第9話 全国中学生ソロコンクールから

園田さんは、まるで何事もなかったように、くるりと振り返って


「さあ、入りましょ。」


と、軽い足取りで店内に入っていった。私は、しばらくキスを受けた頬を手で押さえながら、呆然としていた。


ーー今のは一体ーー


私は、時間をかけて現実を理解し始めると、頭が沸騰するかのように熱くなったのを嫌でも実感できた。夕方になって肌寒くなるはずなのに、私は、春風がいつも以上に暖かく感じた。一体どのくらい立ち尽くしていたのか分からなかったけど、私は、正気に戻って、園田さんを追って店内に入った。


松下楽器店は、駅を利用するときはよく見かけるけど、中に入ったのは初めてだった。


店内には、控えめにイージーリスニングが流れていた。これは、ポール・モーリアだろうか。また、入り口付近には、CDコーナーや楽譜コーナーが並び、奥のカウンターの方にはショーケースに入った楽器やら小物やらが並んでいた。


園田さんは、奥のカウンターに立っている、小柄で白髪のおかっぱ頭の年配の女性と話をしていた。丸渕メガネがよく似合っている。


園田さんは、私が店内に入ったのを気づくと、大きく私に向かって手を振った。


私は、奥のカウンターに向かうと、園田さんは、笑顔で


「この方は、この松下楽器の店長の松下雪江さん。よくコンクールで何か楽器にトラブルが起きるとよくお世話になってる方よ。」


と、紹介してくれた。雪江さんはニコニコしながら


「玲ちゃんが、男の子を連れてくるなんて珍しいわね。そういえば玲ちゃん、噂でプロの楽団がスカウトに来たって言ってたけど、本当なのかしら?」


園田さんは、手を後ろに組んでくるりと回って、ニコッと笑うと


「雪江さん、残念だけど、それは企業秘密よ。」


そんな園田さんを見て、雪江さんはくすっと笑うと


「玲ちゃんは秘密だらけね。もし、プロになったらご贔屓よろしくね。それで、そのボーイフレンド君が今回のお客さんね。名前は何というのかしら?」


私は、自己紹介がまだであったのに気づいて、申し訳なさを感じつつかしこまって頭を下げながら


「申し遅れました。チューバの初心者の藤村創と申します。どうかよろしくお願いします。」


と言った後、顔を上げると、雪江さんは満面の笑顔で


「チューバで高校の初心者って珍しいわね。創君でいいかしら、いいわよ、そんなにかしこまらなくても、まるで娘の結婚の挨拶に来た彼氏みたいだわよ。」


笑いながら言った。


私は、結婚の二文字で動揺して、再び顔を真っ赤にして俯いていると、園田さんはふふっと笑うと


「藤村君また顔が赤いわよ、これで三回目よ。」


と言うと、雪江さんはたしなめるように


「玲ちゃん、あまりからかっていじめないで、創君溶けちゃうわよ。」


と、女性陣二人に集中砲火を受けているので、このままでは、たまらないと思い私は話を変えようと


「雪江さん、チューバの初心者用のマウスピースを試しに探しに来たのですが、お勧めとかありますか?」


と、もともとの本題を切り出すと、雪江さんは穏やかに微笑んで


「今、あまり在庫がないのだけど、とりあえず、ヤマハの67C4とヴィセント・バックの24Wならあるわ、買う買わないは別にして吹いてみたいかしら?」


私は、せっかくなので雪江さんの親切に甘えることにして頭を下げて


「よろしくお願いします。」


と言うと、雪江さんはちょっと困ったような笑顔を見せて


「いいのよ、気を使わなくて、このお店は自分のお家だとも思ってもいいわ。だから、リラックスね、素敵な女の子が隣にいてもね。」


雪江さんはかわいくウインクした。それを見た園田さんは、ちょっと雪江さんと言うよりも早いのかさっそうとバックヤードに入っていった。そして、園田さんは雪江さんが戻ってくるまで、ぷーと膨れながらむくれていた。


しばくして、バックヤードから戻ってきた雪江さんは、膨れている園田さんを見て


「あらあら、玲ちゃんどうしたの?」


と、知らぬふりをした。それに応えるかのように園田さんが抗議を言おうとするより前に、それを押し切るかのように雪江さんは


「はい、創君こっちがヤマハでそっちがバックね。」


と、私に手渡してきた。私は恐る恐るマウスピースを手にして吹いてみると、雪江さんは試すように


「どう、何か違うかしら?」


と感想を聞いてきたので、私は素直に


「ヤマハは部のマウスピースとおんなじ感じがします。バックはそれよりも感覚が柔らくて吹きやすいと思います。」


と言うと、雪江さんは頷きながら、満足した様に


「そうね、ヤマハは本当に入門用で安いから大抵の吹奏楽部の備品はこれよ。バックはそれよりも質がいいから吹きやすいの、でもね、ちょっとねお値段がするのよ。初めてで判る子はそうそういないわよ。創君も将来有望だわ。」


言ったので。私は、首を左右に振りながら、


「まさか、なんとなくなのでまぐれですよ。」


そんな私の答えに雪江さんは、真剣な表情で


「音楽は感覚で表現するのよ。なんとなくでいいのよ。それは覚えていたほうがいいわ。」


と、言った。そして、雪江さんは何かを思いついたのかポンと手を叩くと


「そうそう、せっかくだから私から創君にプレゼントしてもいいかしら。」


と言うと、雪江さんはカウンター後ろの棚から大事そうにCDを一枚取り出して


「きっと、このCDを聴けばきっと勉強になると思うわ。」


と受け取ると、そのCDを見た園田さんは、急に大声を出してCDを雪江さんから奪おうとするかのように手を伸ばしながら


「雪江さん、やめて恥ずかしいわよ。」


と言うと、雪江さんは、いたずらっ子の様にふふっと笑うと園田さんを押しやって


「玲ちゃんの記念の一枚だものね。」


と言いながら私に手渡してきたので一体何なんだろうと、まじまじとCDを見ると


ーー第71回全国中学生ソロコンクールーー


と書いてあり、裏面には最優秀賞金賞園田玲 銀賞吉田健 ・・・と書いてあった。


その事実に今更ながら私は、今身近にいる二人がとてつもない奏者であることを初めて実感した。そして、私は、今まで、まじかでその二人同士互いの接し方を見ていて、何かしらお互いに因縁と想いがすれ違っているじゃないかとそのCDを見て気づかずにはいられなかった。

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