ツキ

 ツキが帰宅して布団に入ったのが朝の7時半。それはよく覚えている。

 本当なら夜の仕事に間に合う時間、16時位に起きれば良かった。今日は体調がいまいちなんだから尚更ギリギリまで寝ていたかった。

 それにしても頭痛が酷い。

 そのせいで昼前には目が覚めてしまい、そしてこんな時に限って鎮痛剤が切れている。しばらく布団の上でゴロゴロした後、意を決してツキは起き上がった。

 そういえば今日、練習スタジオに予約を入れていたのを思い出した。慌ててスケジュールアプリを立ち上げる。14時から2時間。しばらくライブの予定は無いが、1度サボってしまうとそのままズルズルと怠けてしまいそうで、とりあえずスタジオに行くことに決めた。

 体調を考えるとキャンセルかどうか悩むラインなのだが、コインランドリーとドラッグストアにも行きたい。それならついでにスタジオに寄っても良い。これくらいの頭痛、薬さえ飲んでしまえばなんとかなるだろう。新しいアコースティックギターも1度試しておきたい。これはスナックの客に譲って貰った良い物だ。「買ったは良いけど全然使ってないから」と、こんなものをポンと水商売の女にくれるなんて、どうかしている。

 だけど今日のスナックの仕事は休もう。あとでママに電話をしなくては。懐は少し痛むが、いざとなればあの10万円は自分のために使ってしまってもいい。

 体調が良ければ部屋の掃除もしたかったな、とぼんやり考えながら着替える。

 一見ひとり暮らしには広いマンションに思えるが、大分築年数が経っている古い物件である事、昔トラブルのあった部屋という事で意外と安く借りる事が出来ている。2つのバイトを掛け持ちして、不定期的な故郷からの仕送りのお陰でなんとかなっている。


 ギターを背中に背負い、スナックの仕事用やライブ衣装のワンピースを何着か詰めたビニールバッグを片手にコインランドリーに向かう。

 荷物が多い時は逆に自転車は使えず徒歩になってしまう。でもギターを抱えて自転車を乗り回すのは流石に無理がある。マスクをして、気持ち早足で歩く。ドラッグストアは駅前のあそこで良いかな、などとぼんやり考えながら。


 ランドリーの出入り口で偶然「みこさま」と擦れ違った。

 けいさまだ。

 彼はこの街で新たな名前を与えられ、桂、と呼ばれている。ツキは心の中でずっと桂様と呼んでいる。みこさまを違う名前で呼ぶのは不謹慎なのかもしれないが、心の中でならどう呼ぼうと自由ではないか。

 緊張する。

 あそこのバーで働いている彼、桂様はいつ見ても美しい。

 昔から、まだ未成年だった頃から、あの町の巫女に選ばれた子供の時から、ずっと美しいままだ。


 前回の大祭の最後の儀式は新たな筆頭巫女となった彼が町の中を練り歩く、いわゆるお披露目と呼ばれる物だった。

 あの時、新たな巫女様の姿にどれだけの信者が心を奪われたことだろうか。

 真夜中でも彼の姿ははっきりと浮き上がって見えた。

 そしてその後定期的に神事の度に信者の前に姿を現し、成長すればする程彼は人の心を奪って行くのだった。ある時から不意に、彼の体が弱い事を理由に多くの神事が非公開とされる事が増えた。たまに公開される神事でも、全ての巫女が面で顔を隠して執り行われた。昔の様式を復活させたというのが宗教側からの発表だった。皆それを信じた。

 まさか筆頭巫女が失踪していたなど、その頃の一般信者は知る由もなかった。


 桂様の肌は真っ白で光沢があり、どんなに空気が煙っていようと夜だろうとなんだろうと緩やかに発光しているように見えるのだった。

 髪の色はトウキョウに来てから随分明るく変わったが、それでも彼の造形美は最後に姿を見たあの頃と変わらないまま。彼の肌にタトゥーを入れる事を決めたあの男の事だけは未だに許せていないが。

 ランドリーの出入口で彼はツキに気が付き笑顔で軽く会釈をしてきた。

 多分ツキがあの町の、あの宗教の信者とは気付いていないはずだ。ただ彼の店の客だから愛想を振り撒いただけだろう。ツキの正体に気づいていれば、むしろもっと警戒するだろうから。

 彼はいつもドアという境界を越える時、右足で跨ぐ。

 そして少し俯き目を閉じ早口で「失礼します」と口にする。その声はとても小さく、騒がしければ誰も気付かない。今日は風の音に掻き消された。

 あの町を出ても抜けない、彼の巫女としての癖だ。

 彼が視界から消えるまで、ずっとその背中を見ていた。


 練習スタジオのスタッフの男は若いアルバイトで、いつも態度が良い。彼も案の定バンドマンで「来月隣の駅のM…ってハコで主催ライブやるんですけど、前座頼んでた地下アイドルが急遽出られなくなっちゃって。ツキさん良かったら代わりに出てくれませんか、最初の日曜日なんですけど」と頼んで来た。彼の頼みなら、と思い、いいよ、と答え、詳しくはあとで連絡して、と言い、ツキはスタジオに入った。

 ギターを下ろし、スマホのスケジュールアプリを立ち上げる。

 1年。

 東京に来て、この春で丁度1年になる。

 いつまで自分はここにいるのだろう。

 そろそろ目的を果たして、トウキョウを捨てて、故郷に戻らなくてはいけないのではないか。

 

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