提灯鮟鱇
うたう
提灯鮟鱇
久々に心地よく酔っ払った。
抱えていた案件が片付いて、部下たちと会社近くの居酒屋で慰労会をやった帰りだ。歳の離れた部下たちに、「もう一軒行きましょうよ」とせがまれたが、上司が居ては羽目を外しにくかろうと思い、「お前たちだけで行ってこい。オッサンはもう体力がもたん」と応じて、財布から一万円札を二枚抜き出して部下の一人に渡した。
自宅最寄りの駅に着いて改札を抜けたとき、二軒目に付き合うべきだったなと後悔した。駅の入り口にある時計は、二十時半を今指すところだった。電車に揺られている間までは夢心地でいたのに、急に現実に引き戻されたような気がした。
家に帰ったところで誰も待ってやしない。妻とは四年前に離婚した。出来心でしてしまった一度きりの浮気を、どうやって知ったのか二年も経って妻に問い詰められた。遊びなれた男なら上手いこと誤魔化したのだろうが、残念ながら私はそういうタイプではなかった。二人には子供がなく、妻に離婚を思いとどまらせるものは何もなかった。
私よりは歳下ではあっても別れた妻だっていい歳だったはずだ。それでも彼女は半年前に再婚したらしい。風の噂にそう聞いた。別れた妻に未練はない。が、後悔の念だけは変わらず棘のように深く刺さったままだった。
離婚して、すぐに今の住まいへと転った。閑静な住宅街で、いいところだ。そういうところだからか、駅前には牛丼屋やファミレスはあってもスナックのような飲食店はなかった。
私は仕方なく駅前のコンビニで缶ビールを買って、ちびちびとやりながら帰ることにした。街には、穏やかな川が流れている。川幅は十メートルくらいで芝に覆われた河川敷がある。遠回りにはなるが、私はそこを歩いて、川のせせらぎを聞きながら帰ることにした。
階段を使って河川敷に降りると 川べりを吹き抜ける風の洗礼を受けた。細く心許なくなった私の髪はかき乱されてしまったが、ビールのアルコールを追加してさらに火照った体にはそれさえもが心地よかった。せせらぎのちょろちょろとした音は、程よいトーンの人の声のようにも聞こえて、耳障りがよかった。
十分も歩くと、河川敷を離れて舗装された道路へと戻らないければならない地点まで来てしまった。川のせせらぎも河川敷の芝の感触も名残惜しかったが、これ以上川沿いを進んでは、自宅から離れていく一方である。私は仕方なく、階段を昇った。
階段を昇り終えようかとしたところで、私は白い光に両目を刺された。手で光を遮って薄目を開けると、煌々と白い壁面をライトで灯した家が建っている。
明かりの乏しかった河川敷に居たため、目眩ましのようになったが、何本かあるライトはどれも白い家を照らしていて、河川敷のほうへ光を放っているものはなかった。どうも私は壁からの反射光にやられたようだった。
家は玄関部分の両脇に二本の柱があって、その柱は二階にあるベランダの一部を支えていた。屋根は赤い洋瓦のようなデザインで、全体的に西洋の家屋っぽさがあった。そうした建築物がこの住宅街にあっても不自然な感じはしなかったが、明々としたライトだけは奇異に映った。
「よろしければ、ご覧になりませんか?」
不意に女性の声がして、私は肩をびくつかせた。
「こちら、モデルハウスとなってまして、ご興味ありませんか?」
「いやいや、私は独り身だからね。家なんて買わないよ」
「いえ、ご覧になっていただくだけでいいんです」
そう言って、女性は上目遣いで私を見た。
三十歳くらいだろうか。目鼻立ちが整っていて、美人だなと思った。それでいて大きめの口が愛嬌を感じさせた。制服であろう、赤いジャケットがすらりとした体型に似合っていた。
「ノルマかなにかかね? 営業の電話をかけられても困るから、名前も電話番号も教える気はないよ」
「ええ、構いません」
時計を見たら、もう二十一時が迫っていた。
「しかし、モデルハウスってこんな時間までやってるものなの?」
「平日は意外と需要があるものなんです。仕事終えてからいらっしゃったり」
「そういうもんか。まぁ、いいよ。見るだけでいいのなら」
こちらが面映ゆくなるくらいに彼女は目を輝かせて、「ありがとうございます!」と声を弾ませた。
そして「申し遅れました。ご案内させていただきます、安藤と申します」と言って、するりと名刺を差し出した。下の名前は、千代というらしい。
千代に促されて、屋内へと入った。三和土は黒っぽい大理石調の素材のようだ。
「こちら、シューズインクローゼットになっています」
千代が引き戸を開けると、奥は小さな部屋になっていて、靴を置く棚が並んでいた。
「次はキッチンへ参りましょう。どうぞ中へ」
脱いだ靴は自分で揃えるつもりでいたが、脱ぐとすぐさま千代に揃えられてしまった。続いて、千代がパンプスを脱ぎ、ちょこんと上り框に跪いて、自身の靴を揃えた。千代が立ち上がった瞬間に、ふっと甘くスモーキーな香水が私の鼻腔くすぐった。
キッチンの説明を聞き、リビング、和室、二階の部屋やベランダを回って、すべての部屋を見終えたと思った。
「あとは地下室ですね」
「この家、地下があるの?」
「はい。湿気が籠もりにくいように作ってますから、寝室や物置にも使えます。防音もしっかりしてますので、楽器の練習なんかにも使えます」
千代がドアを開け、壁面のスイッチを押すと明かりが地下へ繋がる階段が姿を現した。細く急な階段で、どこか秘密基地のような雰囲気があった。
「しかし、こんな時間まで女性ひとりで大丈夫なのかね?」
「会社からこんなものを支給されています」
そう言って、千代は防犯ブザーを私に見せつけた。
地下室は防音がしっかりしていると言ったのは、千代だ。千代は男と二人、地下に降りることに不安はないのだろうか。
私には千代を襲うような勇気はない。地下室に千代と二人きりという淫靡で危険なシチュエーションを密かに堪能するのがせいぜいだ。千代のほうから誘ってきた場合はなどと妄想しながら、そんなことはありえないとすぐさま妄想を否定する。でも、ひょっとしたら万が一にもなどと考えながら、千代を追って階段を降りていたら、半ばくらいのところで急に灯りが消えて暗闇に包まれた。
「申し訳ありません! 地下室のほうは灯りがつくはずですから、手すりをしっかり握って、足を踏みはずさないようにお気をつけて、このまま下へとお願いします」
千代に従って、一段一段ゆっくりと進んだ。暗闇と静寂に押しつぶされそうな錯覚を感じながらも千代の香水を嗅いで少し性的な興奮を覚えてもいた。しかし徐々に興奮は不安に呑まれていった。
もう三十段ほど下ったはずである。しかしいつまで経っても、地下室にたどり着く気配がない。千代が地下室の照明を灯す気配もない。
「安藤さん?」
呼びかけたが返事はない。
「安藤さん、大丈夫ですか?」
声を張った呼びかけが、反響して木霊した。千代の返事はない。
私は怖くなって、踵を返し、階段を昇った。
昇っても昇っても、地下室の入り口であるドアにはたどり着かない。降った段数よりも多く昇っているはずであるのに。
千代の体臭混じりの甘くスモーキーな香水の匂いが充満している。
提灯鮟鱇 うたう @kamatakamatari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます