脳内と引き換えにしたような、街路樹と石畳だけののびやかで済んだ朝の景色を覗かせていた。
フェーヴ唯一の育成機関であるフェーヴ一番街学園は、革命期以前の貴族階級が所有していた城を改装した校舎を持つ。ラヴァルとジェニスは残り数ヶ月で卒業を控える三年生であり、ここは彼らの寄宿する学生寮だった。
当時の兵舎を流用した学生寮は、改装の際に小さなキッチンが併設されたワンルームで構成されており、浴場も共同であるため、唯一部屋内で視覚を物理的に遮断できる空間はトイレしか残されていない。
ドア越しの衣擦れが、朝の静けさを彩り、耳を打つ。
反射的な連想遊びが展開される前に、ラヴァルは昨日のことを思い返した。
講堂に突如現れたジェニスを連れて病院に戻り、彼――以後は彼女の称する――は相棒に起こった事態の説明を担当医に求めた。
以下、担当医の診断である。
無責任なのは承知だが……いやね、我々にも理解できないのだよ。なにせ看護師が部屋を訪ねたら、本来いるはずの患者と、見ず知らずの女性とが入れ替わっているのだから。面影はたしかに患者のジェニス・ギールくんを思わせるものはあるよ……? しかしねぇ、ケガもきれいさっぱりなくなっているし、彼が女性になるところを見たわけではわけではないから……彼が女性になったという点すら、疑わしい限りではあるのだよ。
重ねて、以上が診断である。
最終的な決断としては、健康に異常なしという本人の申告を受けて退院となり、しかし急な事態に対して寮側も対応できなかった結果……十八歳までの人生の中で女性と同衾した経験のないラヴァルは、隣で眠るジェニスに気を揉みながら、睡眠不足に陥った次第である。
「もういいぞ、着替えた」
「本当だろうな?」
「疑わないでくれ。ボクとキミの仲じゃないか」
ラヴァルはおっかなびっくりに窓から視線を外す。
振り返った先でジェニスは、弾んだ声を体で表さんと、その場で回転してみせた。
「どうだラヴァ、似合ってるか?」
学園指定のスカートを小さく翻し陽気に踊るジェニスに対して、ラヴァルの反応は冷ややかだった。
「なんで女性用の制服着てんだ……?」
「着てみたいから。インナーを着ていれば問題ないだろう?」
暗い緑のブレザーの袖から伸びる凛とした指。同色のスカートから伸びるすらりとした足。はためく髪から垣間見える首筋。制服から除く顔以外の生身を、彼らの通う工学・運用科の制服であるオレンジのインナースーツで包まれている。
「どうした、さっきから」
ジェニスは、やれやれと首を振った彼に首を傾げた。
「お前なぁ……自分がどうなってるのか、わかってねぇんじゃないだろうな?」
「いや? この通りだが」
とぼけたともいえる明朗さで、自身の胸を下から持ち上げる。
「だからそれやめろ」と投げやりに注意してから。
「お前、自分が女になって、身元が分かってねぇんだぞ? お前が『ジェニス・ギールっていう男』だったって証明もできないんだ……ちょっとは不安じゃねぇのかよ」
真剣にラヴァルが諭すと、んう……と口ごもらせる。
前述の医師の言い分にあるように、現在のこの世界で、生物学的に個人を決定的に証明する手段はない。『ビット』と呼ばれる始原物質によって全てが構成されると知られているこの世界の人間たちは、個人が個人その人であるという証明を曖昧なままに生き、そういった哲学空想は、道端でふとしたときに語られる雑談の種として忘れられる。
人間たちは、王権時代の遺産である感性的な自己認識のまま、成長の兆しを見せていない。
すなわち、ラヴァルがそうしているように『見ればわかる』というのが個体認識の通念であり……しかしそれが万人に通用していないジェニス・ギールの現状は、彼女の過去と現在を分断されているのと同義だった。
しかし、ジェニスはその実感のないまま。
「あまり難しいことはわからないが……」と断ってから。
「でも、キミは信じているだろう?」と、答えた。
「は?」
「最初にこの姿を見たとき、キミはボクをジェナだと言った」
「それは……まぁ、確かに、な……?」
「なら、今はそれでいいさ。それよりも、どうだ?」
「あ?」
「似合っているか? ボクの、制服姿は」
ジェニスはスカートの裾をつまんで、折り目を並べるように、小さく広げる。背筋を伸ばし、凛然とするその佇まいを、穏やかな朝日が照らしている。
それは深窓の令嬢を思わせる清楚さと無垢さをラヴァルに与え、皮肉げな笑みへと昇華させた。
「ああ、似合ってるよ、お姫様」
「ふふん、当然。女になってもボクは可愛いからな」
得意げにジェニスは笑う。腰に手を当てて胸を張ると、その上に乗ったシリンダが小さく揺れた。
「シリンダ、ヨリィから返してもらったんだな」
「ボクに適合しているんだから、ボクが持っていないと意味ないだろう?」こともなげに答えてから。
「昨日、ヨリィと何かあったのかい? 彼女、本気で怒っていたみたいだけど」
ジェニスが革紐を摘まんで持ち上げて訊くと「いや、それは」と、砂を噛んだような表情で言葉を詰まらせる。それからしばらく考え込んだあと、開き直ったように肩を持ち上げた。
「俺とあいつが喧嘩すんのなんて、珍しくねぇだろう?」
「んー?」
はぐらかすラヴァルに、指の腹を唇に当てて目を伏せるも、しかし次の瞬間には「そうか……?」と釈然としないままに納得する。
「それより、オレもさっさと着替えねぇと」
「わかった。待ってるよ」
ラヴァルは窓から体を離して、寝間着代わりのシャツを脱ぐ。共用のクローゼットから制服とインナースーツを取り出して、ズボンに指を掛ける。
その時、自分の姿を追いかけるジェニスの視線に気付いた。
ジェニスは自分のベッドに腰掛け、ラヴァルの筋肉質の胸板をジッと見つめている。
特に関心を感じさせないジェニスと、ラヴァルの困惑の瞳が、無言の中で結び合い……ほどなくして、根競べに負けたラヴァルが口火を切った。
「なに見てんだ、お前」
「ふと、気付いたんだが」
「なんだよ」
「親友でも女が男の前で裸を晒すのはダメなのに、逆はいいのか?」
「いや、俺の裸なんて見慣れて……」
言い訳しようと、しかしまた砂を噛んだ表情で気まずく言いよどんだ後。
「あー、そう……そう、だな。お前が正しいよ、ジェナ」
制服を脇に抱えて、狭いトイレへと駆け込んだ。
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