取引

 ヴァーミリオン2階の窓が僅かに開いている。

 その隙間から漏れているのは多分タバコの煙だろうか。今時、電子でも紙でもパイプでも、タバコの類を吸う人間は本当に減ったという。昔はどこでも煙草が吸えたと聞く。そしてあの星波という男は、ごくたまに気紛れで吸う事がある、と以前店で話していた。

 あちらの窓は半分だけカーテンが開いていて、そこにいるのは恐らく桂ではなく星波だ。シルエットでわかる。その窓際にはいつも物が散乱しているのを知っている。いつかあの男は火事を起こすのではないかとやきもきしているが、今のところ無事なようだ。あんな古い長屋のような建物、火の手が出たらあっという間に全焼してしまうだろうに。


 火は全てを浄化する、しかし代償も大きいことを忘れるな。


 常夜教にはそのような教えがある。

 だからこそ火の扱いには常に気を使うように、と子供の頃から教え込まれるのだ。

 不意に窓越しに星波と目が合った、ような気がした。向こう側にいるあのいけ好かない男はツキの顔を確認すると、鼻で笑うような表情を見せ、カーテンを閉めた。ツキも慌ててカーテンを閉める。この間、ほんの数秒。

「ツキさんどうしたの」

 カーテンを掴んだ指が震えているのが自分でもわかった。

「………あの男に見られた」

「はあ?」

 ヤマダは明らかに不愉快そうな顔を隠さない。その声には明らかに怒りが滲んでいた。

「やっぱあの男先に殺すしかないじゃん」

 彼はそう言ってホシクズから奪ったガスマスクを被り、部屋から出ようとする。

「待って、急いでもいいことない」

 ツキの引き止めに、ヤマダはドアのところで一旦立ち止まったがあきらかに不服そうだ。邪魔をされたくない、そういう声が聞こえた、ような気がした。

「じゃあどうすんの」

 苛ついたヤマダの声。このアパートで不法侵入者が騒ぎを起こす度にあの真山がいちいち通報しているのは知っている。

 そうなるとここはもう桂様の監視には使えなくなる。この界隈で勝手に使える空き住居や空きテナントなどほとんどないのだ。大体が不動産屋が厳しく管理しているし、今日のホシクズの死体を隠せた事とこのアパートを好き勝手使えていた事だけは奇跡のような偶然だったのだから。

「殺すのは早計過ぎる、それより先に脅迫の方が安全なんじゃないの」

 桂様の命を担保にすれば、あの男は言う事を聞くだろう。

「いや、殺す方が早い。巫女様は混乱に乗じた方が攫いやすいだろ、今が潮時だよ」

 その時、ヤマダのナイフが床に落ちている事に気付く。ヤマダがそれに気付くより先にツキはそれを右足で踏んだ。舌打ちが響く。

「まだ少し時間はある、もう少し話し合って決めよう」

 出来るだけ、出来るだけ冷静に、声が引っ繰り返らないように気を付けながらそう声を掛けた。ヤマダは無言で立ち尽くしている。多分マスクの下でこちらを睨んでいる。ふと、その時ツキの携帯電話が鳴る。手でヤマダにそこに留まるように制しながら通話ボタンを押す。

「どちら様」

『………警察に通報する前に一応逃げる時間位はあげようと思ったんだけど』

 この低く響く声は真山星波だ。

「なんで私の電話番号知ってるの」

『前に商店街のイベントの時、必要になるかもしれないからって町内会長に無理矢理連絡先交換させられただろ』

 そうだ、あれ以来特に積極的に真山と絡む事も無かったからそんなことすら忘れていた。

『俺はあなたが誰だか知ってる』

「私もあんたが何をしたか多分知ってる」

『多分、じゃ俺に勝てないでしょ』

 恐らく電話の向こう側であの男はまた人を嘲笑うような顔をしているのだろう。

『ツキさん、今そこにひとりでいるの?』

「そうだけど」

 すぐばれるであろう嘘を咄嗟についてしまう。なんでそんな嘘をついたのか、自分でもよくわからない。

『下に停めてある車、あなたのじゃないでしょ』

「違法駐車でしょ」

 声が、裏返らないように。今日はずっと、何かを自分に言い聞かせながらしゃべっている。そんな気がする。狂いそうだ。ずっと自分を偽っているような、我慢を強いられているような、最悪の気分だ。

「………今すぐ出て行くしもう金輪際あんた達の部屋は覗かない、だから通報は待って。警察とは関わりたくない」

『俺のお願い聞いてくれたらとりあえず今はその部屋のことは黙っておくけど』

「何」

『今すぐにとは言わないけど、桂に付き纏ってるもう1匹のハエをあなたが始末してくれたら。なんか俺のことやたら敵視してくる男。始末までは行かなくとも、田舎に送り返すだけでも構わないよ』

「ヤマダのこと?」

 そのツキの言葉にヤマダが反応する。ツキとヤマダはしばし真正面で睨み合う。とは言えヤマダの表情はガスマスクで全く読めないのだが。

「………もし私がこの会話を録音してたらどうするつもり?」

『してないでしょ、あなた意外と小心者だし。無理?』

 真山のどこか甘えたような声。腹が立つ。

「そんな簡単に言わないで」

『それが桂の命を守るためでも?』

 揺れる。信仰心を試されている。改めて真山とはとても嫌な男だ、と思う。

「それはどういう意味?」

『俺が死ねば多分桂も後を追って死ぬよ』

「それ本気で言ってるの?」

 真山の事で追い詰めれば追い詰めるだけ桂様は狂う。ヤマダの想定は間違ってなかったということか。わからなくはないが、この3年の間に一体どれだけの事が彼らにあったのか。私はどれだけ桂様に羨望の眼差しを向けてもなんの見返りもなく、しかし巫女様と信者の関係なのだからと自らに言い聞かせて来たというのに。

『あの男のこともあなたのことも俺は敵だと思ってる、でもあの男の方が明らかに酷い危害加えて来そうで嫌いなんだよね。ツキさんはまだ話せばギリ説得出来そうだから』

「それは少し考えさせて欲しいんだけど、リスクが大きいから」

 ツキを小心者と思っている癖に随分大胆な提案をしてくる男だ。実際自分は弱くてずるい。ヤマダ程狂気に徹することが出来ないでいるのは事実で。

『じゃあ今すぐ通報するわ、ばいばい』

「待ってよ」

『ていうかさ、あなたさ、ライブハウスの店長の金、全部持ってるでしょ』

「はあ?」

 思わず大きな声が出てしまう。流石にそれは濡れ衣にも程がある。

『俺の勘違いじゃなければ、その部屋かアパートのどこかに全部あるだろ』

「私はショボい茶封筒で10万しか貰ってない」

『ならヤマダかな。なあ、あの店長、今でもまだ生きてると思ってるの?金を俺と山分けしようよ、取り分はツキさんが多くて良いからさ』

「ふざけないで」

『5分後に警察に通報する、俺との約束守ってくれるなら5分後に電話して』

 通話が切れる。ヤマダがマスク越しのくぐもった声で「で、あいつだろ?なんだって?」と聞いて来る。ツキは1回深呼吸をする。マスクをしているのにくしゃみが出そうだ。

「………話がしたいから店に来て欲しいって」

 この嘘は全く声が震えずに口に出来た。ヤマダはツキの言葉を素直に信じたのか「俺のナイフ持って来いよ」と言って先に部屋を出て行く。ツキは急いでナイフを右手で拾い、その後ろを追う。

「ねえヤマダ、あんた店長がどこ行ったか知ってる?」

 軋む廊下でそうヤマダの背中に聞くと、彼は上半身だけ少しこちらに向けてだるそうに答える。

「先月自殺したよ」

「嘘、金持って北海道に行ってその後港から海外に亡命するって言ってた」

 ここ数年、北海道の一部で治安が悪化しているらしくとある港が亡命の拠点になっているという話を店長がしていたのだ。どこまで事実かはわからないが、出るも入るもガバガバの状態らしい。

 本当はなんで店長のメンタルが壊れたのか、なんで突然金を持って逃げたのか、ツキは全部聞いていた。

 ツキに甘い言葉を囁く一方でヤクザの女に手を出してトラブルになったからだ。あの女は様子がおかしいからやめた方がいい、そう何度も言ったのに。でも店長は大丈夫だよ、としか言わなかった。全然大丈夫じゃなかった。

「偶然、偶然配送先で見掛けたんだよ。いきなりいなくなってあんな騒ぎ起こしておいて、そんな遠くに行ってなかったんだなって驚いてさ。灯台もと暗しって奴?こんな簡単な人探しもあるんだなって」

 一時的に金持ちの親戚の家に身を隠してるってわかってさ、ツキさんの名前だしたらあっさり会ってくれたしあっさりなんでもベラベラ話してくれたよ、とヤマダはペラペラと喋る。

 そう言えばヤマダはあのライブハウスにも定期的に配送をしていた。そして恐らく店長の金持ちの親戚とは別れた妻の実家だろう。あの大きな家なら成人男性ひとりくらい隠せる。店長の元妻がどんな女なのか知りたくて家の前まで行った事があるからわかる。

「別にあの店長は生贄にするつもりはなかった、ただ金は欲しかった。金は幾らあっても困るもんじゃないだろ、巫女様へのお布施も必要だよ」

 だから直接手は下してない、とヤマダは言い切る。ツキさんが店長のことで病んで手首切ったって嘘はついたけど、と付け加えながら。あの店長には泣き落としが効くと思ったから、とヤマダは言い切った。

「俺も死体は見てない、元奥さんが泣きながら港で靴だけが見つかったって言ってたの聞いただけ」

 ライブハウスの関係者ですって嘘をついたらお金はほぼ全部貰えた、とヤマダは続けた。実家があんだけお金持ちならそりゃ汚い金なんていらないだろう。

 自殺なのか、ヤクザに攫われたのか、どちらかははっきりしない。

 しかしこの男の嘘で店長がこの世からいなくなった事がわかっただけだ。

 駄目だ、この男は汚れ過ぎている。

 信用出来ない。

 もう桂様に近付けてはいけない。

 これ以上、私の大切な物に触らせてはいけない。

 頭に血が上る、とはまさしく今の瞬間のことだ。


 そこからヤマダを階段から突き落とすのに躊躇いは無かった。


 階下でまだ息のあるヤマダを抱き起こし、肩を貸す。足でも滑らせたの?と耳元で囁きながらもニヤニヤが止まらない。病院行こうか、私が車運転するよ、と適当な言葉を口にしながらゆっくりと外に出る。ヤマダは頭を打ったからだろうか、ツキにされるがままで何も話さない。ただヒューヒューとした息が喉から零れるだけ。フルフェイスマスクのお陰か、階段の下にも階段にもほとんど血痕は落ちていないようだった。懐中電灯でさっと辺りを照らし、革ジャンのポケットに仕舞った。ツキは夜目が効く。この程度の暗がりなら問題なく動けるはずだ。

「大丈夫?」

 ツキは抱きかかえたヤマダの耳元にそう囁きながらドアをそっと開ける。隙間から周囲を見渡す。運が良い、天気が悪い上に警報が出ているからだろうか、人がいない。ゆっくりではあるが肩を貸しながら虫の息のヤマダを無理やりひきずるように歩かせ、ヴァーミリオンの前にそっと座らせる。ドアの前だと邪魔になるからその横に。

「ごめん、私やっぱ車の運転苦手だからさ、救急車呼んであげるね?」

 ヤマダの耳元でそう囁いたが、ささやかな呻き声しか聞こえなかった。余程打ちどころが悪かったのだろうか。良い気味だ。しかしこのままでは安心出来ない。ツキは持っていたナイフでゆっくりと至近距離から彼の胸の辺りを刺す。そしてスマホから真山に電話を入れた。

『もしもし』

 眠そうな声が響いて来る。

「あんたの言う通りにした、死体はわかりやすい場所に捨てていくから後でニュースでもなんでも見て確認すればいい」

『1分オーバーだけどいいよ、今日は通報しない、でも』

「何」

 冷たい空気が刺すようにツキの体を震わせる。

『あんたが警察に俺について余計な事を話したら桂がどうなるかわかってるよね、俺は人質のつもりで桂をずっと手元に置いてる』

「わかってる、何も言わない、私はヤマダと個人的に揉めただけ」

 ヤマダにキレたのは嘘ではない。そもそも真山が桂を殺すとは思っていない。ただ、一生あの町には戻さないつもりなのだろう。

 真山は多分あの町を恨んでいる。

 理由はわからないが、何か特異な、嫌な感情で以てあの町を、あの宗教を見ている。

 お互い理解し合えないのならもう仕方ない、美しい桂様の命を繋ぐため、という同じ目的のためだけにお互い嘘を付き合うしかない。

『今日はもう帰って休みな、お休み』

 やる気のない真山の声はそうしてすぐに切られる。

「体調悪いの?」

 そうヤマダの耳元に囁くとそっとその胸からナイフを引き抜いて、革ジャンのポケットからヤマダのスマホと車の鍵を抜き取った。

 ツキはヤマダの軽自動車に乗り込むと、ヤマダのアパートに向かって走り出した。

 アクセルを踏む瞬間、バックミラー越しにあの店の前を見る。

 店の前にいる死体は、泥酔して眠り込んでいるだけの大男にしか見えなかった。

 この車はヤマダのアパートの前の駐車場に停めておけばいい。確か契約していたのは2番のはずだ。ヤマダのアパートからツキのマンションまでは歩いて5分も掛からない。そして後でもう1度、ヴァ―ミリオンの様子を見に来よう。なんとなく、すぐに自分は捕まるような気がした。さっきからやっていることが全て衝動的で、全て隙だらけだ。冷静にそう考える余裕だけは何故かあった。だけれどまだ少しだけ、猶予があるように思う。今はとりあえず新しい服に着替えたい。あとついさっき、スタジオのスタッフに約束した来月のライブの予定。あれも早々に反故にしなくてはならない。連絡するのが憂鬱だ。


 ヴァーミリオンの常連客が店の前で行き倒れに声を掛けたのがその約15分後。


 警官に声を掛けられ、カバンの中を見られ、パトカーに乗るように促された。

 ヤマダがずっと人を殺し続けていたナイフをずっと持っているのも気分が悪く、どこかに捨てようとうろついていたら警官に捕まってしまったのだ。

 今日はとても疲れていて、とても体調が悪くて、抵抗する気力も湧かなかった。

 パトカーの後部座席に座っていた桂様が警官に声を掛けられ外に出てくる。ツキは俯いたまま入れ違いに後部座席に座る。桂様はまた右足から外に降りた。顔は見られなかった。彼の匂いだけがツキを包む。あの店特有のアルコールの匂い。違う、真山の香水の匂いだ。腹が立つ。

 桂様は何度かこちらを振り返りながら、それでも足取りは強く真っ直ぐと店に戻って行く。躊躇わずにあの真山の元へと行ってしまう。

 本当は行かないで欲しい。

 店長みたいにいきなりいなくなって欲しくない。

 私をもっと見て欲しい。

 あの町に連れ戻す事が、今年の大祭を成功させることが桂様のためだと思ってずっと動いてきたはずなのに。

 ツキが何者なのか知っていて欲しかった。

 それでも桂様に取ってツキはその他大勢、あの町に住む何千人という信者の1人でしかなく顔など認識しているはずがない。今だって恐らく「ホシクズが働いていたライブハウスによく出演していたミュージシャンの1人」程度にしか思っていないだろう。


 常夜教の筆頭巫女は実質「代替わりしていく教祖」と思って差し支えない。

 大祭の終わり、集まった多くの信者達の前で新たな筆頭巫女がお披露目された10年前。その時から既に桂様は美しく、ツキの目を奪った。まだ小学生だったというのに、それでも。


 ヴァーミリオンのドアが閉まり、看板が瞬きのように短く点滅する。


 任務に失敗すれば死も同然。しかしあの瞬間、ヤマダに対して怒りが爆発してしまった自分はもう元に戻せない。


 私はもう桂様に会えない。


 バカだな。




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