第10話 私には判るもの
雪江さんからCDをもらって、松下楽器店を出た後、店の前に黒いトヨタクラウンが止まっていた。園田さんは、車に向かって走りながら
「藤村君、楽しかったわ。また明日ね。」
と、ニコニコしながら手を振って、車に乗って去っていった。
一人残された私は、しみじみと激動の一日だったと、思わずにはいられなかった。
そして、手には、園田さんと吉田君の演奏が録音されたCDを見つめながら、単なる同じ中学の出身だけではない、深い関係があるのではないかと考えらずにはいられなかった。
完全に日が傾いて、暗くなった夜道を自転車に跨って家へと向かった。園田さんを乗せていた高揚する気持ちがなんとなく寂しく、また、懐かしく感じながらペダルを漕いでいた。たった、数時間前のことなのに、まるではるか昔のことの様に、園田さんとのやり取りの記憶はセピア色に色あせていた。
家について、夕飯とお風呂を済ませて、自室に入ると早速、CDコンポに電源を入れて雪江さんからもらったCDとトレイに乗せて再生ボタンを押した。
私は、ジャケットを見ながら、初めに吉田君の演奏を聴くことにした。
ールロイ・アンダーソン作 トランペット吹きの休日ー
「パララ~パララララ~」
激しいリズムと躍動感のある音に私は、本当にこれが中学生の演奏なんだろうか、実は、プロの演奏なんじゃないかと疑ってしまうくらい、素人目に見ても完璧に近い演奏が繰り広げられていた。吉田君の演奏は、細かいくらいに的確で知的で計算されていた。私は、その演奏に圧倒されながらおよそ三分間、ただ、黙って聞き入ってしまった。
これで、全国大会銀賞…一体最優秀賞金賞は一体どんな演奏なのか、私のリモコンを持つ手が知らぬ間に震えていた。私は、ある意味、恐れとまた好奇心に駆られる様に園田さんの演奏の再生ボタンを押した。
ーパブロ・デ・サラサーテ作 カルメン幻想曲ー
「タラ~ラララ~」
園田さんのクラリネットは私の常識を完全に覆した。どこか、なまめかしく、また優しく情緒的に私の耳に訴えかけていた。私は、リアルでは日本にいるはずなのに、もう心は海外の見知らぬ大地へと立っていた。テレビでしか見たことのない、異国の建物やどこまでも透き通る広い広い青い空が今ありありと目の前に広がっていた。
私は、音楽はすべてを凌駕して、人を感動させる素晴らしい芸術なんだと、十数年の人生で初めて痛感して、生まれて初めて音楽で背中がぞくぞくした。
そして、なぜ、吉田君が銀賞で園田さんが最優秀賞金賞なのか、理解できた。
吉田君は、演奏は完璧であるのは誰もが認めることだと思う。
しかし、園田さんの演奏は、まったくの別物だった。園田さんの演奏は、聴者の心を完全に攫ってまったく別世界へと誘うという、もう、音楽と言う範疇を完全に逸脱してるくらい素晴らしいものだった。約5分間私は、完全に自分を失って、ひたすら園田さんの演奏をリピートして永遠と繰り返し聴いていた。
ー翌日の朝ー
私がクラスに入ると、さっそく吉田君がやってきて
「創君、おはよう。昨日はごめんね。」
と言うと、私に小声で
「僕は、あの人とあまり一緒にいたくないんだ。」
と囁いた。私は、多分園田さんのことだろうと思って素直に
「園田さんの何がいけないの?」
と、言うと吉田君は顔を曇らせて、まるで独り言のように
「あいつさえいなければ…」
と、言った様な気がしたけど、すぐに明るい顔を見せて
「ううん、なんでもない。ただ、なんとなくだよ。なんとなく。別に気にしなくていいよ。」
と、笑顔を見せて自分の席へと戻っていった。
すると、代わりに園田さんがやってきて、私の様子をうかがうように
「藤村君、おはよう。昨日はありがとうね、楽しかったわ。もしかして、昨日本当に雪江さんからもらったCD聴いたの?」
と言うと、私は応えるかのように、興奮した口調で
「すごいってもんじゃないよ。まるで僕がここにいるはずなのにいないみたいになった。」
と言うと、園田さんはクスクス笑って
「何それ。言ってることが無茶苦茶よ。藤村君。」
私は、今目の前にいる人があんな演奏をする奏者なんだと、ある意味怖気づきながらも、語気を強めて
「それくらい凄いってことだよ!」
といつの間にか叫んでいた。
クラスのみんなが何事かと私たちを遠巻きに見つめているのを感じて、私は顔を真っ赤にして俯いて小声で
「それだけ、本当に凄かった。」
園田さんは、そんな私の耳元で
「そういう演奏してみたい?」
と囁いた。私は、完全に不意を突かれた感じで呆けたように
「僕ができるの?園田さんの様な演奏を?」
と、口からこぼすと、園田さんは満面の笑顔で力強く
「できるわ。藤村君にはそれができる素質があるって、私には判るもの。」
私の手を両手で握って真剣なまなざしで見つめていた。
そして、人生を振り返っても、その時の園田さんの一言が今でも私の心の支えになっているは、間違いない、苦しいとき辛いときもその一言が光だったから。
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