ツキとホシクズ
前々からあの男は態度が悪かった。
いつもツキのやることなすことに文句をつけてくる。いつも言葉でツキをコントロールしようとして来る。こちらはこちらで信念を持って目的のために行動しているだけだ。だけどあの男はいつもツキの行動をコントロールしてくる。
なんだっけ、腹立つ男はグレッチでぶん殴っていいんだっけ。昔の歌にそういう歌詞があるって随分前に誰かに教えて貰った、気がする。それが正しい歌詞かは知らない。間違ってるかもしれない。でも殴りたい。
「なんなの、私疲れてるんだけど」
イライラした口調を隠せない自分は今とんでもなく嫌な顔をしている事だろう。この時間の大気汚染濃度はそれ程悪くはなく、ガスマスクではなく不織布マスクだけでもなんとか外出出来るレベルだ。口許だけでも醜いのを相手に見せずに済んでいるのはまだついている方、なのかもしれない。自分がヒステリー持ちの自覚はある。でも抑えられない時がある。
仕事が終わったばかりのところで突然声を掛けられて苛ついていたのもある。
深夜0時にスナックの仕事を終え、終電に乗り、自宅でシャワーを浴び、着替えて少しだけ休んだら午前3時から弁当屋のアルバイトだ。午前7時の開店に間に合わせるために、数人のパートと共にひたすら惣菜を作り続ける。それはさながら戦場だ。
今日は余り体調が良くなかった。
そうすると優しいパートのおばちゃんが「今日は人も揃ってるしツキちゃん少し早く上がってもいいんじゃない」と店長に声を掛けてくれた。店長はあっさり「いいよ、今日は早上がりしな」と応えた。
早朝、6時過ぎに店を出ると、軽く咳をしてしまう。これは風邪というわけではなく、ただただ外の空気が悪いだけだ。トウキョウのこの空気の悪さにだけはなかなか慣れることが出来ない。
これでもまだ警報は出ていない。咳が出るとはいえ今日はまだましな方だ。午後になれば警報が出そうな、そんな空気ではあるのだが。風が強い。余り好きな天気ではない。
すると店の目の前にあの男がいて、ツキの事を呼び止めて来た。
めんどくさい。
この男と一緒にいるところは余り人に見られたくない。
ホシクズとか呼ばれているならず者。昨年潰れたライブハウスのスタッフだ。
それ程長い話でない、と彼は言うので、その言葉を信じてビルの階段を共にあがる。ここの2階の踊り場ならしばらく誰も来ない。2階は空きテナント、3階の歯医者と整体は確か開くのが9時からで、従業員が出勤して来るのは早くても8時頃と聞いている。今なら他人の目を気にせずに済む、内緒話には最適な場所だ。
「店長の行方なら私は知らない、ってオーナーにも言ったはずなんだけど」
何度もした話をまた蒸し返されたくは無い。早く帰って眠りたい。なんでこんな体調が悪い時に限って足止めを食らわなければならないのだろうか。
「でもあんたはさ、店長のお気に入りだったじゃん」
正直自分は動員が少ない割には良いイベントによく入れて貰えていたのは否定しない。
それでも特に自分の客が大きく増えることはなく、いつだってチケットノルマは払わなくてはならないし、何か特別な恩恵があったわけではない。店の中で打ち上げをやる時にこっそり代わりに金を払って貰った事がある、その程度の楽しみしかなかった。酒を呑んでいる間だけは楽しい気持ちでいられたから。
あの店長の事を男として意識していたのは否定はしない。16も年が上のバツイチの男を、ツキは満更でもなく思っていた。
「そりゃ確かにね、失踪する日に私に電話掛けて来てたのはほんとだけど。でも今は全く連絡がない、何してるかなんて知るはずないでしょ」
あの時店長は「ツキちゃん、ごめんな」とだけ言って電話を切った。そのまま行方知れずになった。それからすぐにライブハウスは機能停止してしまい、残ったスタッフとオーナーから今後の全てのスケジュールがなくなること、店長の行方について知っている事があれば連絡してくれ、と電話が来たのだった。
オーナーが手を尽くして店長の行方を捜している事は知っている。
ホシクズは今自由が利く体だから、体調が良ければそれを手伝っていると言っていた。
しかし所詮素人のやることだ、なかなか行方が掴めないままだという。もしかしたらもう生きてないのかも、とオーナーは肩を落としているらしいが、実際行方知れずを探すのはそう簡単なことではないだろう。
「あんたが最後にうちのハコに出演した時に店長から封筒受け取ってたの、俺は見てたんだけど」
多分この男がライブハウスをクビになる数日前位の事だ。
ああ見られてしまったんだな、本当にこの男はめんどうだなと思ってしまう。
店長の行方を知らないのは本当、そして金をもらってしまったのも本当。
そしてその金の処遇は秘密にしたい。所詮あぶく銭だ。でもツキには必要な金だった。いや、ツキ達、と言うのが正しいのだが、この男にそこまで話す必要はない。
「あの金の事は見なかった事にして欲しいんだけど」
そういうわけにはいかないのはわかっていても、そう口をついて出てしまう。出来るだけ笑顔で穏健に言ったつもりだが、それが我ながら軽薄で、とてもこの男の心を動かせるとは思えなかった。しかしトウキョウに来てから人に媚びる癖が強くなってしまった。上手く媚びないと上手く生きられない。
「まあ店長の持ち逃げした金があの封筒に全部入ってるとは思ってねえよ、あの程度の厚さで全部のはずがない」
あの時期はライブハウスの周年イベントで人気のバンドが連日凱旋公演をしていた。
約1ヶ月その祭は続いた。キャパ300程度の小さなライブハウスは珍しくソルドアウト公演が続き、金庫にはほんの数日分の売上だけでもそれなりの大金が入っていたのだと言う。日によってはビールの売り上げだけで今月のバイトの給料が払える位、とさえホシクズは言っていた。それはちょっと大袈裟に盛った話だとは思うが、丁度あの時期ライブハウスの景気が良かったのは満更嘘ではない。
外の行列や出待ちを捌くのに大分苦労し、近隣とのトラブルも最高潮だった、とはあの時に店長が零していたのも覚えている。
ホシクズは軽く咳き込む。
彼はガスマスクを右手にぶら下げたまま、背中を丸めて立っている。煙草は止めたと言っていたが、元々肺が余り強くないのだろう。体は大きいのにその見た目に似合わず弱い。
咳が出るならマスクをすればいいのに、と言うと、今日はなんかマスクしてる方が息苦しくて、と言って外したままだった。
酒と度重なるオーバードーズで大分体にガタが来ているのだろう。ライブハウスで初めて会った時に比べたら少し痩せたようにも見える。その割に顔はむくんでいる。そして微かに酒の匂いがする。機嫌が良いのか悪いのかさえ判断がつかない。
「これでもまだ今日は調子が良い方、新しい仕事も決まりそうだし今日はちょっと機嫌が良いのよ俺」
ホシクズはそう笑う。機嫌が良いなら今日は強気に出ても許されそうな気がする。
「あの10万円、あんたに渡したらもう私に付き纏わない?」
軽口のつもりでそう口にすると、ホシクズはしばらく黙り込む。
「なんか言ってよ、ていうかホシクズさ、あんたも借金してるみたいだけどなんでなの?仕事がなかなか決まらないだけ?」
沈黙に耐えきれずホシクズの腕を軽く叩く。何か答えて欲しい、嘘でもいいから。
「ギター買う時にローン組んだだけだよ」
「それだけにしてはちょっとめんどくさいところから借りてるみたいだけど?」
ライブハウスを介して共通の知人は何人かいる。この男の悪い噂は少なからず耳に入って来るのだった。
「ローンとは別に昔のバンドのメンバーに騙されて金を持ち逃げされただけの話よ、でもそれは大分前の話。借金は建設現場の仕事したお陰でこないだなんとか返せたよ、お陰で無一文になったけどな」
だからオーナーが店長を探す気持ちがわかる、協力してるのはそういう理由、とホシクズは笑った。しかしその笑顔は作り笑いにすらなっていなかった。ただただ哀しそうな男の自虐に満ちた顔でしかない。
「ほんとは人のトラブルに無駄に首突っ込むもんじゃないんだよな、そのお陰で今ろくでもないよ俺の生活は」
「私だって巻き込まれて迷惑してるんだよね、今回の事」
店長は失踪する直前、疲れた、とよく口にしていた。そしてある日突然金庫の中の金を全て持ち出して消えた。
その数日前、10万円入った封筒を突然ツキに渡して来た。パチンコで勝ったんだけどツキちゃん元彼に金借りてたんだろ、これで返しなよ、と口元だけで笑い無理矢理押し付けて来たのだ。目はトロンとしていて遠くを見ていた。その目には光がなかった。
あの時の店長はもしかしたらツキに止めて貰いたかったのかもしれない。
しかしツキは目の前の10万円に理性を失った。
元彼に金を借りていたというのは男の同情を引くための嘘だ。
スナックでそれっぽい事を話すと馬鹿な男は同情して優しくしてくれるから。ただ金が欲しかっただけ。その10万は今、大事な場所に隠してある。店長が気紛れにくれた指輪は金のためについこないだ質に入れてしまったが大した金にはならなかった。しかしある程度まとまった現金となれば話は別だ。
「ツキさんさ、あんた関西のちょっとめんどくさい地域の出身だろ、あんたの地元☓☓だよな。俺も関西だから、あんたのいた場所がどんだけヤバい場所かはなんとなくだけど知ってんのよ」
唐突にそう言われ、声を出せなくなる。
スナックでは兎も角ライブハウスでは余り地元の話はしないように気を付けていたつもりだが、まさかこんなカスみたいな男にそこまで知られているとは思わなかった。方言、だろうか。しかし関西訛など特に珍しくはないはずだ。どうして。ツキの動揺を全く気にする事なくホシクズは話し続ける。
「店長はさ、バカだけど優しかったんだよな。自分も若い頃にド田舎からプロ目指して上京して苦労してたから、あんたみたいな地方から夢見て出て来たバンドマンには甘かったわけ。俺もなんだかんだで面倒見て貰ったからさ、だから裏切られて凄いショックだったのよ」
そう、あのライブハウスは複数の飲食業を掛け持ちしているオーナーの人脈と元バンドマンで叩き上げの店長の人柄で表向きは一見上手く回っているように見えていた。それは誰も否定しないだろう。
「まあでも特にツキさんに対してはガチ恋だったよな、店長。スナックにも時々顔出してただろ、たまに店の仕事ほっぽりだして会いに行ってたの俺は知ってんだよ。別に店長だから毎日店に詰めろとは言わねーしたまに居ないくらいなら俺達だけでも店は回せたからいいんだけど」
でも結局仕事に疲れて爆発しておかしくなって金に目が眩んで飛んだから本当にバカだったんだけどさ。ホシクズはそう言って悲しそうに目を伏せる。
あんたに、あんたなんかにあの人の何がわかるというの。
「俺はオーナーに頼まれて店長探してる、だけどそれはそれとしてあんたがコソコソやってる事も気になってる」
それは俺の友達に関わる事だから、とホシクズの口から洩れる。
「ともだち?あんたに友達なんかいるの?」
つい嫌味な口調になってしまう。
「………昨日うちのアパートに空き巣が入ったんだよ、まさか犯人あんたのお友達じゃないよな?」
「はあ?」
それは完全にあんたの妄想だよ、知るはず無い。
そうきっぱり否定したが、何故心臓が急に痛むのだろう。
それにしてもこの男、鬱が相当悪化しているのだろうか。前はちょっと酒癖が悪いだけでここまで疑心暗鬼な性格ではなかったはずだ。ライブハウスにいた頃は、ここまで突飛な発言を聞いたことがない。
「私は何もやましいことはありません、ていうか今日は疲れてるからまたにしてくれない?」
ツキは踊り場から外の通りをチラリと見る。早朝の、人気のまばらな繁華街。すぐそこの電柱の陰に知った顔が立っているのが見えた。ヤマダだ。ツキとヤマダはお互いチラリと視線を交わし合い頷きあう。
ツキとヤマダは同郷の仲間だ。これだけは誰にも言ったことはないが。
「わかった、お前弁当屋のシフト平日だけだろ。また今度話しに来るよ」
ホシクズの声に無言で頷くと、ツキは先に階段を降りた。階段の途中でチラリと振り返るとホシクズは踊り場に立ち尽くしたままぼんやりと白み始めた空を眺めている。何か策を練っているのだろうか。
「いいよ、先に帰れよ。疲れてんだろ」
そのホシクズの言葉に背中を押され、今度は一切振り返らずに足を進める。そしてツキと入れ違いにヤマダが階段を上がって行く。ヤマダの右手にナイフが握られているのをツキは知っている。
この後あの男が、ホシクズがどうなろうとツキの知った事では無い。店長の金のことも、ツキとヤマダのことも知っているなら口止めするしかないのだ。本意ではないが、仕方がない時もある。
邪魔者はひとりでも少ない方が楽だ。
弁当屋の店先に停めていた自転車に跨ると、ツキは風に煽られながら家路を急いだ。
決して後ろを振り返らない。
この繁華街から少し離れた古いマンションがツキの今のねぐらだった。
年寄りと外国人、あとはツキと同じような水商売の女が沢山住んでいる。上のワンフロアを、この路線界隈に複数店を出している大手のキャバクラが寮として借り上げている、らしい。
限りなく死に近い塔。ツキは自分の住処をそう思っている。その塔を真っ直ぐに目指す。
叫びたい。
しかし何故か口をついて出てくるのは鼻歌だった。皮肉にもそれは以前ホシクズに教えて貰った洋楽だったが、ツキはそれを誰に教えられたか覚えていなかった。ホシクズが機嫌が良い時によく歌っていた曲。
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