独り

しう

独り

学校から帰ってきた僕はまず、宿題に取り掛かることにした。今日は漢字ドリルだけで、いつもより少し軽めの宿題だ。夜まで時間がないからそれなりに早く終わらせなければいけない。僕は漢字ドリルを持って、一階のテーブルがあるところに行く。今の時間は帰ってきて制服も脱がずに情報番組を見ているお姉ちゃんと、パートに備えて夜ご飯を作るお母さんがいる。テレビでは、有名な芸人が関東のご当地スイーツを紹介していた。

「どーしてこういうスイーツ特集とかがされる県って埼玉とか千葉とかなのよー。東京に住んでるっていうのに」

お姉ちゃんが何やら文句をテレビに向かって言っている。東京は宣伝しなくてもいっぱい人がいるからじゃない? と口に出さずに思う。

「あら、健くん宿題するの? 偉いわね〜」

カレールーをパキパキ割りながらお母さんはそう言った。今日はカレーらしい。

「うん、ここ座ってもいい?」

「もちろんいいわよ!」

カレーのいい匂いを近くに感じながら、僕はリビングのご飯を食べる机の上に漢字ドリルとノートを広げた。シャーペンじゃダメだから鉛筆を使う。漢字ドリルはまず例文を書いて、その下の空いたスペースに覚える漢字を書くけれど、文を書いた方が覚えやすいんじゃないかと思う。

「♪〜」

黙々と漢字を書いていると、夕方を知らせるチャイムが聞こえてきた。5時になったらしい。僕はこれからのことを思って、漢字ドリルをしながら必死に作戦を考えていた。お姉ちゃんはまだテレビを見ている。お母さんもカレーを作るのを終えてお姉ちゃんと一緒にテレビを見ている。約束では7時に学校に行かなければいけない。お母さんはパートに行くから大丈夫だけど、お姉ちゃんが問題だ。どうしようか。

「それじゃあお母さんは行ってくるからね。カレーと、サラダ、残さないでね」

あーでもないこーでもないとノートにいろいろ書いていると、お母さんが出かける6時になっていた。お母さんはカレーの鍋と冷蔵庫を指して、それから鞄を持って出かけていった。さて、と僕は一回深呼吸をした。お姉ちゃんはぐーっと伸びをしてのこのこダイニングにやってきた。

「カレー食べようか、健一」

「うん」

給食ではいつも取り合いになるカレーを好きなだけ食べられる幸せを噛み締めながら、僕はお姉ちゃんにこう言った。

「今日、塾の勉強に集中したいから僕の部屋を開けないで欲しいんだけど......」

お姉ちゃんはカレーをスプーンに乗せたまま少し不思議そうな顔をする。

「ん? まぁいいけど」

お姉ちゃんが僕の顔をジロジロと見る。仮病で学校を休んでしまった時のように胸がドキドキする。ひとしきり見られた後に、お姉ちゃんはスプーンに乗せっぱなしのカレーを食べて

「そんだったら姉ちゃん、健一が勉強してる間ゲーム借りててもいい?」

と言った。

「もちろん」

と僕はすぐに返す。机のデジタル時計は6時半をさしていた。カレーのお皿を水につけて僕は部屋に戻った。動きやすいように半袖短パン、それと懐中電灯を持って、少し大きめの音に設定したラジオを流す。バタン、と扉が閉まる音が聞こえた。お姉ちゃんが自分の部屋に入ったようだ。僕はゆっくり、音を立てないように部屋の外に出る。一歩ずつ、そろりそろりと階段を降りる。そして裏口を使って外に出た。

「ふぅ......」

家から外に出ただけなのに町内をマラソンで走った時よりも汗をかいた気がする。外はヒューっと風が吹いて涼しい。最近の夕方は長いけれど、それでも空はすっかり夜の色をしていた。僕は家のみんなが使う少し大きめのサンダルを履いて、玄関の方に向かった。

「ふーん、やっぱりそうじゃないかと思ったよ」

心臓が止まったかと思った。なんと、玄関のドアの前であろうことか部屋にいるはずのお姉ちゃんが仁王立ちをして立っていた。

「お、お姉ちゃん......どうして」

「私を騙そうったって100年早いのよ!」

馬鹿な、完璧な作戦だったはずなのに。

「さぁ、何があるか話しなさい。場合によってはお母さんに言わないでいてあげる」

逃げ道はないのだと、落胆の気持ちが僕を襲った。


こんなことがあった。「恐怖! 学校の怪談!」と書かれた校内新聞が学校の至る所に貼られた。校内新聞は新聞委員が1ヶ月に1回発行する新聞で、好きな給食ランキングやアンケート、先生へのインタビューなどが書かれていて、普段はみんな外でドッヂをしたりケイドロをしたりするから気にも止められない。けれどもこの特集記事は違った。新聞が貼り出されるや否や学校中でオカルトブームが巻き起こったのだ。『怪談レストラン』は連日図書室の本棚から消えていき5年3組の教室でも皆が家から持ってきたオカルトの本が出回ったり、自分が体験した怖い話を給食の時間に1人ずつ言うだったり、こっくりさんをして神様に好きな人の好きな人を聞いてみたり、とにかくいろんなことが起こった。学校の七不思議も、その中の1つだった。


僕は学校に行くために緩やかな坂を登っていた。涼しいこの時期は好きだけれど、そんな事を思う余裕もなかった。

「ははっ、私の時にもあったねぇそう言う話が」

お姉ちゃんはニヤニヤして腕を頭の後ろで組みながらそう言う。どうしてこんなことに。僕はもう帰りたかった。

「どうして......」

「小学生だけで行くと危険でしょ、だから私が一緒に行ってあげるというわけよ」

絶対自分が行きたいだけだと思ったけど、怖いので言わないことにした。お姉ちゃんはとても楽しそうだった。ほぼ毎日登っているのに今日はいつもより一歩一歩が重く感じる。小学校の校門の前に着いた時、僕以外の四人はもう集まっていた。

「遅えよ、健。ていうか、げぇ、なんでお前のアネキまでいるんだよ」

苛立ちを隠せないのはクラスのリーダー的存在、啓太郎だった。

「げぇとはなんだげぇとは、この野郎」

お姉ちゃんが啓太郎に蹴りを入れようとする。

「まぁまぁ、啓ちゃん、落ち着いて。健一君のお姉さんも落ち着いてください」

二人を宥めるのは穏やかなことで知られる俊太だった。

「もーどうでもいいから早く行こうよー。ね、健一くん」

そう僕に笑いかけるのはクラスのマドンナ的な存在の美香ちゃんだ。

「そう言うわけには行かないだろう、一旦話を整理しよう」

話をまとめようとするのは柔道がめちゃくちゃ強い達也だ。

「お姉ちゃん、やめて本当に。啓太郎もごめん、これには事情があって」

「部外者は入れないはずだろ。どんな事情があるんだ」

なんだかんだで話をちゃんと聞いてくれる啓太郎はいいやつだと思う。家の前で僕はお姉ちゃんに、学校の七不思議を解明するために夜の学校を探検することを白状した。するとお姉ちゃんは

「だったら私もついて行く」

と言った。そのことを説明すると啓太郎はどこか嫌そうな顔で

「俺は嫌だぜ、置いていこう」

と言う。

「何くそこのガキが」

というのはお姉ちゃんである。美香ちゃんは興味がなさそうにふーんとだけ言い、俊太は考える人みたいなポーズを取っていた。

「その方が安心だしいいんじゃないかな? 啓ちゃんも、大人の人がいた方がいいでしょ」

達也はうんうん頷き、啓太郎は少し不満そうに一瞬顔をしかめたが、大きくため息を吐いて

「俊がそう言うならいいよ」

と言った。お姉ちゃんはまだ啓太郎にキレてるみたいだったが、無視することにした。

「それじゃあ行こうか」

僕は懐中電灯をつけ、学校の隣にある神社に一礼して、前を向いた。


学校は四方八方がフェンスに囲まれていて、簡単には入れない。だけれど校門の横にあるめり込むようにして置かれている公衆電話とフェンスの間には、小学生がギリギリ通れるだけの穴が空いている。僕たちは順々に中へ入っていく。

「達也通れるか? ほら、手貸してやるから」

「ありがとう、啓太郎」

「きゃ〜ん入れない、健一くん手、貸して」

「美香ちゃんもう少しかがめると入れるよ。お姉ちゃんは、ってフェンスの上は危ないよ」

「私もここに通ってたんだ、勝手ぐらい分かるっての」

「お姉さん揺らさないでください......フェンスが腕に当たって痛いです......」

「ああごめんよ」

お姉ちゃんがフェンスから飛び降りるものだからぐわんぐわん揺れるしシャカシャカ音も鳴る。危険なのはお姉ちゃんじゃないかと僕は思った。僕たちはまず入ってすぐのところにある体育館に沿って下駄箱があるところまでやってきた。中庭は白い光でいっぱいで、今日は本当に月が綺麗だ。下駄箱のガラス扉はいつもは閉まっているけれど今日は僕が日番だったので、職員室から鍵を拝借していた。明日の日番が啓太郎なのでその辺も抜かりはない。ガラスに反射する僕たちは、俊太は少しビクビクしているようで美香ちゃんと達也、啓太郎は落ち着いている。なんだかそわそわしているのはお姉ちゃんだった。中はやっぱりというか当然というかとても暗い。すぐ近くの歩道の街灯と月明かり、そして僕が持つ懐中電灯だけが頼りだ。

「懐かしいねぇこの匂い。お、廊下を走るなマンってまだあるんだ〜」

「お姉ちゃん少し静かにして。俊太、最初はまずどこだっけ?」

俊太の方に懐中電灯を向ける。学校の七不思議を調べるのは俊太の役目だった。

「ええとまずはね“夜中に音楽室から演奏が聞こえてくる”だね」

俊太が自作で作った七不思議ノートを見ながらそう言う。

「誰かがピアノでも弾いてんのか?」

「うん、そうみたいなんだ。有名な音楽家の肖像が絵の中から出てくるんだって」

「きゃーこわーい健一くん」

「えーっと、美香ちゃん。健一はこっちよ?」

「ふんっ」

僕は音楽室の肖像を思い出す。威圧感を感じるベートーヴェンやバッハの姿を思い出して、少し身震いした。

「大丈夫か健一?」

達也が心配そうに聞く。こんな時でも落ち着いている達也はすごいなと思った。

「うん、大丈夫。それじゃあまずは音楽室に行こうか」

お姉ちゃんの靴がコツコツと軽快な音を鳴らした。


下駄箱がある棟と反対側の棟にある音楽室に行くため僕たちは渡り廊下を超えて3階に上がる。誰もいない教室や水槽が怪しく光る理科室前とか、怖さだけではないワクワクを僕は感じる。みんなもそうなのか美香ちゃんはしきりに僕に引っ付こうとするし啓太郎は俊太を驚かして俊太はその度に声にならない悲鳴をあげていた。達也はいつも通りだ。しかし一番はしゃいでいたのはお姉ちゃんだった。

「あんた美香ちゃん好きなんでしょ」

とか

「うーわこういうポスター懐かしい! 環境美化とかなんもわからず使ってたなぁ」

とかとにかく一番うるさかったし、嬉しそうに歩いていた。音楽室に着いた僕たちは耳を扉に当てた。なにも聞こえない。それではと思い僕はドアを開けようとした。ドアはガチャガチャ言うだけで当然開かない。

「健一、音楽室の鍵はあるか?」

達也が僕にそう聞く。

「ごめん、鍵は下駄箱の鍵しか取れなかったんだ」

特別教室の鍵はみんな担当の先生が持つから入手難易度はマックスだ。

「ま、いいさ。大体音も聞こえてこねぇし次行こうぜ」

啓太郎がそう言って足早に行こうとする。

「うん、ごめんね啓太郎。記録を頼む、俊太」

僕は俊太にそう言って俊太はノートにチェックマークをつける。どこかつまらなさそうな顔をしている美香ちゃんを見て

「次に行こうか」

と少し焦り気味に僕は言った。このまま何も起きずに終わるのだろうか。


「次はトイレの花子さん。この棟の最上階、家庭科室のすぐ横にある女子トイレの一番端っこで3回ノックして、はーなこさん、遊びましょって言うと花子さんが出てくるんだって」

「オッケー、次は何か出るといいな俊」

啓太郎がからかうように言う。

「......」

俊太は無言で頭を抱える。本当に怖いようだ。

家庭科室は音楽室の横の教室のすぐ上にあるので、僕たちは階段を上がってそっちの方に進む。

「女子トイレ、ってことは私の番だね健一。姉ちゃんが花子さんだかなんだか知らないけどぶっ倒してくる」

ぶんぶん腕を振り回すお姉ちゃんを見て、お姉ちゃん以外のみんなが顔を合わせた。怖いし、行ってくれるならちょうどいいと思ったのは僕だけじゃないだろう。ふと家庭科室の方を見ると、中の様子が少しだけ見えた。自然学校のためのナップサック作りの完成品と、その作りかけがたくさん置かれている。

「それじゃあお姉ちゃん、よろしく」

僕は振り返る。

「うん、目にモノみせてくる」

お姉ちゃんが光ひとつないトイレの中に入っていった。姿が全く見えなくてゾッとした。いつもは弱音を簡単に吐かない啓太郎も

「なんか、ちょっとだけ怖いな」

と言う。美香ちゃんは花子さんの検証に立ち合わないようで僕の後ろで興味深そうに中を覗いている。俊太は僕の懐中電灯でノートを見て、達也はここでも落ち着いて腕組みをして奥をじっと見ている。

コンッコンッコンッ

「はーなこさん、あっそびましょ」

お姉ちゃんの子供のような声が聞こえてくる。30秒ぐらい経った。何も起きない。また30秒経った。お姉ちゃんがつまらなさそうにトイレから出てきた。

「何も起きなかったな」

「うん」

「うん」

俊太はノートにチェックをする。

「俊太、次はなんなんだ?」

達也が低い声で俊太に聞く。

「ええと次はね“図工室のモナリザ”目が合うと襲ってくるんだって」

「図工室かぁ、また遠いところだなぁ俊」

図工室は反対側の棟の左端に教室がある。少しめんどくさいなと思っているとお姉ちゃんが

「あんたらちょっと先に行ってくれない? 私トイレ済ませて行くから」

と言った。ただでさえ怖いのによく行くなと思ったが

「うん、図工室の場所は分かるよね?」

「もちのろんよ。わたしゃ先生から平成のダヴィンチと呼ばれてたんだからね」

と胸を張ってそう言った。

「早く行こうぜ」

と言ったのはもちろん啓太郎であった。


二階まで降りて渡り廊下を歩いているとドタドタ走る音が聞こえてきた。咄嗟のことに驚き、僕たちは

「うわあああ」

と言いながら急いで渡り廊下を渡る。しかし、早い、早い。図工室の前まで走って追いつかれた時、美香ちゃんがあり得ないほど驚いた顔をしてあわや倒れそうになったところを僕が受け止めた。みんな顔面蒼白である。恐る恐る懐中電灯を向けると、そこにはよく知る顔が写った。

「なんだ、健のアネキかよびっくりさせんなよ......」

啓太郎が怖さ半分、キレ半分でそう言う。

「キレたいのはこっちよ!」

と言うのはお姉ちゃんの方である。

「怒らないから言いなさい、誰が私の扉をノックして笑ったりしたの?」

「えっ」

僕の後ろには美香ちゃんがずっと付いていた。そして他の三人もちゃんといたはずだ。懐中電灯の光が弱まったような気がした。

「ああ、ごめんよそれ僕だ」

誰かが言った。誰だ? と僕は思った。誰かの声だと僕は思った。知っている声で、聞いたことのある声だと思った。だけれど僕は分からなかった。それは啓太郎の声でもあるように思えるし俊太でもあるように達也や美香ちゃんでもあるように、そして僕の知っている他の誰かでもあるように思えた。けれどそう思ってるのは僕だけのようで、みんなは納得しているようで

「次からは、やめなさいよ」

とお姉ちゃんも言うだけだった。

「やっぱりここもダメみたいだぜ、鍵がかかってら」

啓太郎の声で僕は我に返った。

「そっかぁ、啓ちゃんありがとう」

そう言って俊太はまたノートにチェックをする。僕は自分の感覚がわからなくなって、達也に声をかけた。直接言うと何か怖くて

「達也、なんかおかしくない?」

達也ははてと首を傾げ

「今のところは何も起きていないはずだ」

と言った。僕は

「そっか」

としか言うことができなかった。美香ちゃんが

「次はプールだって、健一くん」

と話しかけたところで、とりあえず目の前のことに集中することにした。

「“引っ張られるプール”それが次の不思議。昔プールがあったところに肥溜め?があって、江戸時代に心中した夫婦の霊が出るんだって」

僕は頭の辞書を広げるが、肥溜めも心中もよく知らない言葉だった。しかし心中はどこかで見たことがある漢字だった。

「心中とはまた」

「どう言う意味なの? お姉ちゃん」

「肥溜めは畑を耕すための肥料を入れるための、まぁそういう井戸みたいなね。心中は愛してる人と一緒に死ぬ事」

「なんでそんなことするんだよ、意味わかんねぇ」

啓太郎くんは本当に分からないといった感じにそう言う。お姉ちゃんは真面目そう顔で

「色々あるんだ。あんたらもそう言うのをこれから知っていくはずだよ」

と言った。そういえばお姉ちゃんの部屋の机の上に『赤目四十八滝心中未遂』と言う難しい本があったことを思い出した。語感が良かったから、僕はなんとなく覚えていた。

「ふーん」

啓太郎はなにも言い返さなかった。

「グラウンドを突っ切った方が早いよね、健一くん」

俊太がそう言った。プールはさっきの家庭科室や音楽室があった棟の近くで、トイレや更衣室がある小さなハコのような建物のすぐ近くにある。

「うん、そのほうが早い。じゃあ行こうか」

さっきの声がまだ、僕の頭の中で反響していた。


プールまで着いて、またお姉ちゃんがはしゃぎ出した。

「ん〜この塩素の匂い、いいわねぇ」

「お姉ちゃんの高校にプールはないんだっけ?」

僕たちは夕方にサッカークラブの人達がトンボをかけた後のグラウンドを横切って、ここまで来た。ごめんなさいと心の中で思った。

「そうよ、プールの代わりに柔道、つまらないわー」

達也が苦笑いしていた。僕はごめん、と達也にジェスチャーを送った。プールに入るための扉は鍵がない。碇のようなものが付いてるドアをくるくる回し僕たちはプールサイドに入った。

「私プールきらーい、シャワー冷たいし」

美香ちゃんが入るなりそんなことを言う。

「ああ分かるわ〜寒いよねぇ」

ここにきてお姉ちゃんと美香ちゃんが意気投合していた。

「それじゃあ少しだけ調べようか、と言っても見た感じ何もないからプールを見ながら少し歩くぐらいで」

プール開きは3週間ぐらい前に終わっていて、今日も授業で使われた水がそのままにしてある。プールのある日はその時間が楽しみだけどこのプールは河童が出そうだと思った。個人個人でプールを見て回ったが何もなく、僕はみんなに声をかけた。

「なんにもないからそろそろ行こうかー」

その瞬間、ビシャッ。と大きな水音が聞こえた。

「おいっ! 大丈夫か達也」

音がした方に目を向けると達也の下半身が水に浸かっていた。両の掌を石畳につけて、落ちそうになっている。急いでみんなが達也の元へ走る。今はルールなんて気にしている場合ではない。懐中電灯で達也を照らすと、達也は溺れている様子もなく落ち着いていた。

「ごめん、みんな。足を滑らせて浸かってしまった」

なんだ、と思っていると。

「どひゃああああ!!」

と美香ちゃんが大きな声をあげた。達也の左足を指さしている。何かと思って見てみると、何か黒いものが達也の左足にまとわりついていた。黒い、手形のような。

それでも達也は落ち着いた様子で

「ああ、これはゴーグルだ。誰かが忘れたらしい」

と言った。そう言って黒いゴーグルを引き上げる。

「なんだ......けど良かったよ達也」

「うん、今ちょっと本当に怖かったけど達ちゃんが無事で良かった......」

「一応見せてみな、お姉ちゃん保健委員だから」

「美香ちゃん、大丈夫だから。安心して」

「うん......ありがとう健一くん」

達也に対した怪我はなかった。お姉ちゃんが持ってきたハンカチで足の周りを拭き、次へ行くことにした。プールから出て行くときに

「ごめんねぇ......私はねぇ、私は......」

と誰かの声が聞こえたような気がした。振り返ってももちろん誰もいない。今日は涼しい風が吹く。だから風の音だと僕は思う、そう思いたかった。


「次は“幽霊たちのバスケットボール大会”」

時計台がある中庭を横切り、僕たちは体育館に向かって行った。暗い中で目を凝らす俊太の声に耳を傾ける。

「夜、あかりひとつない体育館の中で、ポーンポーンってボールをつく音が聞こえてくるんだって。参加してしまったら最後、一生帰れなくなる......」

「あー私たちの時もあったよその不思議」

お姉ちゃんがそんなことを言う。

「そうなの?」

「うん、結局解明はされなかったんだけどね。私はなんだか歴史を感じて嬉しいよ」

暗くてよく見えないけどお姉ちゃんはきっとしみじみとした顔をしているんだろう。

「着いたね。ちょっと耳を澄ましてみようか」

みんなで体育館の扉に耳を当てる。すると、ポーンポーンとボールをつく音、コンコンとピンポン球を弾く音、そしてガシャンと金属の音が聞こえてきた。

「ねぇ聞こえちゃったよどうしよう」

俊太がこれまでにないほど怯えている。

「お、おう」

とどこか達也も怖いみたいだ。

「きゃー怖い」

さっきの悲鳴とは似ても似つかない可愛い声が僕の袖を掴む。

「よし、これはいっちょ」

とお姉ちゃんが言う。

「暴いてやる」

と啓太郎が言う。僕が

「待っ」

て。と言う前に二人は体育館の扉を開け放った。そして素早く僕から懐中電灯を奪い、音のする方に電気を向けた。

「あれ? なにやってんだお前ら? というか誰だそこの女は」

担任の藤枝先生がそこにいた。


「ああ、お前山本か! 懐かしいな」

幽霊の正体は先生だった。まず電気がつけられて、こっぴどく怒られた。その後でお姉ちゃんの存在に気づいたみたいだった。先に気づいて欲しかった。

「ちょうど山本が学校にいるときぐらいに赴任してきて、金曜の夜だけ社会人バスケの練習会を開いていたんだ。今じゃ、俺以外いないがな。ははっ」

なんと、悲しい。色々と思うことはある。とりあえずみんな落胆の表情を浮かべているのは当然で、だって七不思議の正体が担任の先生って。

「ポーンポーンとかコンコンとかそしてガシャンとか、めちゃくちゃ怖かったです、先生」

僕は言う。

「コンコン? そんな音したか? それより懐かしいなぁ山本、高校でも元気してるか?」

「先生こそ〜、彼女いるんですか?」

「ははっ、まだいないな!」

そんなどうでもいい会話が続く。正直もう帰りたかった。

「これがオチかよ」

と啓太郎、

「まぁ良かったじゃん啓ちゃん。怖いこと起きなくて」

と俊太。

「つまんなーい」

と美香ちゃん。

「......」

と達也。とにかく疲れた。お姉ちゃんと先生の声がこだまする体育館の中で、僕たちはただただ落胆するばかりだった。夏のドキドキ! 七不思議学校探検の終わりはどこまでも現実的で、なんとも言い難い空気が僕たちの周りに流れるばかりだった。


それから一週間ほど立って、怪談ブームは収束した。オカルトはサンタさんと一緒で子供が信じるものだとか、そんなことが盛んに言われるようになって、クラスではまたドッヂやケイドロが流行を取り戻した。ただ、不思議なことが一つあった。体育館が一週間使えなくなったのだ。その理由は誰にも伝えられなかったし、そもそも水泳の授業があったので誰も気に留めなかった。だから知らなかった。みんな、知らなかった、いつのものかわからないぐらい古くて、そして乾ききった血だらけの卓球ラケットが体育館で見つかった、なんてことは。

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