第30話 楽器が吹けなくなるかもしれない

珠洲先生は、朗らかな笑顔を浮かべて、窓の外に視線を移すと、ハッと腕時計を見て、私たちに申し訳なさそうに


「みんな、ごめん、かなり遅くなってしまった。今日の練習はこれまでにするけど、一つ宿題を出してもいいかな。」


宿題と聞いてあからさまに嫌な顔をした部員がいたのだろう、そんな生徒を気遣ってか、珠洲先生は、優しい口調で


「難しいことはじゃないよ、手始めに課題曲の五月の風の色を決めて欲しいんだ。絵画で言うなら、楽譜は下絵、音は色彩ととらえると分かりやすいかな。これから、みんなでどんな絵の具でどんな色で五月の風という絵を完成させるか、考えて欲しいんだ。みんな、一人ひとりその曲のイメージが違うと思うんだけど、そのイメージがバラバラだとぐちゃぐちゃな絵になってしまう。だから、みんなで話し合って、同じ色をイメージした五月の風と言う綺麗な絵を考えて欲しいんだ。お願いできるかな?」


と言って、珠洲先生は、部長に顔を向けるとにっこりと微笑んで


「彩、君がみんなと話し合って決めて欲しい、実際に演奏するのは君たちだ。僕ではない。だから、みんなが納得できるように意見を出してまとめくれないかな?それができたら、間違いなく、本当に素晴らしい五月の風が出来上がると思うよ。僕は、君たちがイメージした五月の風に少しでも近づけるようにアドバイスするだけのつもりだよ。」


と言って、珠洲先生は、手をパンパンと二度叩くと、私たちに向かって大きな声で


「お疲れさまでした!明日もよろしくお願いします!」


と言って、深々と頭を下げた。私たちのほうが先に行うべきことを珠洲先生に先にやられてしまって、一瞬、一同面を食らったが、部長は、気を取り直して、珠洲先生への最大の敬意を込めた凛とした声で


「起立!礼!ありがとうございました!」


と、部員一同大きな声で珠洲先生に応えた。その時の珠洲先生は、本当に穏やかな顔をして、私たちの姿を眺めていた。


― 部活終了後の昇降口で -


僕は、吉田君と共に、すっかり暗くなった、昇降口で外靴を履きながら、吉田君は非常に高揚した口調で


「珠洲先生は、すごいよ!僕も中学で何人か、外部の先生に教えてもらったけど、あんな風に指導してくれる先生なんていなかったよ。大抵の先生は、自分のイメージした通りの和音や音色がでないとそれが出るまで永遠とみんなの前で一人で楽器を吹かされるんだ。その時の、屈辱と言うか、敗北感は半端なかったよ。」


と、暗闇で顔はよく見えないけど吉田君は満面の笑みで語っているのは、容易に想像できた。私は、練習が終わった後から、ちらちらとあることが気になっていた。そんな私の心に気づいてないのか、吉田君は朗らかな声で


「少しお腹も空いたし、マックにでも行かないかい?」


と、街灯に半分照らされた吉田君の顔を見ながら、やりとりしていたが、やっぱりどうしても気になることが顔に出ているらしく、私の心の葛藤を察した吉田君は


「うん、創君はマックよりも行くべきところがあるね、行ってあげるといいよ、きっと彼女も喜ぶし、珠洲先生の話を聞けばあっという間に治って、明日から部活にも出られるかもしれないしね。」


と言って、私の顔を覗き込んでにっこりと笑った。吉田君にとって私の心の中はすべてお見通しで吉田君のその笑顔に背中を押される様に、私は笑顔で返して


「うん、行ってくる。きっと今日のことを話せば絶対に喜んでくれるよね。」


と言うと、吉田君は私の気弱な心を力づけるように私の背中をドンと叩いて


「頑張れ、藤村創!」


と言って、親指を立てながら、私から去っていった。あとで一人残された私は、ポツンポツンと輝く街灯を眺めながら、小さく鳴くヒグラシとカエルの音の中、全精神を奮い立たせて、自転車に跨って、市の総合病院へと向かった。自転車に乗っていると確かに残暑は厳しけど、風を切っている感じがして心地よかった。しかし、病院が近づくにつれ、徐々に私の心は、少しづつ怯えが滲み出てきた。また、あのヒステリックな声と見下した視線を浴びて、惨めな気持ちになって帰るんじゃないかと思わずにはいられなった。それでも、今日のことは言わなくてはならないと思い、自分を叱咤して病院へと着いた。私は、駐輪場に自転車を止めると、もう、面会時間が過ぎているので裏側の非常口から脳神経外科病棟の304号室へと、人目につかないようにこっそりと移動した。廊下を移動していると、やはり消毒薬や尿が混ざった気持ち悪い臭いと、薄暗い照明で、どことなく罪悪感が生まれてきた。ここには、健康な人間はいてはならないぞと暗に訴えていた。私は不安になりながら、304号室に着くと、こっそりと中を覗いてみた。照明が点いてないが月明かりの中、影が一つだけ見えた

。私は、お母さんは今いないことに安どしてゆっくりと扉を開くと、なるべく穏やかで静かな声で


「園田さん、お見舞いに来たよ。」


と言うと、影は私の方を向くと、しゃくり声をあげながら


― もう、楽器が吹けなくなるかもしれない -

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