カトウ

 不幸で正常な判断が出来なくなった人間は藁にも縋る。その藁が不良品なことにも気付かずに縋る。


 母は22で僕を産んだ。

 大学4年生の頃で、同い年の違う大学の男とまともな恋愛をしているつもりでいた。

 しかしあっさりと捨てられ、堕ろす時期を逃し、就職も不意にした。

 絵に描いたようなつまらない不幸の女、そんなものが実在する。

 この話だけ聞くとそう見える。

 しかし俺を産んだばかりの頃の母は自分を全く不幸だとは思っておらず、俺を祖父母に預けて仕事を始めた。介護職は端から見ると過酷な労働の割に薄給と思われているらしいが、しかし介護職故に仕事にあぶれる事はそうそう無かった。

 大阪で身内を頼りながらヘルパーとして働いていた時に同僚に旅行に誘われた。その旅行の間、自分は祖父母と3人きりだったが普段の生活と余り変わらなかった。ただ少し不安だった。


 2泊3日の旅行から戻ってきた母は目の色が変わり、よくわからない宗教の信者になっていた。じょうやきょうっていうんだよ、と母は明るい声で宣言した。

「引っ越しだよ」

 目の色の変わった母はそう言って俺の手を握って新幹線に乗った。

 

 しばらくその宗教の総本山のような町で生活したが、母がまたしてもある日突然「東京で働く」と言い出した。

 元々大手の経営する老人ホームの三重県内の施設で母は働いていた。あの町で食品工場以外で働く人間も3割から4割位はいて、母は毎日車で出勤していた。それがなんの気まぐれなのか唐突に「東京の施設に異動願を出した」と言い出したのだった。恐らく理由は金。給料が全然違うの、これで気兼ねなくお布施出来る、と母は言った。しかしトウキョウは大阪より都会なんだろ、家賃も高いし物価も高いんじゃないの、と少し抵抗する素振りを見せると「それは住む場所次第、大丈夫だから」と一笑に付された。金の心配ならするな、と何度も言われた。

 そして自分は15才で、都内の古いマンションで母と2人で暮らす事となった。

 突然の引っ越しとは言え高校受験にはギリギリ間に合う形で都内の底辺高校に受かり、新たな暮らしが始まったのだった。

 新たに住む場所となったマンションは、最近住民の間でのトラブルが相次いだとかで場所が良く広い割には家賃相場が下がっているところだったようだ。駅が近いためか無理に車を持つ必要が無く、母の職場へのアクセスも良く、自分は高校で始めたバイトでとりあえず新しい自転車を買い、トウキョウの生活はそれなりに回った。

 就職が決まり、高校を卒業するという時に母が教習所の金を全部払ってくれた。こんなの俺のバイト代でなんとかなるからいらない、と言ったが、母は「たまには親らしい事をやらせて」と泣き、薄い札束を押し付けてきたのだった。もしかしたら母は本業以外で愛人でもやっていたのだろうかと疑った事もある。多忙で尚且つ高校生の息子がいる年齢の割には小綺麗にしていたと思うから。しかしその疑問を母は笑い飛ばした。

 

 それでも自分が働き始めてから数年で母が過労で亡くなり、宙ぶらりんになった自分にはもう行き場が無くなってしまったのだ。母の職場の同僚のお陰で小さいながら葬儀を済ませ、抜け殻になった自分はなんとなくという理由で仕事を辞めてしまった。

 自分は随分母に振り回されて生きて来たんだなとそこで気が付いた。母は誰にも相談せず大事なことを決める。すぐそばにいる人間のことなど全く考えない。

 大阪にいた祖父も既に亡くなり祖母は滋賀の施設暮らしで叔母家族が面倒を見てくれている。そのため自分の出る幕はほとんどなく、母の死後に遺産処理のために片手で足りる程度会っただけで今はどうしているかわからない。叔母の連絡先も聞いていない。死ねばどこかから連絡位は来るだろうから、まだ辛うじて生きてはいるのだろう。

 自分に父親は居ない。母は最後までそれがどんな男か教えてくれなかった。

 三重に戻るつもりもなかった。

 母に呼ばれて常夜教に入信した親戚が何人かあの町に住んではいた。しかし自分に取ってはそこまで思い入れのある縁者ではない。現在主だった交流がなければそれは血が繋がっているだけの他人だ。血縁など大した意味は無い。それならひとりで細々生きて野垂れ死ぬ方が気が楽だ。

 マンションはひとりで住むには広く家賃も別に払えないわけではないが割に合わないと思ったため引っ越す事にした。

 すぐ近くの数年以内に取り壊される予定だというボロアパートに格安で入居を許され、派遣をしながら貯金と僅かな母の遺産を食い潰す生活。

 トウキョウに来てからの母は役職のある仕事をしていたためかそれ程悪い生活ではなかった。成る程、給料が全然違うと言ったのは満更嘘ではなかったようだ。しかし常夜教にお布施もし続けていたので残ったのは極僅かな金と貴金属。貴金属はマンションの近くの質屋に売り飛ばした。あの質屋は今の店主が死んだらリサイクルショップに鞍替えする予定だとその娘が笑っていた。

 常夜教の祭壇だけは捨てられなかった。

 これが母の1番大きな形見のように感じたから。自分にはそれ程熱心な信仰はない。でも、毎日これに手を合わせていた母の背中を思うと捨てる事が躊躇われた。いつか気が済んだら捨てる。粗大ごみは処分するのも面倒なのだ、如何せん金が掛かる。


 ある日、夜遅く。空調が壊れ寝付けなかったので窓を開けた。古いアパートはこれだからダメだ。それをわかっていて入居したのだが、たまにどうしても苛ついてしまう。

 飲み屋街のためか0時を回る頃になっても外は騒がしく明るい。あのホームセンターの安いやつで構わないからカーテンはつけた方が良いな、と思いながら窓の外を見下ろす。

 不意に、斜向かいのバーのドアが開くのが目に入った。

 そこから出て来た酔っぱらいと、その酔っぱらいを宥めて「地下鉄の駅はあっち、歩けないならタクシー呼びますよ」と大きな声で丁寧に言い聞かせている青年に目を奪われる。

 恐らく青年はバーの店員だろう。

 しかしこれだけ目と鼻の先に住んでいても生活サイクルが違えば顔を合わせる機会もほとんど無い。

 田舎には町内会の回覧板という面倒な制度が前世紀から残り続けていたが、トウキョウでは今や全てメールで済まされる。同じアパートに住む人間の顔と名前が辛うじて一致する程度で、近隣住人や店舗のことなどろくに知らない。酒は好きではないし、食に大してこだわりもない。昔も今も職場の人間とはそれ程交流はなく、年に1〜2回忘年会や歓送迎会に類する大きな飲み会に誘われる程度だ。出席しない事も多い。友達すらろくにいない。高校の時の同級生は全員縁が切れてしまった。そんな自分に取って外食は非現実だ。

 しかし、あの店員の青年に見覚えがある気がする。

 酔っぱらいは景気良く「大丈夫」と2回繰り返してから駅に向かって歩き出した。青年の方はその背中をしばらく眺めてから「お気をつけて」と声を出し、店の中に戻った。なんとなく自分と似た関西方面の訛があるなと思った。

 もしかしたら同じ町の出身なのだろうか。そんな偶然滅多にあることではないが、そうだったら少し面白いなと思った。

 しかし自分も母と共にあの町を出てもう10年近く経つ。あの頃の知り合いについてはもう記憶も朧だ。そういえば卒業アルバムを送って貰った記憶があるが、どこに仕舞い込んだかわからない。多分押入れの奥にあるはずだが、こんな時間にそこをひっくり返す気力はない。

 自分は卒業式の約3ヶ月前にトウキョウに引っ越した。しかし卒業アルバム用の写真撮影だけは年末までに済ませており親切にも当時の担任が連絡をくれてトウキョウに送ってくれたのだった。トウキョウの中学にはほとんど通わなかった。

 母はトウキョウに来てからも定期的に総本山に帰り祭事に参加していたが、自分は学校やバイト、仕事を理由に付き添いを拒んでいた。母には何度も「悪い事が起きるよ」と釘を刺されたが、正直トウキョウの生活にはそれ程大きな不満は無く、母が死んだ事より悪い事は今のところ起きていない。むしろ人の死より悪い事なんて大した事ではないと思っている。今、安アパートでいわゆる底辺スレスレの生活であることは認める。でも正直自分はホームレスになったとしても構わない、むしろそれで野垂れ死ぬならそれが自分の運命なのではないかと思っている。


 そういえば常夜教が牛耳るあの町に住んでいた頃、小学校にやたら目立つ少年がいた。

 自分の通っていた中学校から歩いて1分程の所に小学校があり、通学路はほぼ共有状態。朝は沢山の小学生と中学生が混じり合って通学しているようなものだった。当時、中学生の間で時折話題に上る小学生がいた。

 色白で綺麗な顔で妙に目立つ子で、田舎で言ういわゆる「本家」の子だと聞いていた。

 彼が行く行くは常夜教の次の巫女に選ばれるのではないか、と専らの噂であった。

 中学校には彼の姉も居たが、そちらは余り目立たない大人しい少女であった。


 そう、バーの店員はあの本家の子供に似ている気がする。むしろその姉の面影を感じる。でも多分他人の空似で、自分は過去のセンチメンタルに襲われているだけだろう。


 その数日後、コインランドリーで偶然彼に会った。

 自分は丁度洗濯を終えて乾燥機にそれを移し替えようとしていた。バーの店員は洗濯機の中を覗いて「すいません、タオル、忘れてませんか?」と聞いてきた。慌てて「すいません」と返事をしてタオルを受け取った。綺麗な声だなと思った。彼は洗濯機にコインを入れ、洗濯機が回り始めた事を確認すると腕時計を見ながら一旦ランドリーから出て行った。

 出入り口で躓きそうになったのか、少し足踏みをしてから。


 ヤマダは言った。

「別に生きててもなんも楽しくないよ、死ぬ理由と死ぬ原因が無いだけだ」

 わかるけれど、それはなんとなく自分の思想とは違う気がした。

 カトウは安アパートを追い出され、ネットカフェで暮らしていた。出来るだけ安い所。元々生活していた駅から3駅先にとりあえず落ち着いた。

 急な退去だったため、まともに引っ越し出来る金は無く荷物は最低限しか持ち出していない。

 安アパートの主は「まあそのうち取り壊す予定だし、でかい家具とかいらないものは多少なら置いていってもいいけどね。そりゃ出来れば自分で処分して欲しいけどさ」と言った。

 カトウは祭壇を諦めた。

 しかし安アパートはすぐに取り壊されるかと思いきや、親族間で遺産相続に纏わる揉め事が起きたようでしばらくそのままにされているようだ。

それなら自分は追い出される必要などなかったのではないか。

 古民家はリフォームすれば金になると言い出した人間がいたそうだが、しかし日本のような災害の多い国で古い建物はリスクも高い。なかなか話し合いが進展しないようだった。

 どこにでもお喋りな人間はいるものだ。

 ネットカフェで知り合ったヤマダはなんでも知っていた。

 その頃のカトウは住所を無くした事で新しい仕事も上手く決まらず、困り果てていた。

 前歯の無い戸籍ブローカーに声を掛けられ揺れていたが、なかなかその先に踏み出せずにいた。

 そこまで墜ちたらもう終わり。本当にホームレスまっしぐらだ。だけど。


 ネットカフェのあるビルの屋上は昼は庭園として開放されているが夜は施錠される。


 ある日カトウは気分転換に屋上庭園に上がり、しばらくベンチに座り込んでいた。今日は警報が出ているのでガスマスクをしたまま濁った空を見つめている。

 気分が乗らない。

 そんな時、以前は何をするわけでもなく祭壇の前に座り込んでいた。

 そこには神なんていない、母もいない。そんな事はわかっていてもぼんやりとその細やかな細工を見つめていた。

 今はそれがない。仕方のないこととわかっていても空虚だなと思ってしまう。

 トウキョウの空気は汚い。

 大阪も大概だったが、そういえば宗教の町は比較的過ごしやすかった。母をおかしくしてしまった場所ではあるが、そこは悪くなかった。

 

 立ち上がるのが億劫だ。辛い。


 最近そう思う事が増えた。


 最近体調が悪いので病院に行きたい、でも金がないんだよ。流石にこういう生活も長くは続けられないよな。正直自分なんていつ野垂れ死んでもいいと思ってたけどさ、いざ死の匂いが近付いて来ると怖いんだよ。なあ、ヤマダさん、少し金貸してくれないか?こないだ戸籍ブローカー紹介してやったじゃん。少し位謝礼くれても罰は当たんないでしょ。


 


 

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