(二)-1

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 晋作が数え二十二歳の万延元年(1860)の時の事である。

 春先の桜田門外の変などで世情が揺れ動く中、藩から江戸赴任を命じられた。その後半年近くの勤務を終えて帰国し、藩校明倫館に顔を出すと、先日土佐の剣術家の一行が演武場(剣道場)に武者修行に訪れ、発ったばかりだと教えられた。

 明倫館でも地元の私塾でも秀才として筆頭を務め、江戸の昌平黌にも留学した晋作であってみれば、優秀な学者でもあるというその剣術家・武市半平太に関心が湧いてしかるべきであっただろう。

 だが実際に心が惹かれたのは、武市ではなかった。武市が連れていたという弟子の青年に対してだった。

 稽古の相手をした道場仲間たちが、明らかに興奮した様子で語るのである。

 力が強い、動きが速いという以上に、呑み込みが早い。教えられたことをすぐできる。頭と身体が完全に一体となっちょる、ありゃあ天性のもんじゃ。

 こがな弟子を持てたら師匠冥利に尽きる、武市どのが羨ましゅうてかなわん……と、内藤先生の顔にもろに書かれちょった。あそこまで本物であれば嫉妬する気にもなれんちゃ。

 晋作自身も少年期から剣術修業に打ち込んだひとかどの剣士だ。だから、優れた天分を持っている剣士に惹かれるというのは理屈としてはわかる。しかしそれではない、と直感が告げている。

 武術は大の好きだが、それでも結局自分の本領は頭を使うことにあると晋作は思っている。だがこれまで、並外れた俊才の話を聞いて心惹かれても、ここまで身の内が騒ぐ感覚はなかった。

 顔も知らない、土佐の岡田以蔵という青年になぜここまで執着が湧くのか。どうしてもわからなかった。


 時勢の転変の激しさは、女心と秋の空よりもなお甚だしい。

 薩摩が前代未聞の率兵上京をして幕府の権威をゆるがし、帰りがけの駄賃に異人を斬って攘夷の実を上げた。徳川専制支配にたまりにたまった不満という火薬庫に対する、それは十分に火種となりうるものだった。

 江戸でも京都でも攘夷と天誅の嵐が吹き荒れる。国を捨てた浪士の類も多かったが、やはり主立っていたのは土佐と長州だった。

 文久二年(1862)、晋作は江戸に在り、長州過激派の江戸組の首領の立場にあった。

 同じころ、あの武市半平太は自ら結成した土佐勤王党の党首として、京都で天誅暗殺を繰り返していた。その手先として岡田以蔵は働き、率先して人を斬っているという話も伝わって来ていた。

 失望するというのでも立派だと思うのでもなかった。やはりそうなるか、そうなるしかないだろう……という、自分でもよくわからない納得感を晋作は覚えていた。


 その岡田以蔵がひょっこりと、江戸の長州藩邸に現れたのが文久三年の二月初めのことである。

 土佐藩の使いというのではなく、江戸であてもなくさまよっていたところを京都で顔なじみになった長州藩士とたまたま出会い、連れてこられたのである。

 初めて目の当たりにする岡田以蔵は、身体こそ大きく顔立ちもいかつかったが、人斬りという呼び名にそぐう威圧感は微塵もない、ひどくうらぶれた男だった。

 長州に来た時晋作より一つ上の二十三だったというから今年で二十六になるはずだが、それにしては老けているようでもあり、幼稚なようでもある。舌の周りの悪さがそれに輪をかける。

 それでもどうにか訊きだしたところによると、武市のもとに居づらくなり、京の土佐藩邸を出奔してきたらしい。

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